暫しのお別れ
12.暫しのお別れ
大通りに架けられた歩道橋の上から、下の道路を行き来する車を眺めているのは高橋です。
しかし高橋の眼には通り過ぎる車の赤や白、黒などのカラフルな色や耳障りな轟音をとどろかせて走り去るバイクさえも映っていませんでした。
江藤さんに付いて隣町へ行き、リリーと再会をしたあの日から高橋は毎日のように隣町へ出かけて行き、リリーとの甘い時間を過ごすようになっていました。
毎日毎日、雨の日も風の日も、せっせと通い続けているのです。
この日も、当然、隣町のリリーに会いに行きました。
そうしているうちに、高橋の頭の中には、ある一つの結論のようなものが浮かんできていました。
高橋は「よしっ!」と意を決したかのように表情を引き締めて早足で歩道橋を駈け降りはじめました。
亀の湯に戻った高橋は、江藤さんの姿を捜しました。
男湯の縁側から中を覗き込むと、大女将に抱かれて眠っている中條が見えました。
いつもなら、この時間は、この男湯の縁側の下あたりでくつろいでいるはずなのに、今日はなぜか見当たりません。
「あれ〜?どこに行っちゃったんだろう?」
高橋は縁側の下を女湯の方まで探してみましたが江藤さんは見当たらず、家の中に入ると、江藤さんが気に行っている場所を探して回りました。
台所の冷蔵庫と食器棚の間の隙間。
居間の床の間の横の重ねて片付けられて置かれている座布団の上。
同じく居間のテレビの上。
若旦那の書斎の座イスの上。
中庭の犬小屋(今は主がいなくなっています。)の中。
「おかしいなあ?出かけているのかなあ?」
あちこちと家の中を捜し疲れた高橋が台所に戻って、乾いた舌に水をしみこませていると、勝手口のネコ窓から江藤さんが入ってきました。
高橋はすぐに江藤さんのそばへ近づいていくと、真剣な表情で江藤さんに耳打ちしました。
「なんだって?」
江藤さんは驚いて、高橋の顔を見ました。
「もう、決めたことなんだ。」
「決めたことって…」
江藤さんは、驚いたというより呆れたというような顔をしてしばらく考えていました。
高橋が隣町のリリーに会いに行くようになってから三ヶ月ほど経ちました。
高橋は季節外れの台風で亀の湯の前の道路が水浸しになった時以外は毎日リリーに会いに行っていました。
それは江藤さんも知っていました。
いえ、江藤さんだけではなく、この辺りのネコ、そして隣町のネコ達の間でも有名な話になっていました。
ある日のこと、いつもように高橋とリリーがリリーの家のバルコニーで愛をささやきあっていると、隣町のメスのクロネコで、リリーの親友でもあるメグにこう言われたのです。
「タカハシィ、毎日毎日ご苦労だねぇ。いっそのこと結婚しちゃったらどうなの?リリーだってまんざらでもないみたいだし。」
「メグったら、何を言い出すの?」
そう言うリリーの顔は見る見るうちに赤くなっていきました。
赤くなったのはリーリーだけではなく、高橋の方は今にも火を吹きそうなほどになっていました。
「そうだよメグさん。結婚だなんて、俺達はただ、一緒にいられたら、それだけで幸せなんだ。」
高橋とリリーは、二人…いや、二匹、見つめあってうなづいています。
「あら、世間ではそうなったら結婚するのよ。」
「しかし、俺達はペットとして人間に飼われている身の上だからなあ…結婚なんて勝手にできるわけがないじゃないか。」
「バカねえ!何も結婚したからって一緒に住まなければいけないなんてことはないでしょう。とりあえずは…」
「それ、どういうこと?」
リリーはメグに近づいて「詳しく聞かせて。」と耳を寄せました。
メグが言うにはこういうことでした。
とりあえず、赤ちゃんを作っちゃうこと。
当然生まれてきた子供は、リリーか高橋に似ているはず。
リリーの飼い主も、高橋がリリーに会いに来ていることは知っているから生まれてきた子供を見れば、高橋の子だってことはすぐにわかるはずだというのだ。
「そうなってしまえば話は早いわ。」
メグの話を二匹は頷きながら聞いています。
メグは、まるでどこかであった本当の話を実際に見てきたかのように話すのです。
「そなったら次はどうなるの?」
「簡単よ。リリーの飼い主はタカハシを旦那だと認めて家に入れてくれるようになるわよ。」
「そんなにうまくいくかなあ…」
「大丈夫!責任は持てないけど、保証するわ。」
「責任を持てない保証って…」
「小さいことなんか気にしない。男でしょ?やるしかないよ。さあ!」
なんとも無責任な話だが、愛する二匹にはそれしかないように思えてしまったのです。
二匹はメグをじっと見ました。
「!」
メグは二匹の表情を見て引き上げることにしました。
「はい、はい。邪魔者は、とっとと消えるわね。」
メグはリリーの家のバルコニーからブロック塀に飛び移り、路地の方へ歩いて行きました。
「まさかその気になっちゃうなんて…信じられない!冗談で言ったのに。」
そう呟いて振り返ると、バルコニーから高橋とリリーの姿はなくなっていました。
それからしばらくして、リリーのお腹が大きくなったのは言うまでもありません。
意を決して話を切り出した高橋の言葉には、それなりの覚悟がうかがえたようです。
「どうせ毎日会いに行くんだったら、おれ、隣町に引っ越すことにするよ。」
「引っ越すったって、私たちは人間に飼われている身だよ。」
「そんなことは分かってるさ。父親になるんだ。父親になれば、向こうの飼い主だって、俺のことを認めて…」
「何バカなこと言ってるんだろうねぇ。このろくでなしは!」
「ろくでなしってなんだよ?」
「大事な子をはらませたネコだとわかったら、一緒に住むどころじゃないよ!それこそ、とっ捕まえられて皮を剥がされてしまうさ。」
「まさか…」
「当たり前だよ!もとより、それくらいの覚悟があってのことなんだろう?」
「いや、ただ、その…」
「ただ、なんだい?」
「う〜ん、メグのやつが…」
「メグ?メグにそそのかされたのかい?あんた、メグが根も葉もないいい加減な話を最もっぽく振れ回っては、その話をまともに聞いてバカ見たネコを笑って歩いてるのを知ってるだろう?」
「えっ?そうなの?だってメグはリリーの親友だよ。」
「でも、あんたはメグの親友じゃないだろう?」
「…」
「まったく、この子ったら呆れたよ。」
「でも、もう決めたんだ。」
「まあ、いいさ。そこまで言うなら好きにしな。」
高橋とリリーは、メグのデタラメの通りにはことが運ばず、リリーの家で家族仲良く暮らすことは叶いませんでしたが、幸い、江藤さんが心配したようなことにはなりませんでした。
要は、今まで通りということですかねぇ。
リリーの飼い主は、子猫が生まれたことを喜び、高橋が父親であることを認識したうえで、リリーに会いに来た高橋に対して、今まで通りに接してくれました。
ただ、高橋がどこかの家の飼い猫であることを分かっていたので、むりやり一緒に飼おうとはしなかったのです。
高橋がその気で、居ついてしまえば、それはそれでまかり通ったかもしれませんが、高橋も“亀の湯”の女将に「残してもらった恩義がある」と家を出ることはしなかったのです。
高橋とリリーの子供は4匹。
長男で茶トラの“マイケル”。
長女で真っ白の“マリー”。
二女で真っ白な“サリー”。
二男でこれまた真っ白な“スノー”の4匹です。
高橋似の子猫は長男の“マイケル”だけでしたが、高橋は3匹がリリーにそっくりだったことをとても喜びました。
リリーの家では高橋は仮に“チャトラ君”と呼ばれています。
通い妻ならぬ、通い父ですが高橋は今の生活に満足しているようです。
さて、私にもようやく春がやってきました。
憧れのピエールとの仲が急接近してきたのです。
きっかけはキンタでした。
ピエールは、私よりちょっとだけ早く生まれた先輩なのですが、なかなか外へ出る勇気がなく、ずっと家の中から外を眺めているだけでした。
私たちがピエールの家のそばを通るのを羨ましそうに見ているだけだったのですが、ある日、お気に入りのおもちゃを誤ってベランダから下に落としてしまったのです。
たまたま通りかかったキンタが、それを拾ってピールに届けたのです。
「やあ、なかなかいいおもちゃを持ってるなあ。」
ピエールは、驚いてとっさに二〜三歩後ずさってしまいました。
キンタは、いきなり現れてびっくりさせたかなお思い、とりあえず、自己紹介をすることにしました。
「おっと、失礼。俺はキンタ。いつもここから見ていただろう?」
ピエールは少し安心したような様子で、キンタに近寄ってきました。
「ボクはピエール。それ…それ、ありがとう。」
ぼそぼそっと呟くようにピエールはキンタに応えました。
キンタはピールにおもちゃを返すと、いい機会だから友達になろうと思い、ちょっと話をしていくことにしました。
「な〜に、気にするな。それよりどうしていつもそこから眺めているだけなんだ?一緒に遊ぼうぜ。」
「…」
「まあ、いきなりは無理か。じゃあ、また遊びに来るから…」
ピエールが誘いに乗ってこないので、キンタはあきらめて出直そうとしてベランダから離れようとしたとき、ピエールが声をかけてきました。
「僕だって、本当はみんなと遊びたいんだ。でも…」
キンタは、振り向いてピエールに近づいて行きました。
「怖いのか?外が。」
「ちょっと…それに、汚れると飼い主が気にするんだ。」
「そんなことを気にしていたのか?だったら大丈夫さ。ネコなんてのは勝手に外で遊ぶもんだし、汚れたからって、ドブにでもはまらない限り、そんなに汚れたりしないさ。第一、君の飼い主は君が外に出ることを禁止しているわけじゃあないだろう?」
「そんなこと分かんないよ。」
「分るさ。君を外に出したくないなら、そこのドアには鍵が掛けられているだろうし、君をそんな風に放し飼いにはしておかないはずさ。それに、人間もネコを飼っているってことはそれなりにネコに関する知識と理解は持ってるものさ。特に君のようなちゃんとした血統のネコを飼っている人間はね。」
「…」
ピエールは、半信半疑でキンタの話を聞いていました。
「まあ、俺はノラだけど、それ以外の奴らはみんな君と同じ飼いネコさ。みんな個性的でいい奴ばかりだぞ。」
「あの…」
ピエールが何か聞きたいことがあるような顔をしてキンタを見ました。
「どうした?何か聞きたいことでもあるのか?頭の悪い俺にも答えられるようなことなら、答えてやるが、そうでないことだったら…そうだなあ…物知りの江藤さんに…」
キンタの言葉を遮るようにピエールが叫びました。
「彼女と友達になりたいんです。」
今まで、ぼそぼそっとした声でしか話さなかったピエールが急に大きな声で言ったのでキンタはびっくりして、舌を噛みそうになりました。
「彼女?」
「はい、いつもキンタさん達と一緒にいるアメリカンショートの子です。」
「アメリカン…?外人のネコとは付き合ってないぞ。」
「外人じゃないですよ。ほら、ボクと同じ毛をした女の子がいるでしょう?」
「ああ!ミーニャのことか?」
「ミーニャさんっていうんですか?その人…いや、そのネコ。」
「はは〜ん!きみはミーニャに惚れちゃってたりしているのかな?」
「…」
ピエールは顔を赤らめて、下を向いてしまいました。
こいつ、本当にわかりやすい奴だなあ…キンタはそう思い、ピエールのことがなんだか憎めなくなってしまいました。
もっとも、最初から“憎い”なんて、これっぽっちも思ったことはありませんでしたが、いっそう、身近に感じるようになったみたいです。
「どうやら図星みたいだな。」
「キンタさん、からかわないで下さいよ。」
「悪い、悪い。よしっ、じゃあ、これからミーニャに会いに行こうか?実はあいつも君のことがずっと気になっていなみたいだから、驚くぞ。」
「えっ?そうなんですか?」
「そうとも。よしっ!じゃあ、ついて来いよ。」
そう言ってキンタはベランダから屋根伝いにブロック塀に飛び移り、路地へ降りて行きました。
ピエールは少しためらったものの、キンタの後について思いきって外へ飛び出しました。
桂子さんの家の前にある駐車場は、冬は日当たりがよく、暖かく、夏は塀際の隣地との境あたりにほどよい日陰が出来て、1年場ネコ達の絶好のたまり場になっています。
いつも、ここで江藤さんから隣町の情報を仕入れたり、ネコ同士でじゃれあったり、ただ、日向ぼっこをしていたり、だいたいネコを見かけることができます。
今日は江藤さんに代わって高橋が、演説をしていました。
「隣町のメグってネコには気を付けた方がいいぞ。親切そうに近づいて来て、もっともなことを言って取り入ろうとするんだが、これがくせ者なんだ…」
高橋は、リリーとの結婚のいきさつをあることないこと、面白おかしく話していました。
このところ、1週間ほど毎日同じ話をしています。
「…だけど僕は信じていたんだ。…」
高橋がそこまで話をすると、続きのセリフをみんながいっせいに言葉にしました。
「僕とリリーの愛の絆はだれにも邪魔をすることなんてできないんだ。じゃんじゃん!」
高橋は目を丸くして、咳払いしました。
「君達ねぇ、じゃんじゃんはないだろう?いちばん感動するところだよ。」
すると、ネコ達は口をそろえて言いました。
「ああ!その通りさ。初めてその話を聞いた時には、本当に感動したよ。でも、こう毎日聞かされたんじゃあ、飽きてくるよ。たまには違う話を聞かせてくれよ。」
高橋は、ばつが悪くなってこの場から離れる口実を捜しているようです。
そこへ、キンタがやってきて高橋の頭を小突きました。
「相変わらず、進歩のない奴だなあ。こんなことじゃあ、いつまでたっても俺の跡目は譲れないないぞ。」
「キンタさん!」
「まあ、みんな、ちょっと聞いてくれ!今日は新しい友達を連れてきたぞ。」
「新しい友達?」「誰だ?」みんな、一斉にざわつき始めました。
「さあ、こっちへ来いよピエール。」
「ピエール?今、確かにピエールと言ったわよねえ。」
私は、一瞬自分の耳を疑いましたが、確かにピエールと聞こえました。
しばらくすると、駐車場の角からピエールが姿を現しました。
「はじめまして…と言うか、いつも皆さんを見てはいましたが、話をするのは初めてですね。宜しくお願いします。」
そう言って、ピエールはミーニャの方をちらっと見ました。
その時、一瞬だけ目が合いました。
私はドキッとしたと思ったら、その後はもう、心臓が飛び出しそうなほど苦しくなってしまいました。
すると、キンタが私のそばに近づいてきて耳打ちをしたのです。
「ピエールがお前とお友達になりたいんだとさ。」
「えっ?」
キンタは私のおしりを押して、「早く行ってやれよ。」とウインクしました。
言われるままに私はピエールの方へ向かいましたが、こんなに緊張して歩いたのは初めてです。
自分で自分の足がどんなふうに動いているのか全くわからないくらい緊張していました。
「こんにちは。あなたとお話しできるなんてとても嬉しいです。いつも、窓からあなたのことを見ていました。」
「はい、私も見ていました。」
廻りのネコ達からは無責任なヤジが飛び交っていましたが、私とピエールには全く耳に入っていませんでした。
「お友達になっていただけませんか?」
「はい!喜んで。」
私はちらっとキンタの方を見ました。
キンタは、嬉しそうに頷きながら
私にウインクをして見せました。
ネコがウインクするなんてことは聞いたことがありませんが、キンタが私に向かって見せたものは、多分ウインクだったと思います。
こうして、私とピエールは正式にお付き合いするようになりました。
歩道橋のことを知ってから、みんなはよく隣町へ出かけて行くようになりました。
高橋の噂話によると、最近隣町でキンタによく似た子ネコが目撃されるというのです。
キンタは「知らない。」ととぼけていますが、私は一度、母親と一緒にいるキンタを見かけたことがあるのです。
私とピエールの恋のキューピットも隅におけないものです。
もっとも、こんな太ったキューピットなんて想像できないかもしれませんが、私とピエールにとっては確かにキューピットなのです。
江藤さんは、最近、あまりで歩くことがなくなりました。
駐車場での演説は、もっぱら高橋に任せているようです。
高橋もみんなの前で演説をすることの快感を覚えて、このところ、ナンバー2の座には江藤さんの息子の後藤が座っていて、いつもキンタの後ろをついて歩いています。
中條は相変わらず、“亀の湯”の番台で大女将に抱かれて気持ちよさそうに転寝しています。
リリーは子育てに忙しそうで、高橋が訪ねて行っても、なかなか相手をしてやれないと親友のメグにこぼしているそうです。
メグは、それをまた、面白おかしく、言いふらして歩いているようです。
そう言えば、うちにもまた新しい家族が増えるかもしれません。
桂子さんのお腹が少し大きくなっているように見えるのです。
これは、彩ちゃんが生まれる前の桂子さんのお腹と同じような気がします。
彩ちゃんは、この春から保育園に行くようになりました。
最初は、桂子さんの姿が見えなくなると、すぐに泣いてしまって1時間もしないうちに帰ってきていましたが、最近は、すっかり馴れてお友達もいっぱいできたみたいです。
桂子さんをはじめ、女3人は、相変わらず、パチンコ屋さんに通っています。
最近は高校生の広子ちゃんまで一緒になってパチンコ屋さんに言っています。
おじい様も相変わらず、休みの日には欠かさず、釣りに出掛けていますが、このところ、腰の具合が悪くなってきたようで、段々本当のおじい様のように歩くようになってきました。
大輔さんも相変わらず、私に愚痴をこぼしながら、休みの日には主婦ならぬ主夫をやっています。
きっと、基本的にはこういうことが好きなんだと思います。
さて、私のご主人さまですが、これだけこの家にいると、別に誰がご主人さまでいいような気がしてきましたが、これは、生まれた時からの私の宿題というか、テーマでもあるので、必ず、“これがご主人さま”と言える人をつきとめて見せます。
『ご主人様は誰?』とりあえず、第一部を終了したいと思います。
第二部では、私とピエールの恋の行方や、新しい家族についてなど、またまた盛り沢山でお届けできると思います。
どうぞお楽しみに。
それでは皆さん、暫しのお別れです。