第87話 簒奪の王 -前編-
魔導王。
俺のはるか前方、170メートルほど先。
収穫済みの麦畑の土の上に立つ男は、自らを確かにそう称した。
魔導王ってのは、そうだ。
普段はつい忘れがちだけど、俺がこの世界に召喚された際の肩書きだ。
異世界からやって来て、この世界を破滅させてしまうという、伝説上のイカれた存在の名前である。
“魔術”の完全上位互換の能力である、“魔導”を使える人間だ。
といっても、俺の土魔導自体は、強力なエスパー能力みたいなものにしか思えない。破滅だの何だのってのは、正直まるでピンと来ないのだが。
魔導王の伝承は、教会とやらの教えでおおっぴらに話題に出来なかったり、そもそも若い世代の人はあまり知らないらしかったりと、俺が自分で積極的に調べて回るには、色々とハードルが高い。うかつな俺が下手に周囲に嗅ぎまわることで、魔導王だとばれてしまうリスクも、正直無視できないしな……。
ただ、この“魔導王”という単語自体は、そこそこ一般に認知されているのではないかと思う。学者であるスペリア先生はおろか、庶民のハゲですら、魔導王についてはある程度知っていた。
だから目の前の男が、俺の親しいおっさん達と同様に、魔導王について知っていたとしても、別に何もおかしくはない。
神や魔王を僭称するアレな人ってのは、わりとどこにでも存在するものだ。したがって、単純にこの男が魔導王を名乗っただけなら、俺はここまでの動揺はしなかったと思う。
俺が真に戦慄したのは、奴がその直後に口にした単語の方だ。
奴は、俺達を指して、こう呼んだ。
――NPC。
すなわち、ノンプレイヤーキャラクターの略語である。多少ゲームをやったことのある人間にとっては、おそらく馴染みのある単語だ。
俺も別に詳しい定義までは知らないが、要するにこいつは、ゲーム中でプレイヤー本人が操作不可能なキャラクターの総称だ。
分かりやすく表現するなら、そうだな……。
主人公以外の、ゲームの世界の住人たちってところだろうか。
まぁ、NPCという単語の正確な定義だとか、奴が一体どういうつもりで、生身の生きた人間である俺達をNPCと呼んだのかとか、そんな事は、この際どうでもいいのだ。
重要なのは、このNPCという単語が――
そう。この単語が、“ゲーム用語”だってことだ。
ご存知の通り、俺の不完全かつ一方通行気味な翻訳能力では、この世界にない概念の単語は、翻訳があっさりエラーを起こしてしまう。そして、インターネット用語とゲーム用語は、そのほとんどが翻訳エラーを起こす、この世界に存在しない概念の代表的な例だ。
俺は隣に立っているアセトゥに対して、おそるおそる質問をした。
問いを紡ぐ自らの唇の表面が、緊張のせいか、ひどく乾いているのを感じた。
「なぁ、アセトゥ。……NPCって言葉、知っているか?」
小麦肌の少年は、きょとんとした上目づかいで俺を見た。
エメラルド色の生命力に溢れる瞳が、真昼の日差しを受けて、宝石みたいに輝いていた。
「いぬぴーすぃ? なあに、それ。兄ちゃんの国の物?」
予想していた回答ではあったが、やはり衝撃だった。
このアセトゥの反応、間違いなく翻訳がエラーを起こしている。俺の口から日本語がそのまま滑り出ていて、相手に意味が伝わっていない。
もはや、疑いようもなかった。
今、あそこに立っている黒い仮面のコスプレ男は、この世界の言語上に存在しない概念について喋っている。
おそらくは、奴も俺と同じ――
「地球人、なのか……」
これは一体、どういう事なんだ。
奴も破滅の魔導王として、地球から召喚された人間だというのか?
魔導王ってのは、俺だけではなかったのか。
そういえば、俺を召喚したリュベウ・ザイレーンは、大昔にも俺以外の魔導王が何人も召喚された記録があるとか、たしかそんな事を遺書に書いていた。
あの記述と、何か関係があるのか?
でも、昔の魔導王達って、既に殺されて死んでしまっているはずだよな。
じゃあ、今目の前にいる、あのコスプレ男は一体何者なんだ?
……俺はもしかして、あの遺書の内容に関して、何か重大な勘違いをしているのか?
ザイレーンのやつ、昔の魔導王達の伝承について、どんな風に書いていた? この事態に対して、何かヒントを書き遺していたか?
駄目だ。今さら、あの石の本に刻まれていた遺書の細かな言い回しなんて、とてもじゃないが思い出せそうにない。
「ネマキ兄ちゃん、どうしたの? 顔色が悪いよ……」
隣に立つアセトゥが、心配そうに声をかけてきた。
「……す、すまない。大丈夫だ」
俺の内心の動揺というのは、アセトゥやゴレには高確率でバレる。こいつら、常日頃から俺のことを無駄に観察しすぎである。
あわてて必死にポーカーフェイスを作りつつ、再び、前方の自称魔導王の姿を注視した。
男はマントを風になびかせながら、麦畑の土の上を、悠々とこちらへ向かって歩いてくる。
距離的には、既にそこまで離れているわけではない。そろそろ前衛のゴーレム達との接触も想定に入ってくるはずなのだが、黒い大剣は肩に担いだままで、構えてすらいない。
ゴーレムが何をしてこようが、まったく興味がないとでも言わんばかりだ。
完全にこちらを侮っている態度だ。この様子だと、俺が魔導王として召喚された同類の人間だとは、まだ気付いていないのだろう。
「うおらああああっ!!!」
このとき突如として、獣のような野太い咆哮が鼓膜をついた。
仮面男が叫んだ訳ではない。隣にいた赤髪の大男が気合い声を上げ、猛然と敵めがけて突撃を開始したのだ。
「なっ……、ジャンビラ!?」
俺は思わず目を剥いた。
なんという、脳筋。
彼のこの動きは、正直予想していなかった。
流石は血属性使いというべきか、ジャンビラの突撃速度は常人の比ではない。
全身に赤黒いオーラを纏い、強化された脚力で地を踏み叩きながら進むその姿には、とんでもない迫力がある。
彼は前衛のオレンジ象と合流し、歩調をそろえて並走し始めた。そして、そのままゴーレムと人間との一心同体の動きで、同時に敵に襲いかかった。
「おらあっ! 叩き潰すぞ、エンディルッ!」
主の咆哮を受け、重ゴーレムの巨大なハンマーが、仮面の男の頭上に振り下ろされる。まったく同じタイミングで、側面からジャンビラのハンマーが薙ぎ払われた。
身体強化された剛腕の戦士と、固い石の身体を持つ巨人の戦士。二つの巨体から放たれる、回避不能の、完璧なコンビネーション技だ。
重い衝撃音が、周囲に打ち響いた。
だが、仮面の男は涼しい顔で、二つの攻撃を同時に受け止めていた。
「な……!?」
黒い大剣の腹で、オレンジ象の巨岩のようなハンマーを、軽々と受け止めている。真横から到来したジャンビラのハンマーは、なんと、武器も持たない左手の指2本で受け止められていた。
「なんだ、こいつの腕力……」
絶句し、一瞬動きを止めるジャンビラ。だが、すぐに跳び下がって距離を取った。オレンジ象も彼に追従するように、大きく後退する。
仮面の男は、彼らに追いすがる気配すらない。
ジャンビラの姿をまじまじと眺めながら、のんびりと口を開いた。
「……ふぅん。このマッチョ、結構良い動きしてるじゃん。パワーもかなり出てる。このレベルの魔術戦士ってのは、そうそういないぜ」
「な、何を……」
困惑するジャンビラの言葉を遮るように、仮面男の左手のひらが、すっと彼に向けられた。
その仮面から覗く口元に、嗜虐的な笑みが浮かんだ。
「だけどなぁ、残念。たとえ、お前らがどんなに強かろうが。どんなに高度な術理を極めていようが――血属性じゃあ、おれには、絶対に勝てない」
「……――――〈簒奪〉」
奴の唇が、確かにそう動いた。
直後、ジャンビラの身体を覆っていた赤黒いオーラが、突然、霧のように拡散し、消滅した。
入れ替わるように、仮面男の全身から、赤黒いオーラが猛然と噴出する。
その光景はまるで、ジャンビラのオーラが、仮面男に奪われてしまったかのようだった。
ジャンビラの手から、ごとりと音を立てて、ハンマーが落下した。
おそらく魔術による身体強化が消失したことで、巨大な武器の重量を保持できなくなったに違いない。
赤髪の青年は、信じられない物を見るような目で、地に落ちた自身の武器と、震えるその手のひらを見つめている。
「な、何だ……? 俺の血魔術、解けちまった、のか……?」
続いて起こった出来事は、その場の全員をさらに驚愕させた。
仮面男が纏った赤味を帯びたオーラが、じわじわと“まっ黒に変色”しはじめたのだ。
黒いオーラを全身に帯びた男は、自身の身体の動きを確かめるように、数度手足を軽く動かした。そして、はしゃいだ声を上げた。
「おほっ! すっげえな、こいつの身体強化魔術。高性能だし、遠距離視力まで上がってるじゃん。レアだなぁ。普通は上級魔術でも、動体視力の上昇がせいぜいなのに」
仮面男の上機嫌な声だけが、周囲に響いていた。
「な、何あれ……?」
眼前の異様な光景に、アセトゥが目を見開き固まっている。
俺自身もまた、驚きに言葉を失っていた。
だが、俺のこの驚きは、アセトゥのそれとはまったく別種のものだ。
だって、目の前で使われた技のことを、俺は、とても良く知っていたからだ。
敵の魔術を、無理矢理奪い取り。
真っ黒に変色させた上で、自分のものとしてしまう、異能の技。
瘴気の地に跋扈する猿の群れが放つ、回避不能の無数の石弾も。神のごとき古の地竜が吐き出す、馬鹿げた超威力の巨大な石弾も。
俺はかつてこの技で、すべて封殺した。
魔導王だけが使う、最強の必殺技だ。
そう、間違いない。今、目の前の男が使ったあの技は――
「え……〈NTR〉だ……。あいつジャンビラに、〈NTR〉を使いやがった……」
呆然と呟く俺。
このとき、はしゃいでいた仮面男が、ふいにジャンビラを一瞥した。
奴の口が、無感情に動いた。
「……こいつ、もう用済みだな」
不味い。
ジャンビラが、殺される。
俺は慌てて、前方にたたずむゴレの白い背中へと視線をやった。
阿吽の呼吸というやつだろうか。彼女もほとんど同じタイミングで、ちらりとその肩ごしに視線を送ってきた。
互いの視線が交わる。
赤い瞳の横顔が、伺いをたてるように俺を見つめている。
この相棒が何を言わんとしているのか、俺には分かっていた。これまでだって、何度もコンビで一緒に修羅場をくぐってきたんだ。
ゴレは訊いているのだ。
――あいつ、殺してもいい? と。
加速する思考の中、俺は一瞬悩んだ。
果たしてゴレの望むままに、あいつを殺してしまって、本当に良いのか?
二人目の魔導王を名乗る男。
使用された〈NTR〉。
奴がしゃべった地球の言葉。
この襲撃者達の行動の目的。
そして、背後に確実に存在する、政治的な黒幕とおぼしき影。
今、目の前で起こっている状況には、分からない事が多すぎる。正直、俺の思考のキャパシティを完全にオーバーしている。
だが同時に、ひとつだけはっきりしている事があった。
今危機に瀕しているジャンビラも。隣にいるセトゥも。そして、後ろの里にいる大勢の人々も。断じて奴の言うような、NPCなどではない。
近くにいると、温かな息づかいを感じる。触れた手には、確かな生命の熱がある。泣いたり、笑ったり、怒ったりもする。皆、それぞれの生きがいや大切な家族、愛する人を持っている。
そして、矢で射られれば、止めどなく赤い血が流れ出て――
どう考えても、現実を生きている生身の人間だ。
それだけは、自信をもって言える。絶対に間違いない。
ゲームなんかではない。
あいつに虫けらみたいに殺させて、いい、わけがないのだ。
「……構わない。やってくれ、ゴレッ!」
大きくうなずいた俺に、ゴレは一瞬、柔らかな視線を投げた。
その直後、弾丸みたいに、敵めがけてぶっ飛んだ。
彼女は音を置き去りにして、地表を一直線に疾走した。
本気の加速だ。
今回の戦いで敵に見せてきた速度の中では、最も速い。
あっという間に仮面男に肉薄したゴレの身体が、鞭のようにしなった。
白い右腕が、空気を切り裂き唸りをあげる。
「なっ――」
男の仮面の口元が、驚きに半分ほど開かれた。
――次の瞬間、その顔面に、破壊の拳が炸裂した。