桂子さん家の1日
2.桂子さん家の1日
桂子さんの家は下町の準工業地域にあって、この辺りの家は、どの家も自宅で何かを造っていたり、商売をしていたりという家がほとんどなのです。
桂子さんの家もそういった家と同じように、自宅で製袋業を営んでいるのです。
製袋業と言うのは、文字通り袋を作っているのですが、袋と言っても色々あります。
桂子さんの家で作っている袋は、食料品などが入っているセロハンの袋です。
メーカーからこういった仕事を請けている商社から商品のデザインが入ったセロハンのロール状の原反が送られてきて、それを袋状に製袋するのが桂子さんの家の仕事なのです。
桂子さんの家は30坪程の敷地一杯に建てられた木造の2階建ての家です。
1階が、工場になっていて、2階が住まいになっています。
工場には、色々な種類の袋を造れるように、何種類かの機械が連なっています。
正面の道路に面して4軒ほどの間口の部分が工場で、その4軒の間口はすべて開放できるようになっています。
その脇に住宅の入り口があります。
昨日、桂子さんが車を止めた駐車場は、道路を挟んで向かい側の月極駐車場で、お父様が仕事で使うワゴン車と2台並んで止められています。
住宅の入り口を入ると、すぐに階段になっていて、2階へ続いています。
階段を上がるとすぐに台所の入口があり台所に面して居間兼食事室と祖父母の部屋があります。
流し台の脇を入ると左右に入口があり、右側が手洗いに便所、左側が洗面に浴室です。
居間兼食事室には二つのドアが面しています。
一つは桂子さんたちの部屋で、もう一つは三女の広子ちゃんの部屋です。
私の寝床は台所の冷蔵庫の脇にあります。
仕事で、製袋した袋を梱包するための段ボールの箱を15cmほどの高さにカットしたものの中に、古いバスタオルを敷いてくれています。
まだ、箱から一人で出て行くことができないので、箱の中にミルクと水の入った器が置かれています。
桂子さん家の一日の人の流れはだいたいこんな感じです。
まず、いちばん早置きなのはやっぱりおじい様の登さんです。
五時前には起きて来て1階の仕事場へ降りていきます。
降りて行く前に私の様子を見ていくのですが、当然、私は夢見心地で丸まっています。
おじい様は寝ている私を確認すると、そのまま去っていきます。
次に起きてくるのは桂子さんの旦那の大輔さんです。
サラリーマンなので、七時ころ起きて来て洗面所で顔を洗うと、電子ジャーのふたを開けてご飯がどれくらい残っているかを確認します。
それから、冷蔵庫を覗いて適当におかずになりそうなものを見つくろって朝食をとります。
朝食が終わると、私の水とミルクの器をきれいに洗ってくれて、とりあえず、新鮮な水を入れてくれます。
それから、新聞を取りに行って、ざっと目を通しながら時間を潰して八時頃に家を出ます。
大輔さんが出掛ける前くらいに、おばあ様の綾子さんが起きてきて、広子ちゃんを起こします。
おばあ様は、桂子さんの妹の広子ちゃんを起こすと、おじい様の朝食の支度を始めます。
ぬか床からキュウリを取り出し、ちょうど良い大きさに切って器に盛ってテーブルに置きます。
置いたそばから、広子ちゃんがつまみ食いしています。
広子ちゃんは、キュウリをつまみながら、洗面所でヘアスタイルを整えてからセーラー服に着替えます。
テーブルには、キュウリのお新香、昆布の佃煮、納豆、味付けのり、生卵が並べられています。
広子ちゃんは、セーラー服に着替えて、カバンを持って食堂に来ると、納豆ごはんで朝食を済ませ、歯を磨いてからトイレにこもります。
おばあ様も納豆と生卵でご飯をかきこむと、おじ様のご飯とお茶をテーブルに置いてから、私のミルクの器に牛乳を注いでくれます。
準備が終わると、仕事場へ降りて行き、おじい様と交代です。
広子ちゃんはトイレから出てくると、私を抱き上げて「ミーニャ!行ってくるよ。」と言って頬ずりをしてくれます。
広子ちゃんが出て行くのと入れ替わりに、おじい様が上がってきます。
「ミーニャン起きたか?」おじい様は私を見てそう言うと、納豆をおわんに移し、生卵をかけると、勢いよくぐるぐるかき混ぜます。
おじい様!言っておきますが、私の名前はミーニャ!
ミーニャンではないのですよ。間違えないで下さいね!
しかし、悲しいかな、おじい様は私のことをミーニャと呼んでくれることは一生ありませんでした。
おじい様は食事が終わると、しばらく新聞を読みながら、テレビのワイドショーを付けています。
どっちかにしたらいいのに…と思うのですが、見ていても見ていなくても、とりあえず、テレビはつけておかないと、気が済まない人なのです。
そして、1時間くらいたつと、再び仕事場へ降りていきます。
桂子さんは、健康食品の販売をしている先輩のお手伝いをしていて、夜遅くまで営業やミーティングをやっているので、いつも帰りが真夜中になってしまいます。
だから、だいたい十時頃起きて来て、まず、新聞を広げます。
各面の見出しだけざっと目を通します。
パジャマのままで、椅子に片方の足をあげて膝を立てて、髪をかきあげながら新聞をめくっていく姿はなかなか色っぽいものがあります。
それからテレビを付けて、一通りチャンネルを変えてみてからいつものワイドショーで画面を固定します。
新聞をたたむと、テーブルの上にあるものを眺めてから、台所に行き、インスタントの味噌汁にお湯を注ぎ、茶碗にご飯をよそって戻って来ます。
食事がすむと、熱いお茶を入れてテレビの画面をしばらく眺めます。
眺めながら、たばこを吸って煙を吐き出します。
私はタバコの煙が苦手なのですが、そのことを主張する手段がまだわかりません。
もっとも、それが伝わったからと言って、桂子さんがタバコをやめてくれる保証はありませんが…
遅めの朝食を済ませた桂子さんは、洗面所で洗濯物を洗濯機に突っ込むとスイッチを入れてボタンを押し、洗濯機を働かせます。
そのまま顔を洗って髪を整えると、食堂と居間をざっと掃除機で掃除します。
この掃除機の音もイヤなものです。
だけど、これもどうしようもないので、もう少し足腰が達者になったら私がどこかに逃げてしまえばいいことだから、もうしばらくの辛抱だわ。
掃除が終わると、桂子さんは部屋に戻って、着替えてきます。
パンツスーツをビシッと決めて、とても格好いいです。
化粧をしなくても充分いい女だと思いますが、一応、身だしなみ程度に軽く化粧をすると、ブランド物のビジネスバッグをぶら下げて出ていきます。
そして、お昼まで私は一人ぼっちになってしまいます。
まあ、あと30分程度ですが…
十二時を過ぎたころ、おばあ様が紙袋を抱えて上がってきました。
桂子さん家のお昼ごはんは、だいたい、惣菜屋さんで買ってきたもので済ませています。
一度機械を動かすと、なかなか手が離せないので支度をする暇がないのです。
今日はお肉屋さんの紙袋なので、多分、揚げ物でしょう。
おばあ様はキャベツを千切りに…いや、これじゃあ百切りかな…にすると、大皿に盛って、その上に紙袋から取り出したコロッケや豚カツを並べてテーブルに運んできました。
私のミルクが減っているのを見ると、冷蔵庫から牛乳を出して継ぎ足してくれました。
本当は、新しい器か、きれいに洗った器に入れてほしかった…
朝と同じように、先におばあ様が食事を済ませてから、30分ほどテレビを見ながら床に転がって休憩し、おじい様の分のご飯とお茶をおいて仕事場に下りていきます。
入れ替わりにおじい様が上がってくると、朝から出しっぱなしになっている昆布の佃煮をご飯の上に乗せてコロッケとキャベツにソースをかけてご飯を食べ始めました。
食べながら、私の鼻先にコロッケやキャベツを持ってきて臭いをかがせてくれます。
だけど、そんなもの私は食べません。
第一、そのコロッケにはみじん切りにした玉ねぎが混じっていますよ。
ネコが玉ネギ食べられないのは知っているでしょう?
私を殺すおつもり?
おじい様は何でも私に食べさせようとするから、気をつけないと、油断したら命が危ないわ。
おじい様は食事が終わると、朝早くから仕事をしている分、午後は仕事をしないのです。
とはいえ、家でゴロゴロ私の相手をしてくれるわけではありません。
部屋から釣竿が入ったバッグを持ってくると、中を確認して嬉しそうに眺めた後、それを担いで出かけてしまいます。
おじい様は三度の飯より釣りが好きなので、午後は釣り堀に通うのが日課になっています。
そのために、毎朝早起きをしているわけです。
おじい様が出掛けてからしばらくすると、唯一の従業員の玉子さんが上がってきました。
玉子さんは、桂子さんの幼馴染の良美さんのお母様なのです。
玉子さんは、お昼に家に帰って昼食をしてきます。
それから、ここに来てお茶を飲んでから再度仕事に戻るのです。
玉子さんが仕事の戻ろうとしたとき、私に気が付きました。
玉子さんも自分の家でネコを飼っているくらいネコが大好きなのです。
「あら、ネコちゃんじゃない!」
そう言って私を抱きかかえると、あごの下を人差し指でなでてくれます。
さすがネコ好き。ツボをわきまえていらっしゃる。
ああ…気持ちいいよぉ…
しかし、それもつかの間。
「いけない!こんなことしてられないわ。早く行かなくちゃ!じゃあネコちゃんまた後でね。」
そう言って私の鼻にキスしてくれました。
ちょっぴりお茶の渋い香りがします。
さて、お腹もいっぱいになったし、ひと眠りしましょう。
しばらく静かに眠っていると、突然、階段をドタドタ駆けあがってくる誰かの足音が聞こえてきました。
ドタドタは次第に大きくなり、止んだかと思ったら、ガラガラッと引き戸を開ける音。
すぐに広子ちゃんが私のところにやってきて、両手で私を抱きかかえてくれました。
「ミ−ニャ!ただいま。あいたかったよ〜ぉ。」
広子ちゃんはそのまま私を居間へ連れて行き、テレビを付けるとテーブルの上に出しっぱなしのキュウリのお新香をつまんで、カーペットが敷かれている床に腹ばいになると、両手で顎を支えて私をじっと見ています。
そんな近くで見つめられると、なんだかとても恥ずかしい…
私がよろよろ立ち上がって、その場を離れようとすると、広子ちゃんは私を捕まえて、自分の前で両足を開かせ座らせるのです。
「ミーニャは女の子なんだ!」
広子ちゃんは私の股間を眺めてそう言いました。
そうよ!私は女の子!だからこんな恥ずかしい格好にさせることはやめてちょうだい!
広子ちゃんは仰向けになって私をお腹の上に載せてしばらくすると、静かに寝息を立てて眠ってしまいました。
私もなんだか眠たくなってしまったので、広子ちゃんのお腹の上で目を閉じました。
広子ちゃんのお腹の上はプヨプヨしていて暖かくてなかなか気持ちがいいのです。
しかし、15分もすると、広子ちゃんは横になって私は広子ちゃんのお腹の上から振り落とされてしまいました。
広子ちゃんは目を覚まし、「ミーニャごめん。」と言って、今度は枕代りにしている自分の腕のそばに私を寝かして、背中を撫でてくれます。
私は広子ちゃんの腕に添うように丸まって再び目を閉じました。
床の下からは、1階の仕事場から聞こえてくる機械の音と振動がとても心地用リズムで私たちを安らぎの世界へ誘うのです。
居間の柱にかかっている鳩時計の箱の中に隠れていた小さな鳩が開いた扉から飛び出して5回パッポーと鳴いて再び箱のなかに戻ると、床の下が静かになって、不自然な静寂が訪れました。
すると、間もなく、階段を上がってくる足音が聞こえて台所のドアが開きました。
仕事を終えて玉子さんが上がってきたのです。
「あれ〜?ネコちゃんがいないわねぇ…」
そう言って辺りを見回します。
居間で、広子ちゃんと一緒に丸まっている私を見つけると、そっち近づいて来て私のあごの下を軽く撫でてくれました。
「広子と一緒でいいこと。」
そういって、台所の方に行くと、お茶を入れて戻ってくると、テーブル席について、つけっ放しになっているテレビの画面をリモコンで切り替えながら、ニュース番組にしました。
エプロンのポケットからせんべいを取り出すと、ニュースを見ながらボリボリとかじり始めました。
その音に広子ちゃんは目を覚まし、体を起こしました。
「あっ!おばちゃん。ほら!ネコいるの。ミーニャっていうの。」
そう言って、頭の下に敷いていた腕を振りながら、私を玉子さんに紹介してくれました。
玉子さんは頷いて、「さっき上がってきたとき見つけたから知っていたわよ。桂子が貰って来たそうね?綾ちゃんから聞いたわよ。」
広子ちゃんは立ち上がると、私を玉子さんに預け、玉子さんの向い側に座ってキュウリのお新香を摘んで口のなかに放り込みました。
「おばちゃん、そのおせんべいまだある?」
「ちょっと待ってね…」玉子さんは膝の上の私が落ちないように気をつけながらエプロンのポケットを捜しています。
「ほら。最後の一つ。」
そう言って、そのせんべいを広子ちゃんにあげました。
しばらくすると、おじい様が釣り堀から帰ってきました。
なんだか美味しそうな魚の臭いがしています。
「はい。」玉子さんは私をおじい様に預けて立ち上がると、「今お茶を入れるからちょっと持っていて下さい。」そう言って席を立ちました。
「あっ!おばちゃん、私にも。」
広子ちゃんが片手を顔の前に差し出してお詫びのポーズをしながら、玉子さんにウインクしました。
「はい、はい。」
玉子さんは笑ってお茶を二人分入れて持ってきてくれました。
そうやって三人でお茶を飲みながらテレビを見ていると、電話が鳴った。
広子ちゃんが出ました。
「はい?もしもし?…いるよ。ちょっと待って…おばちゃん、ママから。」
広子ちゃんは玉子さんが来るのを待って受話器を手渡した。
「もしもし?なあに?…わかった!すぐ行く。」
玉子さんは受話器を置くと、いそいそと出かけて行きました。
「あのやろう、またパチンコにでも行っているのか…」
おじい様はちょっと機嫌が悪くなったようでした。
そんなおじい様と二人っきりになるのはまっぴらだと言わんばかりに広子ちゃんは席を立ちました。
「さて、宿題やらなくちゃあ。」
そう言って、自分の部屋に引き揚げていきました。
どうやら、仕事を終えたおばあ様は、買い物に行く途中、パチンコ屋さんに立ち寄ったようです。
そしたら、フィーバーが始まって辞めるにやめられなくなったので、玉子さんを呼んだということだったみたいです。
それから30分ほどすると、買い物袋をぶら下げたおばあ様が戻ってきました。
「またパチンコでもしていたのか?」
おじい様がいきなり怒鳴り付けたので、私はちょっとびっくりしましたが、おばあ様は毎度のことで慣れているような感じでした。
「違うわよ。八百屋さんと喋っていたら遅くなっちゃったのよ。」
「じゃあ、なんで、玉ちゃんを呼んだんだ?」
「これよ、これ!」おばあ様はステーキ用のお肉が入ったパックを出して言いました。
「これがおひとり様4枚までだったのよ。4枚じゃあうちは足りないでしょう?だから、玉ちゃんに来てもらったのよ。」
「どうだか…」
おじい様はそう言うと、私を寝床に戻して部屋に引っ込んでいった。
おじい様は、おばあ様がパチンコをするのをとても嫌うのです。
下手にハマったら、おばあ様はいくらでもお金をつぎ込むと思っているからです。
というのも、以前、そんなようなことが実際にあったらしいのです。
まあ、何はともあれ、おばあ様は夕食の支度をはじめました。
私のミルクのお椀が空になっているのに気がつくと、牛乳をたっぷり注いでくれました。
ああ、おいしそうなミルク…でも、きれいな器に入れて欲しかった…
桂子さん家の今夜のメニューは、おひとり様4枚までのステーキとホウレン草のおひたし、ポテトサラダ、玉ねぎの味噌汁、そして、朝から出しっぱなしの昆布に佃煮にキュウリのお新香。
食事の支度ができた頃に、桂子さんの旦那さんの大輔さんが帰ってきました。
桂子さんは、いつも夕食の時間に家にいません。
今日は大輔さんも帰りが早かったので、一緒に食卓についていますが、残業などで遅くなることの方が多いのでいつもは、おじい様とおばあ様と広子ちゃんの三人での夕食がほとんどです。
食事が終わると、おじい様は釣り仲間のたまり場になっている釣り道具店に出かけました。
おじ様が出かけたのを見計らうかのように、おばあ様がいそいそと出かけていきます。
きっと性懲りもなくパチンコ屋さんに行くのでしょう。
夕食の後は、居間で旦那さんと広子ちゃんが二人でテレビを見ています。
そうこうしているうちに、今日は桂子さんが帰ってきました。
きっと私のことが気になって早く帰ってきてくれたのでしょう。
「ただいま。お腹すいた。今日のご飯は何かしら?」
冷蔵庫を覗いて、例のお肉を見つけると、「ねえ、大ちゃん、私お風呂に入ってくるから、お肉焼いておいてくれないかしら?」そういうと、桂子さんは旦那さんの返事も聞かずにお風呂場へ消えていってしまいました。
旦那様は、台所に行くと、お肉に塩コショウをし、強火でさっと焼いて、表面がきれいな入りに仕上がってから、フライパンにふたをして弱火で中までしっかり火が通るように時間をかけて焼いていました。
桂子さんは少しでも赤いところがあると、食べられないのです。
お風呂から上がった桂子さんは、なんども「おいしい!」と言って夕食をとっていました。
夜の十時を過ぎた頃、おじい様が帰ってきました。
おじい様は、おばあ様がいないことに気がつくと、また一人で怒りだしてしまいました。
さらに、間が悪いことに、ちょうどその直後におばあ様が帰って来たのです。
「またパチンコに行っていただろう?」
「違うよ!玉ちゃん家でしゃべっていたのよ。」
「嘘を言うな!タバコ臭くなっているからすぐにわかるんだぞ。」
そう言われて、思わず、おばあ様は服の臭いをかいでしまいました。
「やっぱりそうか!お前はダメなんだからパチンコなんかやるなよ。いくらでも金使ってしまうんだから!」
こんな言い争いをしている二人をよそに、桂子さんたちは涼しい顔をして居間でテレビを見ながら、談笑しています。
夫婦げんかは犬も食わないというか、毎回同じようなことをやっているので当事者以外は全く気にしていないみたいです。
当然犬が食わないものはネコの私もいりませんよ。
桂子さん家では、だいたいこんな感じで日々時間が流れているのです。