あれっ?この子、いつまで赤ちゃんでいる気なの?
5.あれっ?この子、いつまで赤ちゃんでいる気なの?
桂子さんの赤ちゃんの彩ちゃんは、寝ているか泣いているかお乳を飲んでいるかで、まだ、しゃべったり歩いたり出来ません。
まあ、私も似たようなものですが、私は大人ですから、しゃべることも出来るし…もちろんネコ語ですが…階段も下りられるし、押入の中段にもひとっ飛びできる。
私が赤ちゃんの頃は、お乳だって自分からもらいに行ったのにこの子ったら、何一つ自分では出来ないのだから、相当の落ちこぼれだわ。
桂子さんったら、こんな落ちこぼれの赤ちゃんを、どうして、あんなにかわいがるのか、ちょっと理解できないなあ。
私は、彩ちゃんのそばに、よく行くのですが、あれ(油断して顔面パンチを食らった)以来、パンチどころか触ることすら許していません。
普通にしていればこんなものです。
これが貫禄の違いと言うものです。
桂子さんは、たまに、実家の仕事も手伝いますが、大体は仕事が忙しいおばあ様に代わって、家事をしています。
彩ちゃんが寝ているときは、居間にベビー布団を敷いてそこに寝かせています。
私は彩ちゃんの横で一緒に寝ていることが多いのですが、せっかく気持ちよく寝ていると、いきなり、泣き出してしまうのでびっくりします。
彩ちゃんが泣いたときは、たいてい、おなかがすいたか、オムツが気持ち悪いかのどちらかです。
桂子さんは、彩ちゃんが泣き出すと、オムツを確かめ、おしっこで一杯になっていたり、ウンチをしていたらオムツを取り替えてあげます。
オムツが大丈夫だったら、お乳をあげるのです。
それでも泣き止まなければ、おんぶして洗い物やお掃除をしています。
お昼ご飯の後片付けが終わると、桂子さんは彩ちゃんをおんぶしてパチンコに出掛け、夕食の買い物をしてから帰ってきます。
パチンコ屋さんみたいにうるさいところに彩ちゃんを連れて行って大丈夫なのですか?
彩ちゃんが眠っていたので夕食の支度をしている間、桂子さんは彩ちゃんを居間のベビー布団寝かせました。
「あっ、忘れてた。」
桂子さんはそう言って、彩ちゃんの耳元に手をやりましたが、思いとどまってこう続けました。
「せっかく寝ているから起きてからでいいか。ねっ?ミーニャ。」
“ねっ”と言われても私には何のことだか分りませんでしたが、彩ちゃんの耳元を覗きこんで納得しました。
彩ちゃんの耳には、ティッシュを丸めた耳栓が詰め込まれていました。
やっぱり、いくら赤ちゃんだと言っても、パチンコ屋さんの中で平気でいられるはずはありませんよね。
大輔さんが休みのときは、早起きして、開店前にパチンコ屋に並びます。
10時開店のパチンコ屋さんに間に合う時間に起きることが、桂子さんにとって早起きになるのです。
パチンコに行かないときは、お昼ころまで部屋から出てきません。
起きているのか、寝ているのかは分りませんが、彩ちゃんのおかげで、夜も昼もない生活が続いているので、大輔さんが休みの時には羽を伸ばしたいのでしょうね。
大輔さんも工事現場で仕事をしているらしいですから、普段はとても疲れているのではないかと思います。
それこそ休みの日はゆっくりしたいでしょうに、彩ちゃんを押しつけられてしまっては、なんだかかわいそうな気もしますが、大輔さんはとても楽しそうに彩ちゃんの面倒を見ています。
桂子さんと大輔さんは、結婚する前、よく、パチンコ屋さんでデートしていたそうです。
結婚してからもよく一緒に遊んでいたそうですが、彩ちゃんが生まれてから、大輔さんはパチンコをしなくなりました。
もともと、大輔さんは長い間、座り続けてパチンコをやっていられるほどの粘りは持ち合わせていなかったみたいです。
今ではもっぱら、休みの日は大輔さんが彩ちゃんの子守りと、家事をやっています。
彩ちゃんはいつも桂子さんの背中で気持ちよさそうに寝ています。
私はおかげさまで、このところちっとも桂子さんの膝の上に乗っかることができません。
彩ちゃん、早く大きくなってくださいね。
あなたが一人で何でもできるようにならなかったら、いつまでたっても桂子さんはあなた中心になってしまうのですから。
彩ちゃんが生まれて、いちばん変わったのはおじい様かもしれません。
どうしてかというと、やっぱり、彩ちゃんが男のだということが一番ですね。
おばあ様と結婚してからというもの、お子様たちは3人女の子で、近所や学校のお付き合いで、家に出入りするのも子供たちの友達だったり、そのお母さんだったりで、女ばかりだったものですから、肩身の狭い思いをしていましたから。
もっとも、ほとんど家にいることはありませんでしたからそれほど気にはなっていなかったかもしれませんが、彩ちゃんが生まれた時は、それは、それは、嬉しそうにしていたのです。
桂子さんが入院したその日こそ釣りに出掛けてしまいましたが、帰ってくると、病院に来て彩ちゃんをずっと眺めていましたから。
おじい様が、孫の顔を見るために病院に足を運んだのは、お迎えを覗けばこのとき一度だけでしたからね。
今は、彩ちゃんをお風呂に入れるのが楽しみでしかたないようです。
おじい様がお風呂に入った時、彩ちゃんを預けると、「いやだよ、そんなの。」と言いながらも、自然と目がほころんでいます。
そういえば、私も一度、お風呂に入れてもらったことがありました。
私たちネコは基本的に水に濡れるのが大嫌いなのです。
だからお風呂なんかには入りません。
そのためにいつも暇さえあれば毛繕いをしているのです。
ある日のこと、おじい様が食事中にご飯の茶碗をひっくり返して傍で寝ていた私の上にご飯をばらまいてしまったことがありました。
いきなりの出来事に私はびっくりして飛び上がってしまいましたが、みんなは私のことを笑っていました。
冗談じゃないですよ。
こんなにご飯粒がくっついてしまっては毛繕いどころではありません。
おじい様は「やっちゃったよ。ミーニャンごめん。」そう言って私を掴みあげると、一粒、一粒、ご飯粒を取ってくれていましたがやがて面倒くさくなってしまったようでそのまま私を抱えるとお風呂場へ連れてきて、いきなりシャワーをかけたのです。
その頃はまだ、夜風が冷たい時期だったので、出だしのシャワーはとても冷たかったです。
「なんだ?水か?」
おじい様ったら、まったく無頓着なんですから!
自分がシャワー浴びるときは、お湯が出てくるまでちゃんと確認するのでしょう?
いつも、撫で撫でしてかわいがってくれているようなことをしているのは見かけだけなのですか?
こんな目にあわせるのなら、もう、あなたのそばには行ってあげないわよ。
私は、水をかけられたから怒っているのではないのです。
私をネコだと思って、気を使うべきところに気を使ってくれないような神経が許せないのです。
そんなことでは、私のご主人さまとしては失格です。
まあ、そのあとはちゃんとご飯粒をきれいに取ってくれたので感謝していますが…
毎日が同じようなリズムで、あっという間に三ヶ月が経ちました。
私は生まれてから一年になろうとしています。
人間で言ったら、もう二十歳です。
ネコの世界では、生まれて三ヶ月もたてば、幼稚園くらいの子供に成長しています。
ところが彩ちゃんったら、三ヶ月経った今でもまだ床に転がっているか、桂子さんの背中にいるのです。
この子はどうして大きくならないのだろう?
私が今まで見てきた人間は、桂子さんをはじめ、ほとんど大人の人間だったから気がつきませんでしたが、もしかして、人間の子供っていうのは年をとるのが遅いのかしら?
そうとしか考えられません。
いえ、そうでなければおかしいもの。
私たちネコは生まれて一年で、人間でいう大人として認められる二十歳です。
人間でいう二十歳ということは、20歳だということですよねぇ?
20歳だということは、20年生きているということで、人間の子供は、ネコが一年で大人になるところを、20年もかけて大人になるのですね。
何とも気の遠くなるようなお話です。
彩ちゃんが大人になる20年後には、私は人間に例えると100歳を超えていることになるのです。
そこまで生きていられるかどうか、自信はありません。
近頃は、彩ちゃんもかなり表情が豊かになってきました。
特に笑っている時の顔ときたら、たまらないほどかわいいのです。
私がそばを通り過ぎようとすると、寝返りを打って、腹ばいになり、一生懸命手を伸ばして私を捕まえようとします。
まだ歩けもしない赤ちゃんに、私は捕まるはずはありませんが、そういう奢り(おごり)は、えてして、数倍になって返ってくるしっぺ返しの元になるということを私は知っているので、決して油断しません。
もしかしたら、歩けないふりをしているだけで、私が油断したとたんに、いきなり立ちあがって、襲いかかってくるかもしれませんからね。
えっ?考えすぎ?
いえ、いえ、思い込みはいけません。あらゆる可能性を常に考えて行動しなくては!
それが我々ネコがこの世界で生きていくための術ですから。
まあ、三歩あるけば忘れてしまうので、そうせざるを得ないともいえるのですが…
ネコは三歩あるくとそれまでのことを全部忘れると言われていますが、実はそんなことはありません。
現に、私の場合もこの家に来たときのことはいまだに覚えていますから。
それに最近トンとご無沙汰していますが、心地いい桂子さんのひざの上…
ああ、桂子さん、はやく私をひざの上に乗せてくださいな。
そんな彩ちゃんも、半年を過ぎる頃にはハイハイでどこにでもいけるようになりました。
抱っこして立たせてあげると、テーブルにつかまって立つことも出来ます。
ただ、一人で歩くまでにはまだ少し時間がかかりそうです。
「ねえ、パパ!ほら見て!彩が一人で立ってるよ。」
桂子さんの声に大輔さんが振り向くと、彩ちゃんは両手を上げて一人で立っていました。
「おー!すごいじゃないか。もうすぐ歩けるかなあ。半年で歩いたらすごいよねぇ!」
「本当!だいたい歩けるのは1年くらいだって聞いてるから、半年で歩いたらすごいよ。パパ!早くカメラもっておいでよ。」
「よしきた!」
大輔さんが立ち上がるのとほぼ同時に、彩ちゃんは尻もちをついて座り込んでしまいました。
「あー!残念。」
「もう!これからは、いつも手の届くところにカメラ置いておいたほうがいいわね。」
「そうだな。まあ、今のはちょっと残念だったけど、次のチャンスは逃さないようにしないとな。」
大輔さんは立ち上がったついでに、カメラを取りに部屋へ戻りました。
大輔さんは、彩ちゃんが生まれるとすぐに、新しいカメラを購入しました。
フルオートで、28ミリの広角から110ミリの望遠までのズーム機能があるものです。
これは、親子遠足や運動会を見越してのものことなのでしょう。
大輔さんは、独身時代、写真が趣味で、特に、史跡・名跡の写真を好んで撮っていました。
現場の仕事が一段落すると、一週間ほどまとめて休みを取り、あちこちへ出掛けて行っては写真を撮っていたそうです。
そのときに必ず、行った先で通行手形を必ず購入していました。
将棋の駒の形をした観光地には必ず売っているお土産品で、提灯やキーホルダーに並ぶ人気商品でした。
大輔さんが最後に購入したのは以外にも、自分の実家がある大分県の日田のものでした。
日田は、大分県内でもまあまあの観光地ではありましたが、実際に住んでいた場所だったので、帰郷したときも観光に来た意識がなかったため買って帰らなかったのです。
桂子さんを両親に紹介するとき、日田へ連れて行った帰りに駅前のお土産やで桂子さんが見かけて、声を掛けたのです。
「ねえ、大ちゃん!大ちゃんの部屋にこれ一杯あるけど、日田のってないよねぇ。」
大輔さんは桂子さんが手にとった通行手形を眺めると、自分も手にとってしみじみと見はじめました。
「そうだな。ここへは観光では来てないからな。」
そう言うと、通行手形を持ってレジへ向かいました。
その通行手形は、この日買った日田のものがちょうど百個目になりました。
結婚して、桂子さんの家で一緒に暮らすことになったとき、当時行きつけていた居酒屋の店長に全部あげて来たそうです。
それは今でもその店の長押の上に並べられているそうです。
チャンスは偶然にやってきました。
大輔さんが、イザというときに備えてカメラの手入れをしていると、彩ちゃんはいつものようにハイハイして部屋の中を動き回っています。
大輔さんは手入れが終わると、ファインダー越しに彩ちゃんの姿を観察していました。
すると、彩ちゃんは部屋の端までハイハイすると、タンスにぶつかり行く手をさえぎられると、上体を起こして上を見上げています。
その表情がなんとも言えず愛らしかったので、大輔さんは1枚シャッターを切りました。
そして、彩ちゃんのそばに近づいていくと、上から覗き込むようにしてカメラを構えました。
すると、彩ちゃんはカメラに興味を示し、手で掴もうと一生懸命手を伸ばし、タンスの縁につかまって立ち上がりました。
「おっ!もしかすると…」
大輔さんは彩ちゃんの好奇心を利用して、少しづつカメラをタンスの際から放していきました。
「よし、よし!いいぞ!さあ、来い、来い!」
彩ちゃんはカメラを追って、くるりとタンスに背を向けると、両手を離して一人で立っています。
大輔さんが更に離れると彩ちゃんは一歩足を踏み出しました。
「やった!」
大輔さんはカメラのシャッターを連射して残っていたフィルムをすべて使い果たしました。
彩ちゃんは、この日、一歩だけ足を踏み出して尻もちをついてしまいましたが、歩けるようになるのは意外に早いかもしれませんね。
大輔さんは、カメラからフィルムを取り出すと、すぐに彩ちゃんを抱っこして近くの家電量販店へと出掛けていきました。
もちろん、今取り終えたフィルムをプリントしてもらうためですが、実は、以前からビデオカメラを購入したいと思っていたのです。
彩ちゃんが歩き始める兆しを見せ始めた頃から、最初の一歩はどうしても動画で撮りたいと思っていたのです。
しかし、ビデオカメラとなると、そう簡単に購入できるほど安価なものではなかったのであきらめていましたが、前の日の土曜日、現場が銀座の場外馬券売り場の近くだったのでメインレースの馬券を千円づつ三点、三千円分購入していたのだが、何とそれが当たっていて、しかも、いちばん高い配当金の組み合わせが的中していたのです。
すぐに払い戻しに行くと、¥213,800になったそうです。
そしてこの日、思い切って、最新式のビデオカメラを¥189,000で購入したのです。
家に帰ると、彩ちゃんは抱っこされて眠ってしまっていたので、そっと布団に寝かせると、早速、ビデオカメラの取扱説明書を取り出し、読み始めました。
しばらくすると、彩ちゃんが泣き出したので、オムツをチェックすると、おしっこが一杯だったので取り替えてからミルクを作って飲ませてあげました。
あやちゃんは200mlのミルクをあっという間に飲み干すと、満足そうに微笑んでいます。
大輔さんは、彩ちゃんを抱っこして、背中をポンポン叩いてゲップをさせてあげると、再び抱っこしてゆらゆら揺らしてやるとお腹一杯の彩ちゃんはまたすぐに眠ってしまいました。
大輔さんは再びビデオの操作方法を確認すると、眠っている彩ちゃんにカメラを向けてみました。
RECの文字と赤いランプが画面の中に見えます。
少しだけ撮ると、ケーブルをテレビにつないで撮った画面を確認しています。
「よしっ!」
大輔さんは、ビデオカメラの操作方法をほぼ覚えて満足そうに彩ちゃんの寝顔を眺めています。
私もお腹が減ったので、エサをもらおうとニャーと声を掛けると、さすが大輔さん!すぐに分かってくれました。
「何だ、ミーニャ。ひもじいのか?」
そういうと、台所に向かい、私の器を持って流しできれいに洗ってくれました。
それからティッシュで水気を拭き取り、マグロ味の缶詰を入れて食べやすいようにほぐしてくれました。
水も、器をきれいに洗ってから新鮮なものに入れ替えてくれました。
やっぱり、きれいな器で頂く食事はとても美味しいですよ。
桂子さんが帰ってくると、大輔さんはビデオカメラを嬉しそうに掲げて自慢して見せました。
「どうしたの?それ!買ったの?いくらしたの?よくそんなお金会ったわね…!あっ、競馬でも当たった?」
「そのとおり、万馬券ゲットだぜ!」
大輔さんは、自分がいないときに桂子さんが撮影できるようにビデオカメラの操作方法を丁寧に教えてあげています。
桂子さんもビデオカメラの操作方法を覚えたので、後はいつでも好きなときに歩いてくれという感じですね。
そのあと、二人でお茶を飲みながら、大輔さんが今日撮った写真を見ていると、おじい様が帰ってきたので、桂子さんは夕食の支度をはじめました。食事の支度が出来る頃におばあ様と広子ちゃんも帰ってきました。
広子ちゃんは、テーブルの上の写真を見ると、笑いながら、聞いてきました。
「彩、歩いたの?」
「そう!一歩だけど。」
「すごいじゃん!」
広子ちゃんは、全部の写真を見終わると、キューリのお新香をひと切れ口の中に放り込み、次に、ビデオカメラがあることに気が付きました。
「すごーい!これ買ったの?ねえ、見せて?」
「おお、いいぞ。」
大輔さんは、桂子さんに教えたのと同じように、広子ちゃんにもカメラの操作方法を教えてあげました。
撮影者は多いほうが、決定的瞬間に遭遇するチャンスも増えると言うものだ。
大輔さんは、ビデオ撮影は自分しかいないとき意外は、二人に任せるつもりでいました。
文明の利器には魅力がありますが、大輔さんはやっぱり、写真のほうが好きみたいです。
そんな家族のことなど知る芳もなく、彩ちゃんは気持ちよさそうにぐっすり眠っています。
この日の夜、彩ちゃんがお風呂に入っている間だけ桂子さんは私をひざの上に乗せてくれました。
桂子さんのひざの上…
ああ…気持ちいい…