7.2 実食日の記録
──の影響とやらで──がめちゃくちゃ遅れている。そもそも馬車が来ないし、来たのに全然出発しない。そして動き出したと思ったら自転車にも劣る速度の上、しばしば止まる。いつもは三十分でつくはずの区間なのに、今日に限って一時間以上もかかった。いったいどうなっているのか。
そんなわけで研究室に到着したのはだいぶ遅め。とはいえ今日はもはやバケツプリンのことしか考えていなかったため、特にこれと言って問題はない。適当に卒研生の指導をしつつ、三時のおやつの時間を楽しみに待つ。
この卒研生についてだけど、なんかもういろいろどうしようもないからキート先生と相談しようってことになった。で、キート先生が来るまで手持無沙汰だったため、クーラスとともに例の進路希望調査票を魔法科事務室に提出しに行く。一緒に出そうとラフォイドルが来るまで待っていたというのに、あいつは普通に一人で出していやがった。こういうところが実にあいつらしいと思う。
さて、そんなこんなをしているうちにはキート先生がやってきていたらしい。が、誰だかが『なんかキート先生めっちゃ体調悪くてやばいらしいっすよ』と教えてくれた。なんとも恐ろしいことに──があったらしい。で、病院行くから午前中しか相談できないらしいですよと教えてくれた。
こんなところに来ないでさっさと病院に行くべきだと思ったのは私だけじゃないはずだ。こんなにボロボロになってまで研究室を優先するなんて、キート先生はいろんな意味ですごい。
それにしても、マジでこの研究室は呪われているんじゃないかと思う。ノエルノさんもこないだ──があったっていうし、俺だってこの研究室に入ってから首周りに謎の痣、湿疹、しこりができた。しょっちゅうヤバい感じで腹を壊すし、指を切ったCFRPが体内に残ってそのままのやつもいる。
身体的にも精神的にもボロボロな人が多すぎる。いずれそう遠くない未来に倒れる人が出るんじゃあないかとひそかに思っているのは決して俺だけではないはずだ。
ともあれ、早速先生の部屋の前で出待ちして相談を受けてもらうことに。ここでは主に例の表面形状パラメータの処理方法について聞いた。細かい計算方法はもちろんのこと、ちょっとしたテクニックなども教えてもらう。まぁ、これは俺よりティルトゥやトゥルトゥにとって重要なことなんだけどね。
俺のほうには表面形状パラメータの分布について、分割した一マスのずれで固有振動数がどの程度変化するのか調べてみろってアドヴァイスがあった。つまるところ解析によって得られる表面形状と測定によって得られる表面形状のオーダーが違うのが問題なわけだけれど、解析についてはあくまで固有振動数について着目して表面形状パラメータを算出しているわけだから、もしかしたら固有振動数の小さなずれで推定される表面形状パラメータが大きくずれるかもしれない、ゆえにそれを検討してみろとのことだった。
難しく書いたけど、ぶっちゃけ適当に等高線図を作成して、その分布がどの程度の広さを持っているか確認しろって話。固有振動数そのもののデータはすでにそろっているから、データをまとめるのがちょっと面倒ってだけ。
あと、ダウンヒル・シンプレックス法で得られた図について、極小点が二か所以上ないかもう一度確認しろとも言われた。前にすでに確認したけど考えないことにする。
そんなこんなをしているうちにはお昼の時間に。さっさと昼餉を胃袋の中に収め、その瞬間を今か今かと待ち望む。
最終チェックとして冷蔵庫の中のバケツプリンを確認したところ、なんかけっこう水っぽいことが発覚。しかもすんげえゆるめ。プリン的には問題なくぶるんぶるんしているけれど、自立するかと聞かれたら首をひねらざるを得ないかんじ。なんとも不吉である。
しかもよくよく見たら、なんか微妙に二層になっているっぽい。バケツに二重の影が透けている。もしかしてこれ、どっちかがまだ固まりきっていないのだろうか?
一応左右に傾けたところ水分は出てこなかった。もうあとはプリンを信じるほかない。
みんなも待ちきれなくなったので(シエナさんはさっさと帰る予定)だいたい1400ごろにバケツプリンの実食に入る。もう十分に冷やしたし、頃合いだと言えるだろう。もうこれ以上冷やしても変わらないと悟ったともいう。
まずはセーフティネットとして机の上にいつもの大きなビニール袋を敷き、四隅にキイラムさんの治具を錘としてセットする。そこに準備万端のバケツプリンを用意。こないだ買った大きなお皿(φ270)を載せればあとはもうトライするだけ。
『ぜってぇ無理だ!』、『こっちに被害が来ないようにね』などと院生の声が上がる。嫌そうにしていながらもみんな結構ノリノリ。そしてちょうどいい具合に帰宅の報せをしにキート先生が院生室にやってきた。もう何も怖くない。
が、さあ、いざバケツプリン……と意気込んだのはいいものの、これがどうしてなかなか重い。持ち上げるので精いっぱい。腕がちょうぷるぷるする。
考えてみれば4kgもあるのだ、私の細腕ではそう簡単にひっくり返せないのは自明である。
頑張ってポジションを整えている間に時間だけが過ぎていく。えいや、とうまくひっくり返したその瞬間にキート先生は退室した。タイミングが致命的に悪い。
ともあれ、失敗せずにひっくり返すというバケツプリンにおいて最も難しいと思われる第一段階については無事に終了。この段階では目立った問題は見受けられず、またバケツプリンそのものも従来のプリンと同じくバケツに密着していて、ひっくり返した状態でもお皿の上に落ちてくることはなかった。
ここから微妙に揺さぶって慎重にプリンとバケツを剥離させていく。時折空気が隙間に入ってプリンが少しずつ落ちていく。そのたびに聞こえる『ぎゅぷぷっ!』、『ぐぴぴっ!』って音がなんとも不安を煽る。
そしてとうとう、完全にバケツとプリンが剥離する。『ばふんっ!』って妙に小気味のいい音が院生室に響いた。確かに感じた手ごたえ。みんながそれを感じたのか、にわかに歓声があがる。
おそるおそるバケツを持ち上げてみる。そこには、それはもう立派なバケツプリンがしっかりと自立していた。
先ほどとは比較にならない大歓声が響き渡った。夢に見たバケツプリンが目の前にある。しかも「す」もなければ亀裂もない。高さと横幅も十分でボリューム感が凄まじい。だのに、きっちり立っている。崩壊の兆しすら見えない。
非の打ち所がない大成功である。まさにパーフェクト。まさかここまでうまくできるとは想像だにしていなかった。
ちなみに、この瞬間はノエルノさんが動画を撮ってくれた。口ではなんだかんだ言いながらもめちゃくちゃ笑顔でノリノリで楽しそうなポポルと、同じくとてもうれしそうなラフォイドルとシエナさんがいるのでぜひとも皆もあの感動を一緒に味わってほしい。いつも通りふぉとらいぶらりに入れてあるから興味がなくとも確認しておくこと。
『とりあえずトンネル掘って開通させようぜ!』、『えっ、これ直接食べるほうがよくない?』などというポポルとキイラムさんを抑えつつ早速実食タイム。包丁を使って慎重に切り出していく。断面は均質一様で滑らかであり、目立った空隙も見受けられない。どうやらほぼ一体型と同じ様相を呈しているらしい。
また、先ほど確認された二層の影はカラメルがプリン液に浸透したものであった。どうやらカラメルそのものが底部で完全に沈殿、固形化したわけではなく、一部が底部周辺のプリン液と混合し、いわばカラメルプリンのようになったようだ。
味は普通にデリシャス。昔懐かしのプリンってかんじ。自立しているからか卵で作ったプリンほどの滑らかさは感じず、けっこう固めでどちらかといえばゼリーのそれに近かったけど普通においしい。あのちょっとチープな感じがたまらない。
カラメル浸透部分はカラメルの風味が強く、甘みもまた強かった。鼻にぬけていくふわっとした香りがどことなくキャラメルプリンのそれを連想させる。プリン頂面のカラメルも底なしに甘く、実に子供向きの味だったといえよう。
また、カラメルが浸透していない部分は白味の強いクリーム色で、牛乳の味と風味が強く出ていた。お高めの牛乳を使ったからかすごく濃厚。甘さは比較的控えめでありながらも印象に強く残り、なんとなく高原で食べるソフトクリームを彷彿とさせる。口当たりもとろりとしており、ちょっと大人っぽい感じ。個人的にはこっちのほうが好みだった。
院生のみんなにも割と受けていた。味は普通のプリンだけど、やっぱりそのボリュームと迫力が段違いだからね。あと、意図しなかったこととはいえ一つのプリンで二つの味が楽しめるってのも大きい。
しかも、思いっきり食べてもまだまだ九割以上も残っている。夢のお得感にワクワクを隠せない。
が、これがまた問題でもあった。おいしいことにはおいしいし、楽しいことには楽しいんだけれど、あれで結構プリンはおなかにたまる。なによりすごく甘いから量を食べるとすぐに口の中が甘ったるくなり、実際以上の満腹感に襲われる。
うん、院生みんなで頑張って食べたのに、全体の25%しか食べることができなかった。重量にしておよそ1kgほどである。
しょうがないので学部生室にもっていく。もちろん完成して手を付けていないそれを事前に見せてはいたけれど、あまりにも減ってないから学部生も結構驚いていた。ゼクトやシャンテちゃん、ライラちゃんをはじめとした数名が器代わりの紙コップとスプーンを片手にその怪物に立ち向かってくれる。
みんなどうやって切り分けるかすごく悩んでいたことをここに記しておこう。高さがあるし、かといって横に切るとカラメル部分だけを取ってしまうことになるから、必然的に細長いショートケーキみたいな形で切り分けるしかなかったんだよね。
で、学部生も必死に食べてくれたはいいもののの(もちろん参加自由である)、それでもまだまだ残っている。十人以上が結構な量を消費してくれたのに、まだ30%くらいは残っていた。もちろんこの段階でみんなのおなかはいっぱいいっぱいで、それでなおバケツプリンは悠然とその場にたたずんでいる。
もうどうしようもねえなってことで、せっかくなのでヨキにも召し上がってもらうこととした。お部屋に呼びに行ったところステラ先生もいらっしゃったのでご一緒してもらうことにする。
二人とも、学部生室で存在を主張するバケツプリンにたいそう驚いていた。たぶんバケツプリンを見るのは生まれて初めてだったのではなかろうか。
なんだかんだで雑談しながらバケツプリンの実食タイムに入る。ステラ先生は『プリンは食べやすくていいね!』って言っていた。ヨキは『単価どの程度なんやろなあ』って言っていた。
ステラ先生は『これで有限要素解析してみたら面白いかもね』と冗談を言う。『すでにモデルは構築済みで、あとは解析条件を入れるだけです』って言ったら『ホントなの!?』ってたいそう驚いてくれた。変なところにこだわるのが魔系なのである。
二人ともいっぱい食べてくれたけれど、やっぱりプリンは残っている。どう見繕ってもあと四分の一……およそ1kgもある。もうみんなおなかは限界で、これ以上食べる余裕はない。シエナさんが『凍らせて食べるとおいしいって聞くよね』と一部を切り分け冷凍庫に入れたものの、それにしたって焼け石に水である。
おそろしいのは、あれだけ削り取られてなおバケツプリンに崩壊の兆しが見えなかったことだろう。どうやら我々が想像していた以上に敵は強大だったらしい。
時間だけがじりじりと過ぎていく。しびれを切らしたキイラムさんが『とりあえずトンネル掘ろ?』とスプーンを装備した。『手を付けた部分はちゃんと食べてくださいね』と通告するもやめるそぶりを見せなかったのでお皿を遠ざける。ポポルは『ちょっとずつみんなで食べていって、崩したやつが全部食べる闇のゲームやろうぜ』って言っていた。なんとも平和な光景だ。
しょうがないので、最終的には魔材研にコールを入れた。──さんが回収しに来てくれる。『えっこんなに大きいの』と冷静に驚かれ、『とりえあず持って帰ってみんなで食べるね』と大きなお皿ごと慎重に階段を下りていった。ありがとうございます。
プリンのことしか書いていないがだいたいこんなものだろう。というか、プリン以外のことを覚えていないとも言う。ちなみに、夕方ごろには『魔材研で食べきりました。後日お皿をもっていきます』って連絡が来た。本当にありがとうございます。
最後に。
プリンをこれでもかとお腹に詰めた後に食べたひとかけらのポテトチップスは、この世のものとは思えないくらいにおいしかったです。




