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破滅の魔導王とゴーレムの蛮妃  作者: 北下路 来名
第6章 襲撃の冒険者
73/107

第70話 スティックケーキと幼児プレイ


 

 応接間でのお茶会は終了し、アセトゥの私室へと案内される運びになった。

 中庭に面した渡り廊下を歩き、アセトゥの部屋へ向かう。

 廊下沿いの美しい緑の植え込みに、小さな蝶が舞っているのが見えた。

 非常に手入れの行き届いた庭園だ。


 渡り廊下の途中で、一体の風変わりなゴーレムとすれ違った。

 抹茶色をした、手指が細長いゴーレム。

 小柄なアセトゥよりも背が低い。体高は140センチ以下かもしれない。

「……今のゴーレムは?」

「うちの“園丁(えんてい)ゴーレム”だよ。兄ちゃんは見るの初めて?」


 園丁ゴーレム。図鑑でそんな名を見たことがある。

 たしか、非戦闘用のゴーレムだ。

 彼らは農作業用ゴーレムよりも多少器用で、素体重量が軽い。したがって、家内での雑用などに向いている機体だ。


「へえ、あれが園丁ゴーレムか。実物は初めて見たよ」

「聖堂ゴーレムがいる家では、わざわざ園丁ゴーレムを使ったりしないもんね。この里では、園丁ゴーレムを使役している家はけっこう多いんだよ。うちにも、あの子の他に3体いる」

 なるほど、用途が聖堂ゴーレムと若干被っているのか。

 たしかにうちのゴレも家事大好きだもんなぁ。というか、もはやあれは趣味の域だ。俺が手伝おうとしても、全然やらせてくれんし。

 この広いお屋敷や美しい中庭も、おそらく彼ら園丁ゴーレム達の働きによって維持されているのだろう。

 本当にメイドさん要らずだな、ゴーレム使いというのは。



------



 そんなこんなで、アセトゥルームに到着した。


 アセトゥの部屋は、落ち着いた雰囲気の清潔な空間だ。

 小さなぬいぐるみが置いてあったり、何だか若干、可愛らしい趣味である。


 また、この部屋には本が多い。

 書棚を見たところ、そのほとんどが真面目な専門書の類だ。

 アセトゥは本当に勉強熱心な少年のようだ。やはりアセトゥパパ(おっさん)が言うような、落ち着きがないなんてことはないと思うのだが……。

 ともあれ、俺自身図鑑の購入経験があるから知っているが、この世界の専門的な本というのは相当に高額だ。少なくとも、貧しい家がこのように大量に買えるような代物ではない。

 アセトゥの家が当初予想していた貧乏家庭でないことは、もはや確定だろう。


 だが、そんな事は関係ない。

 アセトゥが痩せている限り、栄養を与えるという俺の基本方針に変更はない。


 というわけで、俺は少年に栄養を与えることにした。

 まず最初に彼に食べさせたのは、よもぎ団子みたいなお菓子だ。こいつの名前は、ええと……たしか甘草団子(あまくさだんご)、とか言ったか。この里の、比較的オーソドックスなおやつの一種である。

「美味いか、アセトゥ? まだ団子はいっぱいあるからな。沢山食べるんだぞ」

「うん! ねまふいにいふあん、ありがふお! にいふあんだいふき!」

 アセトゥはハムスターのように頬をもぐもぐさせ、団子を食べている。

 うんうん。何言ってるか全然分からんが、いっぱい食べて大きくなるんだぞ。


 未来を背負う少年に栄養を与えるという、避けては通れない重大な社会的使命を果たしたことに安堵しつつ、俺は窓の外を眺めた。

 この世界の妙に透明度の低いガラス窓から望む、里の風景。

 テテばあさんの屋敷に続く坂道が見える。

 なるほど。アセトゥはここから外を眺めていたから、俺が坂を下ってきたことにすぐ気が付いたのだろう。

 だけど、この窓からは角度的に、坂道のごく一部とテテばあさんの屋敷くらいしか見えないようだ。

 アセトゥのやつ、まさか、ここからずっと一日中テテばあさんの屋敷を眺めていたとでもいうのだろうか。まるで面白味のない風景だが……。

 少年はそんなにばあさんの屋敷が好きだったのか?



 物思いにふけりつつ坂道を眺めていると、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 おや、アセトゥの妹さんが目を覚ましたみたいだ。


 実はアセトゥ少年には、小さな妹がいるのだ。

 とはいえ、この妹さんはまだ本当に小さい。聞いたところでは、一歳と少しくらいという話だ。

 別室でお昼寝している様子をちらりと拝見させてもらったが、もちもち赤ちゃん肌をした、いと愛らしきベイビーであった。

 先刻の応接間でのご両親との挨拶の際は、ママさんだけ妙に登場が遅かった。前座のザコであるおっさんが倒され、満を持して真打ちのママさんが登場――という雰囲気にも見えたが、実際のところは、このベイビーちゃんを寝かしつけていたせいで来られなかっただけみたいだ。


 アセトゥ一家の家族構成は、ご両親とアセトゥに加えて、この妹さん。そして、お祖母さんがいるそうだ。

 お祖父さんは既に亡くなっている。

 以前アセトゥに聞いた話では、随分昔に戦死なされたということだったか。


 ……アセトゥのお祖父さん、か。

 現在アセトゥの相棒となっている、一本角を生成したという人物だ。

 先ほどのおっさんとの会話の中にも、度々登場している。御前試合で重ゴーレムを撃破して皇太子に褒められたり、一本角の一本角をファイナルウェポンへと改造してしまったり。色々と破天荒で楽しい人物だったようだ。

 そんな人でも、戦争では簡単に死んでしまうのだな……。


 そういえば、このアセトゥのお祖父さんに関しては、以前に辛口批評家のテテばあさんが、腕の立つ魔術師だったと評しているんだよな。

 これは多分、わりと高い評価だと思う。

 俺なんてばあさんにかかれば、最低評価の「へっぽこ」だし。

 ともあれ、腕前の評価が可能ということは、テテばあさんとアセトゥのお祖父さんの間には、おそらく生前にそれなりの面識があったということだ。


「なぁ、アセトゥ」

「なあに、兄ちゃん?」

 俺に声をかけられたアセトゥが、リスみたいなほっぺで、もきゅもきゅと団子を食いながらこちらを見た。

「アセトゥのお祖父さんって、テテばあさんとも知り合いなんだろう? やっぱり二人は仲良しだったのか?」

「んっ……えっとね……んぐっ」

「…………。ごめんな、きちんと飲み込んでからで大丈夫だよ」


 団子を飲み込んだアセトゥは、改めて話をはじめた。

 だがその内容は、俺にとって驚くべきものだった。


「うちのお祖父さまは、帝国の土魔兵(ゴーレム)師団の師団員だったんだ。それで、先生の旦那さんが、当時の師団長だったんだよ。だからお祖父さまと先生は仲良しっていうより、部下と上司の奥さんって感じだとおもう」


「えええええっ!? だ、旦那? テテばあさんって既婚者なのか!?」

「えっ 驚くところ、そこなの!?」

 いや、驚くだろう普通!

 あんな野蛮な超暴力ババアと結婚するなんて、俺の理解を完全に超えた行動だ。恐るべきボランティア精神の奇特な人物が、この世には存在しているものである。

 しかも若い頃のばあさんは、鞭を振り回していたような女だぞ?

 どう考えても今より狂暴じゃないか。俺なら新婚初夜を迎える前にしばき殺されている自信がある。旦那さんはもしかして、マゾなのか?


「なんだか凄そうな旦那さんだな……」

「そうだよ! 土魔兵師団は、帝国のエリート部隊なんだから。そこの師団長を務めていた方なんだもの」

 アセトゥが得意げに平らな胸を張った。

 なるほど、少年自身のお祖父さんだって、その師団の人間なのだ。きっと誇らしいのだろう。先ほどの「凄そうな旦那さん」という発言の意図が、「性癖的な意味で凄そうな旦那さん」というものだった事は、俺の胸にしまっておこう……。

「それにね、師団長さんの部下はうちのお祖父さまだけじゃないんだよ。この里にいるおばあちゃん達の旦那さんは、みーんな先生の旦那さんの部下だったんだ」

「え、マジかよ。全然知らなかった」

 要は、里のじいさん全員がテテばあさんの夫の部下という事だろうか。

 そいつはかなり凄まじいな。

 そんな状況ならば、この里におけるテテばあさんは、きっと社長夫人的なポジションにあたるのだろう。道理で村長でもないくせに、態度がアメリカ大統領並みにでかいわけだ。


 ん? 待てよ。

 テテばあさんの夫が、土魔兵師団とやらの師団長。

 そして、里のおばあさん方の夫が全員、その師団長の部下ということは……。

「じゃあ、この里の人達はもしかして皆、土魔兵師団の団員のご家族なのか?」

「うん、そうだよ」

 小さく頷いたアセトゥは、そのまま言葉を続けた。


「正確には、遺族・・だけど。……元々この里はね、戦争未亡人になった師団員の奥さん達のために、先生が中心になって用意した場所なんだ」


 気軽な調子で相槌を打とうとしたまま、思わず唾を飲み込んだ。

 ……戦争未亡人の里。

 それで里の高齢者は女性ばかりだったのか。

 元々この里については、他にも小さな違和感がいくつも存在していた。

 ゴーレムの里と呼ばれるこの集落には、本来正式な名称もない。シドル山脈の伝統的な間引きの行事にも、比較的近年になってから参加を始めたようだった。規模のわりに妙に歴史の浅い部分があるのは、気にはなっていた。

 ご老人方の出身地や民族がやたらとバラエティに富んでいたりするのも、そういう事情ならばあっさり説明がついてしまう。つまり土魔兵師団というのは、おそらく多民族の混成部隊だったのだ。


「うちのお祖母さま、いつも言ってるよ。お祖父さまが異国で蟲使い達に殺されて、生まれたばかりの母さまを抱えて。あの時もしテテ先生が助けてくれなかったら、今頃どうなっていたか分からないって」

「そうだったのか……」

 里のおばあさん方は、きっと、とても苦労なさったのだろう。

 皆さん明るく笑っているから、まるで気づかなかったけれど。

「だからね、皆先生には本当に感謝しているんだよ」


 …………。

 ふん、邪悪なうちのばあさんにしては、珍しくましな事をするではないか。

 家に帰ってきたら、肩ぐらい揉んでやってもいい。



------



 そうこうしているうちに、アセトゥは団子を食べ終わったようだ。

 おっと、いかん。柄にもなくしんみりしてしまった。

 早く少年に次の栄養を与えなくては。


「よし、アセトゥ。次はこいつを食べるんだ」

 俺は鞄から、今朝薪割りの報酬にネルァおばあさんからもらった、花餅かもちを取り出した。

「わあ、花餅だ! オレこれ大すき! 兄ちゃん、ありがとう!」

 アセトゥは目を輝かせながら、花餅をぱくぱくと食べ始めた。

 うんうん、たくさん食べて立派な大人になるんだぞ。

 リスの様にほっぺたをふくらませるアセトゥを見て、俺は小動物を愛でるときのような温かい気持ちに包まれた。

 俺は優しい気持ちのままに、純朴な児童の頭をなでようとした。

 だが、途中でその動きがぴたりと止まった。

 背中に、何か非常に微かな抵抗を感じたような気がしたのだ。


 誰かが、ふるえる手で、俺の服をおずおずと引っ張っているような――


 だが、この瞬間、急にアセトゥに手を引っ張られ、俺の意識はそちらへ持っていかれた。

 見ればアセトゥは俺の右手を両手で握り、自らの頭にのっけている。

「えへへ……」

 はにかんだ笑顔を見せるアセトゥ。

 可愛い奴である。

 俺は要望通りに、アセトゥの柔らかな髪を優しくなでた。


 やはり、この子もまだ大人に甘えたい年頃なのだろうと思う。

 俺は気づいていたのだが、アセトゥは小さな妹が生まれて、まだ間が無い。今まで一人っ子だった彼の中では、立派なお兄さんになろうという気持ちと、まだご両親に甘えたい気持ちがせめぎあっているのだろう。

 元の世界でリアルお兄ちゃんだったらしい俺には、この気持ちが良く分かる。

 そして、この気持ちに整理をつけた先に、人は真のお兄ちゃんになるのだ。

 そう。アセトゥ少年も、人としての成長の途中なのである。

 俺は年長者として、この子の成長の手助けになれればいいと思う。ご両親に遠慮があって甘えられないなら、俺を兄と思って甘えたって構わないのだ。


 しっかし、鼻たれ小僧のエオルにしても、この純朴ボーイのアセトゥにしても、男の子というのは、こうして気楽に頭をなでて可愛がってやれるから良いよな。

 これが女の子相手だと、こう気楽にはいかないからなぁ。

 セクハラの問題とか、色々あるし……。

 アセトゥが男の子で本当に良かった。


 安堵すると同時に、何か言い知れぬ別の不安感が俺の中をよぎっていた。

 何だろう? 先ほどから時折感じる、この不穏な予感は。

 この謎の不安感がちらつくようになったのは、アセトゥの私室に入る直前くらいからだ。この部屋に入ってからも、何度も何度も、少年の無邪気な弟のような行動の数々によって、何か深刻で重大なメッセージが、絶妙のタイミングで、常に無効化され続けているような気がする。

 誰かの控えめながらも必死なメッセージが、無慈悲な弟バリアーに弾き返され続けているような気がするのだ。

 シドル山脈の牛達に、種の断絶の危機が迫っている――そんな、強い予感がする。



-----



 俺が謎の強い不安を感じているうちに、アセトゥは花餅を食べ終えたようだ。

 おっと、いかんいかん。次の栄養を与えなくては。

「よし、おりこうに食べたなアセトゥ。次は、このチーズケーキみたいなやつを食べるんだ」

 俺は鞄から、先ほど坂を下ってくる途中でもらったお菓子を取り出した。

 見た目が棒状の、スティックケーキみたいなお菓子だ。

 手に持つと重く、生地がぎっしりと詰まっているのが分かる。

 しかも結構太くて長い。恵方巻くらいのサイズ感、といえば分かりやすいだろうか。おそらくこいつはカロリーあると思う。


「わあ、おいしそう!」

 無邪気に瞳を輝かせるアセトゥ。

 しかし不思議な事に、彼はその直後、急にもじもじとし始めた。

 スティックチーズケーキを受け取る気配がない。

 一体どうしたというのだ、少年。

「あのっ、ネマキ兄ちゃん、その……オレもうお腹いっぱいかも……?」

 なぜ疑問形なのだ。

 それに、さっきまでいくらでも食えそうな雰囲気だったではないか。

「もう食えないのか?」

「食べれないっていうか、これ以上は、あの、その……」

「? これ以上は、どうしたっていうんだ?」


「これ以上食べたら、その、ふ、太っちゃうかもしれないし……」


 な、何ィ~~~~!!!!?


 何を寝ぼけた事を言っているのだ、アセトゥよ!

 今、まさに貴様を太らせるために食わせているのだぞ!!!

 そんな理由でリタイアだと!? 冗談ではない、俺は認めんぞ!

 さあ! もっと食べるのだ!


「駄目だ、アセトゥ。今日はもうちょっとだけ頑張って食べよう」

 俺は歴戦の剣士のごとく、さっと右手にスティックケーキを構えた。

 そして左手で、アセトゥの細い顎をくいっと持ち上げた。

「……さ、お口をあーんしてごらん」


 見上げてくるアセトゥの緑色の瞳が、じんわりと潤んでいる。

 薄い桜色の唇が、俺の言葉に誘われるように、ゆっくりと半開きになった。

 並びのよい綺麗な白い歯と、てらてらと輝く赤い粘膜が見える。


「よし、良い子だ」

 そのまま、そっと優しく。

 アセトゥの小さな口の中に。

 俺の太いスティックをねじ込もうとした、まさに、その瞬間――



 突然、真っ白い影が、顔面に覆いかぶさってきた。



 ゴレだ。

 急に飛びついてきたゴレが、座っていた俺とアセトゥの間に無理やり割り込んできたのだ。

 彼女は俺の上半身と顔面に、コアラのようにしがみついている。

「お、おい、ゴレ……ちょっ……」

 しがみつかれて、前が見えない。


 というかだ、ゴレよ。お前、今まで一体どこにいたんだ??

 今の今まで、まったく存在を感じなかったが。

 まるで何かに必死の自己アピールを打ち消され続けていたかのように……。


 いや、そんなことより、顔面にゴレの柔らかな身体が押しつけられて、息ができな……。

 ん? 呼吸はきちんとできるな。

 俺が窒息しないように、優しく配慮されている。

 さすがは相棒。こんな状況でも気遣いのできる奴だ。


 いきなり飛びつかれたのには狼狽したが、とはいえ、アセトゥと喋っている最中にゴレが割り込んできた経験自体は初めてではない。

 俺は、顔面に一生けんめいしがみつくコアラのゴレを、優しく引っぺがした。

 引きはがしたゴレの身体は、ふるふると小刻みに震えている。


 そういえばこいつ、玄関先でも遊んで欲しそうにしていたっけ……。

 きっと、知らない家で大人しくしないといけないせいで、退屈してしまったのだろう。犬にはよくあるのだ、そういう事が。

「放っておいてごめんな、ゴレ。しっかしお前、急に飛びついてくるからびっくりしたよ」

 いつもの調子で声をかけたが、ゴレは弱々しく震えるのみである。

 瞳は虚ろで、まるで焦点が定まっていない。


「……お、おい。大丈夫かお前?」

 心配になった俺は、ゴレを膝に乗せ、背中をさすった。

 彼女はまるでえずくように、時折大きく痙攣している。

「? ?? マジで大丈夫なのか?」

 動揺した俺は、慌ててゴレの顔を覗き込んだ。

 すると突然、彼女が再びコアラと化してしがみついてきた。

 ぐりぐりと胸に顔をうずめるように、必死に抱きついてくる。

 まるで、懸命に自己の存在をアピールするかのように。

 何だかひっぺがすのが可哀想になってきたので、しばらくこの体勢のままでいることにした。


 分かった、分かったよゴレ。

 どうしてもコアラの恰好がいいんだな。

 お前がそうしたいというのなら、俺は黙ってユーカリの木になるよ。 



------



 さて、それからどれくらいの時間が経っただろうか。

 そろそろ、お昼も近い頃合いだと思うのだが。


 俺は根気強く、ゴレの背中をなで続けている。

 激しい不安に揺れ続け、焦点のまるで定まっていなかったゴレの虚ろな瞳も、徐々にではあるが光を取り戻し始めていた。

 うるうると潤んだ赤い瞳が、すがるような上目づかいでこちらを見つめてくる。

「はぁ。ストレスだけでこんな事になっちまうとは……。お前のメンタルは、本当にお豆腐並みのもろさだなぁ……」

 溜息まじりで話しかけると、甘えるように鼻をこすりつけてきた。

 お豆腐メンタルと言われたにもかかわらず、こいつは何故か嬉しげである。相棒よ、オトウフというのは褒め言葉ではないぞ。

 仕方がないので頭をなでてやった。彼女は安心したように、俺の服の胸元の木製ボタンを口であむあむと甘噛みしはじめた。

 どうやら大分いつものゴレの調子に戻ってきたようだ。

 ……気のせいか若干、行動が幼児退行しているような気もするが。

 だが良かった、とりあえず峠は越えたようだ。この様子ならば、じきに元に戻るだろう。


「にしてもお前、口を器用に動かすようになったな。以前は物を噛んだりしなかったのに」

 俺の腕に抱かれ、小さくボタンを噛み続けているゴレ。

 やはりその様子は、どう見ても完全に赤ちゃんである。

 まぁ、普段こいつに赤ちゃん扱いされているのは、むしろ俺の方なのだ。たまにはこうして逆の立場になってみるというのも、別に悪くはないが……。

「ほーれ、よちよち」

 あやしてやりつつ、ゴレの柔らかなほっぺたを指でつついた。

 彼女はそんな俺の指を手に取り、嬉しそうににぎにぎしている。


 おそらく彼女の精神には、相当に莫大なストレスがかかっていたのだろう。

 幼児退行というのは、ストレスへの防御反応の一種である。人はどうにもできない現実を受け入れられずに心が壊れそうなとき、悲しい大人のすべてを忘れ、もう一度赤ちゃんになるのだ。

 今回は結構危なかったかもしれん。

 ゴレのストレス度数は、牛達の生命に直結する。

 危うくシドル山脈が、再び真っ赤な牛の血に染まるところだった。


 牛達の命が首の皮一つでつながった事にほっと安堵する俺だったが、すぐに、事態がまだ終息していない事に気付いた。

 それまで腕の中で赤ちゃんとなってバブバブと甘えていたゴレが、急に何かを思い出したように、すうっと視線を動かしたのだ。

 その首が、ゆっくりと後方へ振り向いていく。


 視線の先にいるのは……――そう、アセトゥだ。


 既にアセトゥは臨戦態勢だった。凛とした矢のごとき視線でゴレを見据えている。ゴレには屈しない、という強い意思を感じる。

 対するゴレの視線は、マグマのような烈しい怒りを帯びている。

 まっすぐなエメラルド色の瞳と、燃え滾るルビー色の瞳。

 二つの視線が、空中でかち合う。

 その瞬間。ゴレの全身から、どす黒い殺気が噴出した。

 一方のアセトゥにも、まるで引く気配がない。

 激しく渦巻く二つのオーラが、今、まさに激突せんとしている。


 お前ら、またそのパターンなのか!?

 ゴレの噛みつき衝動も大概だが、アセトゥもアセトゥだ。

 頼むから、毎度死を覚悟した目でゴレに挑んでいくのはやめてくれ! お前がこの勝負に賭けているのは、命よりも大切なものだとでも言うのか?


「だあああっ、もうっ! こらゴレ! お前ちょっといい加減にしなさい!」

 

 俺はゴレを抑えるべく、その身体を強く抱き寄せようとした。

 だが、このとき腕の中のゴレを見て、妙な事に気付いた。


 ……ゴレが、アセトゥを見ていない。

 いや、先ほどまでは確かに、アセトゥめがけて殺気を放ちつつあった。しかしその直後に、ゴレの視線がふいに少年から逸れたのだ。

 といって、ゴレは俺を見ているわけでもない。

 放出されつつあった殺気は弱まり、意識がどこかよそへ向いている。

 俺にくっついて背中に腕を回したまま、遠くに投げられているゴレの視線。

 その姿はまるで、はるか彼方の景色を見ているかのようだ。


 彼女のこういった上の空の様子に、俺は心当たりがあった。

 表土索敵で、何か遠くの気配を探っているときだ。

 かつて土の瘴気の地を旅していた頃、はるか遠方にいる猿の群れを発見するときに、ゴレはたまにこんな様子になることがあった。


 ここアセトゥの私室は、建物の一階にある。

 だからゴレは問題なく、表土索敵の範囲を広げることができているはずだ。

 といっても、こいつがわざわざ遠方まで探りを入れるような存在自体、そう多くはない。

 魔獣か、賊か――

 テテばあさんが危惧していた、里の周辺で起こりつつあるという、何かの危険事態の可能性が頭をよぎった。


 ゴレのやつ、もしかして何か異変に気付いたのか……?


「……ゴレ、どうかしたのか?」

 俺はゴレに問いかけた。

 彼女は耳を微かに揺らしながら、じっと見つめ返してくる。

 深紅の瞳が、くりくりとしている。

 まずいな、何を言っているのか分からん。


 ゴレは俺にひっついたまま、膝の上から離れる気配はない。

 この様子だと、差し迫った危険が発生しているわけではないのだろうか。


 ……いや、待て。そう結論付けるのは早計だ。

 ゴレのやつは、俺がお膝に抱っこしてやったときには、自分からは絶対に膝を降りないんだ。俺が降ろさない限り、うれしそうにずーっと乗っている。

 つまり膝から降りないのは、何の判断材料にもならん。


 ちょっと不味いかもしれない。

 ゴレに任せていては、たとえ俺は安全でも、里の皆は危険かもしれない。

 軽く焦りを感じ始めたとき、アセトゥが突然、はっとしたような声を上げた。


「ネマキ兄ちゃん、アルパスが呼んでる……!」


 少年の唐突なこの発言に、俺は首をかしげた。

 一本角が呼んでいるとは、どういう事だ?

 あいつは現在、番兵として里の正門脇に立っているはずだ。正門からここまでは距離的にそう離れてもいないが、先ほどから周囲は静かなものだ。誰かの声はおろか、物音の類も聞こえてはこない。

 第一、ゴーレムは喋らない。

「呼んでいるって、一本角がか? 俺には別に何も」

 聞こえないが、と言いかけたところで、アセトゥがこちらを振り返った。

「えへへ。さすがに表土索敵の最大射程では、うちのアルパスの方がゴレタルゥよりも上だったみたいだね」

 嬉しげな明るい声。

 しかし、このとき気付いた。

 その声の調子とは裏腹に、アセトゥの表情は固く緊張していたのだ。


「……兄ちゃん。東の方角から何かが複数、この里に向かって近づいて来ているみたいだ」

 



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