第9話 愛犬と名前
俺はゆっくりとベッドから上半身を起こし、目の前のゴーレムを見やった。
ゴレ太郎と名付けた純白のゴーレムは、ベッドの横に静かに立っている。
というかこいつ、言葉が通じているのだろうか?
「おーい。ゴレ太郎」
あ、きちんとこっちを向いた。言葉は分かっているっぽいな。
なら、俺の方も自己紹介しとかないといけない。
最初の挨拶は大切だ。
「介抱してくれてありがとう、ゴレ太郎。これからよろしく頼む。俺の名前は……」
俺の名前は。
俺の、名前、は……。
硬直した。
たった今気づいた恐るべき事実に、思考が追いつかない。
「……――俺の名前は、何だ?」
自分の名前が、分からなかった。
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ベッドの上。
俺は妙に透明度の低い窓に映った、自分の姿を見つめていた。
若い男の姿がある。
うん、我ながら前途ある有望な未来を背負った若者の顔だ。
多少の目つきの悪さはあるがな。
そういう生まれつきの要素は、笑顔で乗り切るしかない。
俺は、与えられたカードの中で努力する男だ。
ごく一般的な日本の家庭に育っている……はずだ。
自信がない。
家族関係などの事になると、とたんに薄くなるのだ、記憶が。
というか、今なら「お前のパパは実はイタリア人なのよ」とか言われても、わりと素直に信じてしまいそうなのだが……。
まじめな読書好きの大学生だな。
そろそろ院試を控えていたような気がするが―――
いや待て。院試は終わったか? なら俺は院生か?
ん……?? まずいぞこれ。
直近の自己を規定する情報まで、ものすごく曖昧になっている……。
一体いつからだ……?
正直この世界に来てからこっち、俺が自己の情報を確認する必要にせまられた機会など、一度もなかった。
何故なら、俺以外に誰もいなかったからだ。
ゴレ太郎に会うまでに俺が遭遇したのは、白骨死体と昆虫だけだ。
他者との関わりがなければ、俺にとっては自己分析の必要など、基本的にあまりない。
だって、そうだろう? 俺の中では、俺はいつだって俺じゃないか!?
この世界での派手な状況変化に必死に対処する中で、そんなもの疑ってさえいなかった。
いや、しかし。
実は、ここに至るまでに、この症状の片鱗ともいうべき違和感は、何度かすでに見え隠れしていたのだ。
俺はここに来た当初、異世界に来ているなんて思いもよらなかった。だから、連絡の算段さえつけば、家族に助けを寄越してもらうつもりでいた。にも関わらず、あの時の俺は、家族の顔や姿さえまったく思い浮かべられていなかった。
今にして思えば、ゴレ太郎を生成したときにしたってそうだ。ゴーレムに求めている関係性として、真っ先に思いついた、アホだけど少しは頼りがいのあった、あの飼い犬。しかし、俺はあの時、あいつの名前を思い出していない。
考えてみれば、こんな見も知らない世界に放り出されて、生命の危機まで感じているのに、俺の中での元の世界に対する執着が不自然なほどに薄いのもそのせいなのか……?
めまぐるしく変化する現実の中に、すっかり見落としてしまっていた、小さな違和感たち。
しかし、それらの違和感は、おそらくすべて一つの事実を指し示している。
――そう。俺は召喚直後からすでに、自らの名前と家族のことが分かっていない状態に陥っていたのだ。
先ほどから俺の脳裏には、召喚術者リュベウ・ザイレーンの名がちらついていた。
こいつのせいなんじゃねーのか。
奴が元々俺を操ってこの世界の破滅を狙っていたらしい事といい、正直なところ、無視してしまうには気にかかる節が多すぎた。
一番ヤバい記憶破壊&人格上書きの即死系呪文〈魂転写〉こそギリギリ回避したが、その前段階の催眠術みたいなやつには、俺は途中まで見事にハマっていたのだ。あの召喚魔術陣には、まだ何か、それ以外にも仕込まれていたんじゃないのか?
頭の中をいじられている可能性というものを考えたとき、俺がこの世界の言語を理解していることも不可解だ。そもそもザイレーンの野郎に何かメリットあるのか、これ? どうせ記憶は上書きして消しちまうつもりだったんだろう? メリットといえば、俺が自分と家族と犬の名前を忘れることのメリット自体が謎でもある。特に犬とか絶対意味ないだろこれ……。
マジか……。わからん……。
しかし、頭の切り替えが早い事は、俺の美徳の一つであった。
正直この世界の俺の現状で、今、名前についてうじうじ悩んでいる余裕などない。
うかうかしていると死にそうだしな。
人恋しさのあまり不覚にもゴーレム遊びに夢中になってしまっていたが、そろそろ盆地脱出に本腰を入れないとまずい。食料とて無限ではないのだ。
案外、召喚のショックで一時的に軽い記憶喪失になっているだけかもしれんしな。
いや、むしろそっちの方がありそうか……?
とりあえず記憶の確認目的を兼ねて、俺はゴレ太郎に元の世界の話を色々としてみることにした。
人に聞いてもらうつもりで話すってのは、自分自身の頭の整理にはかなり有効だからな。
俺はベッド脇のゴレ太郎に、静かに語りはじめた。
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「……というわけで、気付いたらこの世界に来ていたってことらしい。その頃の名残りは、今となってはもう、そこにあるダサいパジャマしか残ってないわけだが」
ゴレ太郎はじっと俺の話を聞いている。正直話が理解できているのか謎だったのだが、今ダサいパジャマの話しをしたとき、ちょっとパジャマの方に頭が向いた。
内容を理解した上で、真面目に聴いてくれていたようだ。ほんといい奴だ。
そして、ゴレ太郎に元の世界の事を色々と話しているうちに、俺は自己の記憶の欠落具合について大方把握してきた。
やはり、人間の名前が全部思い出せなくなっているというわけじゃない。
自分と親しい関係性にある者だけが思い出せないのだ。それも、親しければ親しいほど記憶の欠落がはげしい。名前、顔……と順に思い出せなくなっていく。
恐ろしい事に、親兄弟のレベルになってくると、正直いるのかいないのかさえ良く分からないほどに存在が曖昧になってくる。
逆に、総理大臣とか芸能人とかになってくると楽勝で思い出せるな。
あとついでだが、犬も飼い犬の名前がわからんだけだわこれ。
名犬とか忠犬とか、有名どころは普通に思い出せている。
そういや実家に猫もいたんだが、こいつも名前が思い出せん。一体なんだこの珍現象は。
歴史上の偉人などは、ほぼ完璧に思いだせるな。
途中で話が脱線してなぜか徳川家康について解説しはじめた俺を、ゴレ太郎は見捨てず、じっとまじめに話を聴いてくれていた。いい奴すぎる。というか、超真剣だ。お前そんなに家康が好きなのか? いや待て、ちょっと顔が近すぎるぞ。
顔が近いことで思い出したのだが、ゴレ太郎の顔の額のあたりに、謎の紋様が出来ている。
そう目立つわけじゃないし、そんなに複雑な模様でもない。文字のようにも見える、逆三角形みたいな形だ。
俺は素体を生成するときにこんな紋様を彫ったおぼえはない。
だから多分、起動時に付いたのではないかと思う。
紋様を調べようと額をいじくり回すと、ゴレ太郎が軽く身悶えした。
おお、顔面いじられたときの犬っぽいなこの反応!
面白くなった俺は、まるで愛犬のごとくゴレ太郎の頭を乱暴になでまわす。
「あはは、意外とごつごつしてるな、お前の頭!」
俺の造形能力だからね。
なめらかにはできなかったんだろう、勘弁してほしい。
何となく気分が明るくなってきていた。
身体のだるさも心なしか薄れてきている。まだ歩き回るのは無理そうだが。
やっぱり、話を聞いてくれる相手がいるのはいい。