第64話 マディスとザイレーン
『ゴーレムの索敵紋の研究と魔術陣への応用 ――テテオ・マディス著――』
思い出した。
この本には、確かに覚えがある。
こいつを見たのは、俺が召喚されて間もない頃。
まだ、ゴレと出会う前……正確には、たしかゴレを生成した当日だ。
崩壊しないゴーレムの生成方法が分からなかった俺は、召喚主であるリュベウ・ザイレーンの書斎を手当たり次第に漁り、ゴーレム関連の書籍を探した。
そこで唯一見つけた一冊が、この本だった。
今の今まで思い出せなかったのも無理はない。あの時、難解すぎて中身が読めなかったこともあり、俺はこの本のことを、あっさりスルーしていた。何せあの頃はまだ、“索敵紋”という単語が、ゴーレムの額の紋様を意味している事すら、知らなかったくらいなのだ。
まさか、ここで再びこの本に出会うとは。
そして何より、リュベウ・ザイレーンが読んだはずの、この本の著者。
テテオ・マディスが存命で、今、俺の目の前にいる。
何という巡りあわせだ。
だが、考えてみれば、リュベウ・ザイレーンとて大昔の人物というわけではない。スペリア先生の師匠をやっていたくらいだから、当然相応の年齢ではあるだろう。しかし、生命を代償に俺の召喚などしなければ、普通に生きている年齢だった可能性もわりと高い。
奴がテテばあさんの著作を読んでいたとしても、何の不思議もないのだ。
手に取った分厚い本を、ぱらぱらとめくった。
やはり翻訳がバグってしまっていて、内容は読めない。
以前読んだときに比べれば、翻訳の虫食いが大分ましになっているような気もするが。いずれにせよ、これでは中身を理解するのは到底無理だな……。
「おや、えらく懐かしい本を引っぱり出しているじゃないかい?」
突然、横からテテばあさんが、ずいっと顔を出した。
「ぬうおわっ! ばあさんっ!?」
心臓が跳ね上がり、思わずのけぞってしまった。
「……何て声を出してるのさ」
「いや、すまん。急に出てくるから、驚いただけだ」
不味い。このばあさんは勘が良い。下手に勘繰られると、思わぬボロを出してしまうかもしれない。
「えっと……。懐かしいってのは、一体どういうことだ? この本、結構昔に書いた物なのか?」
とりあえず、話題を変えよう。
「こいつを書いたのは大戦前の、私がまだ帝都に住んでいた時分だからね。今からざっと40年以上も昔の話だよ」
「へえ、40年か。年季が入った本なんだな……」
そう言われてみれば、年代相応に古びた本だ。
盆地で見た本は保存魔術の影響で、さほどの古さを感じさせない状態だったが。
俺は、隣で物言いたげな表情をしている老婆を見た。
うっ……。あきらかに不審がっているな、ばあさん……。
とはいえだ。俺も破滅の魔導王の件などがあるから、反射的に警戒してしまったが、冷静に考えてみれば、実際そう身構えることはない。
ザイレーンがばあさんの本を読んでいたというだけで、別に、二人が関係者だというわけではないんだ。
宮廷大魔術師とかいう、超偉そうな肩書きのザイレーンが、わざわざ終の棲家にその著書を保有していたくらいだ。テテばあさんが有能な学者であることは、ほぼ間違いないと思われるが。
ま、たとえ人物背景や社会的地位がどうあろうとも、テテばあさんは、テテばあさんさ。俺の接し方は、これからも、何も変わりはしない。
……いや、待てよ。
まさか、ばあさんのこの本を読んだせいで、ザイレーンのアホが俺の召喚術式をひらめいた、なんてことはあるまいな!?
おいおい。万が一そうだとすれば、このババアが諸悪の根源ではないか!
「……何だい、その反抗的な目は?」
「な、なんでもない」
ふん。やはり、社会的地位がどうであれ、ババアはババアだな。
もちろん、悪の権化で腐り切った権力を濫用し、世界と俺に混沌と災厄をもたらす、邪悪で狂暴なモンスタークソババア的な意味で、である。
「……っと、そういえば、記録石板の設置ってのはもう終わったのか?」
テテばあさんの視線をかわすように、書斎机の方に目を泳がせた。
こうしてテテばあさんが俺のところへやって来たということは、すでに作業が終わったのではなかろうか。
しかし、それにしては、ゴレが戻って来る様子がない。
いつもはテテばあさんの手伝いが終わったら、俺に頭をなでてもらいに、エルフ耳をぴこぴこ動かしながら駆け寄ってくるのだが。
「ああ、暇なあんたが本棚で遊んでいる間に、取り付け作業は全部終わっちまったよ。今、ゴレタルゥが台所へ茶を沸かしに行ってくれている」
「なるほど、それで姿が見えないのか」
それにしても、今の言い方には随分と棘があったな、ばあさんよ?
俺とて、別に好きで優雅な書斎生活を満喫していたわけではないのだが。
そんな俺を、テテばあさんがじろりと睨んだ。
「まったく、さっきゴレタルゥが急に消えたときは、何事かと思ったよ。おまけにその後は、あんたにへばりついて離れなくなっちまうし。おかげであんたまで一緒に、書斎に入れなきゃならなくなっちまったじゃないか……」
「い、いや、それは多分、一緒にいたばあさんの監督責任じゃないか? そんなに俺を睨むなよ……」
「どうだかねえ? あの娘が突飛な行動に出るのは、大概あんたが理由だ」
「おいおい、そりゃ流石に濡れ衣だろうが……。というか、そもそも何で俺は書斎に入っちゃ駄目なんだ? ゴレは手伝いで普通に入っているのに」
まさか、俺に知られてはまずい事でもあるのか?
テテばあさんの重大な秘密が、この書斎には隠されているのかもしれない。
名探偵ばりの、鋭い推理力を発揮する俺。
だが、テテばあさんは、さも当たり前のような顔で返答した。
「だって、あんたを書斎に入れたら、本だの記録石板だの、興味本位で絶対にいじくり回すだろう。何でも口に入れちまう赤ん坊みたいに……」
「なっ!? ぐ、ぐぬ……!」
こ、このババア、言うに事欠いて……!
だが、それは確かに事実だな。何も言い返せないぞ。
このババア、俺の本質を完全に見抜いていやがる。
興味本位で拝借していたテテばあさんの著書を、俺は後ろ手で、そっと本棚に戻した。
本を戻しながら、改めて、テテばあさんの書斎を眺めた。
大量の蔵書に埋め尽くされた部屋だ。
そのわりに整頓はされている。テテばあさんは、綺麗好きだ。
この光景から思い出されるのは、やはり、リュベウ・ザイレーンの隠れ家の書斎である。同じような学者の書斎ということもあるのだろう、大体の雰囲気は似通っている。
書物の量も、おおむね似たようなものだ。
とはいえ、本の量自体はさして変わらないのだが、こうして見ていると、テテばあさんの方は、書斎というより研究室と言った感じがする。
なぜ俺がばあさんの書斎に、研究室という印象を抱いたのか。
……理由は、まさに問題の、“記録石板”の存在だ。
書斎に数台設置された、青白いノートパソコンみたいな、この石板。
現在その中心に、ゴレとばあさんが新たに設置したのであろう一台が鎮座している。
こいつらが、何というか……。
まさに、パソコンみたいなのである。
机上に設置された石板から、空中にディスプレイのように、光る文字列が表示されている。見た印象は、本当に、近未来型ノートパソコンといった感じだ。
まぁ、石板というくらいだ。素材は、あくまで石らしいのだが。
何だか、この世界の見た目の文明レベルから、露骨に浮いている。
この記録石板という魔道具は、“古代魔具”の一種らしい。
ばあさんから帰りの馬車の中で聞いた話を総合すると、どうもこいつは、データの記録と閲覧、各種の演算などができる魔道具のようだ。
まさに、パソコンである。
入力は、タッチパネルみたいな方式になる。スペックは良く分からないが、機能的にはスタンドアローンの極めてシンプルな物のようだ。少なくとも、使い勝手では元の世界のパソコンの方が上だろう。
こいつには凄まじく膨大なデータを書き込めるのだが、特徴として、“石の内部に記録を刻む”という保存形式を取る為、データを修正しても必ず元の記録が残る。
一度書き込むと、証拠が絶対に消えないのだ。
この点は、元の世界の電子データとは明らかに性質の違う点だ。
したがって、その用途は、ばあさんのような研究者が使うだけにとどまらない。役所などの公的機関が重要な記録を残したりする際にも、必ず使用されるらしい。
「……しかし、古代魔具というのは、わりとごろごろしている物なんだな。ばあさんの書斎に複数あることはともかくとして、役所なんかにも普通にあるんだろう、この記録石板というのは? もっと珍しい物なのかと思っていたよ」
古代魔具。たしかハゲの話では、多くが製法も失われてしまって、ほとんど出回っていない魔道具ということだった。
でも、ダンディの店では数こそ少なかったが、この記録石板は一応入荷を行っている様子に見えた。とはいえ、ダンディショップ自体はおそらく、アラヴィ藩の中でも、相当に品ぞろえのレベルが高い店なのではないかという気はするが。
「古代魔具の中でもね、この記録石板ってのは、ちょいと特殊なんだよ」
「……特殊?」
「他の多くの古代魔具とはちがって、記録石板は、製法が現存しているのさ。手間はかかるが、きちんと生産自体はできるんだよ。まぁ、もちろん、そう数が多い品ではないし、値段も目玉が飛び出るほどに高くはあるんだが」
「へえ、生産できるのか。このパソコ……記録石板は」
いや、思わず言い間違えそうになってしまったが、そうなってくると、本当にパソコンじみているな、こいつは。
そこで思い当たったことがあった。
俺の辞書翻訳から弾かれない、一部のコンピュータ用語の事だ。
まさか、こいつか。
原因は、この記録石板の存在だったのではないか……?
これだけ中身が似ているなら、当然この記録石板には、パソコンと重複する概念が用いられている部分があるはずだ。
そして、逆にネット用語が翻訳からほとんど弾かれるのも納得がいく。こいつには、インターネット機能がない。
何だか、まるでオーパーツだな……。
まさか、剣と魔法の世界にパソコンとは。
まぁ、この世界、剣と魔法の世界といっても、剣はゴーレムの拳でへし折られるし、魔法はゴーレムの表面であっさり弾かれるのだが……。
俺は、書斎内でいくつもの光る画面を空中表示している、近未来古代パソコンたちを眺めた。
この通り、この部屋には数台の記録石板がある。
一応、ここにある記録石板同士では、ローカルネットワークじみた物を組むことができるみたいだ。インターネットはできないが、何らかの通信機能は内蔵されているんだろうな。
「……しかしばあさん、何でこんなにぽこぽこ何台も、記録石板を買っているんだ? これって結構データ容量あるんだろ。それでも足りないのか?」
「ん? ああ、別に1つでもいいんだけどね。私の場合は仕事用と、純粋な記録用とを分けているのさ。私みたいな研究者だと、そういう風に使っている者もわりといるよ。自分の研究成果をきちんとした形で末永く残したいというのは、どの研究者でも思うことなんだよ」
「へえ。こいつに記録すると、そんなに長持ちするのか?」
「記録石板の本来の役割は、その名の通り、“記録”だからね。この石に記録させた情報は何千年……いや、下手をすると、何万年だって持つのさ。それこそ、たとえ世界が滅んだとしても、関係なくね」
「マジかよ。何気にパソコンよりすごいんだなこれ……」
たしかに説明を聞く限りだと、記録石板は、材質的には特殊な石の一種のようである。おまけにデータは、石の内部への刻印だ。本当に何千年でも保存が効きそうな雰囲気はある。
流石に世界が滅んでも大丈夫というのは、物の例えだろうが……。
俺の発言を聞いたテテばあさんが、怪訝な表情をした。
「ん? 何だい……ぱすこん?」
あ、パソコンが翻訳されなかったみたいだ。
「ああ、いや、すまん。俺の故郷にあった、似たような魔道具の名前だ。すぐ壊れるし、そういう意味では、記録石板よりずっとショボいんだが」
パソコン用語は結構な確率で翻訳を通るのに、「パソコン」自体はあっさり弾かれてしまうんだよなぁ。まったく、難儀な翻訳能力である。
まぁ、色々と似ているとはいっても、パソコンと記録石板自体は完全に別物だしな。これは仕方がない。
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ばあさんと話し込んでいると、静かに書斎の戸が開いた。
ゴレが飲み物を盆にのせて、書斎に入ってきたのである。
彼女は俺の隣にしっとりと足を揃えて座り、お茶会の用意を始めた。
その様子を見ていたテテばあさんが、ふと思い出したような顔で言った。
「そうだ。たしか、貰い物の茶菓子があったはずだよ。どうせそろそろ食べなきゃならないし……。どれ、取ってくるかね」
言うが早いか、ばあさんはさっと立ち上がり、書斎から出て行った。
全くもってフットワークの軽いばあさんである。
ゴレと一緒に、ぽつんと書斎に取り残された。
彼女が、優しく飲み物を差し出してくれる。
受け取って、口をつけようとした。
おや? てっきりいつもの豆茶かと思っていたが、俺の分の飲み物は、温かい山羊の乳だ。
一口飲むと、ほんのり甘い。
何か、蜂蜜でも混ぜてあるのだろうか。
そういえば、帰宅早々、クランベリー林檎様のお子様達が生まれていたり、ゴレが玄関を吹き飛ばしたり、色々と事件が起きたせいで忘れていたが、俺はまだ長旅から戻ったばかりだ。歩きどおしで疲れた体に、ミルクとこの甘味は、とても心地良い。身体の中に、優しく沁みこんでいくようだ。
ゴレのやつ、疲れた俺のために、わざわざ飲み物の種類を変えてくれたのか。
こいつは、いつも俺の細かな変化を見て、心配してくれている。俺自身ですらこの瞬間まで、疲労など自覚していなかったというのに……。
「う、うう……。ゴレ、ありがとう。お前は優しいなぁ」
俺は震える手で、ゴレを優しく抱きしめた。
「さっきは悪い子だなんて思って、すまなかった……。本当にごめんな……」
すまん、本当にすまんゴレ。
俺が浅はかだった。やはりお前が世界で一番優しくて良い子だ。
いきなり抱きしめられたゴレは、最初若干パニックを起こしてわたわたと手を動かしていたが、やがて、ゆっくりと抱きしめ返してきた。
その身体から、ほんのりと小さな熱が伝わってくる。
こうして俺は、玄関吹き飛ばしに始まるゴレの問題行動の数々を、あっさりとすべて不問に付した。
……そう。俺は何だかんだいって、ゴレには甘かった。
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密室の書斎でふたりきり、やたらべたべたと抱きついてくるゴレを膝の上に乗せながら、ゆっくりと山羊のミルクを飲んだ。甘い。
向こうの机で、記録石板の空中ディスプレイが、チカチカと光っている。
青白い光の明滅を見つめながら、俺は、先ほどのテテばあさんの言葉を思い出していた。
「石に刻み込まれた大量の情報が、何千年も、何万年も。たとえ世界が滅んだとしても残る……か」
半端ないな、記録石板は。
しかも、こんな物をわりと多くの研究者や役人が持っているなんて。
そりゃ、見た目のわりに妙に技術力も高くなるはずだわ、この世界。
はて。しかしそうなってくると、一つ引っかかることがある。
「なぁゴレ。……ザイレーンの書斎に、記録石板ってあったか?」
ゴレが、きょとんとした顔で見つめかえしてきた。
この感じは、覚えていなさそうだ。
「……まぁ、お前は覚えてないよな」
困惑顔のゴレの頭を、くしゃくしゃとなでた。
こいつはザイレーンの書斎では、いつも俺の顔ばかりガン見していた。そもそも書斎内部の様子なんて、真面目に見てはいないだろう。
ともあれ、俺の記憶が正しければ、ザイレーンの書斎には、記録石板なんぞ無かったように思う。
あいつは宮廷大魔術師とかいう超絶エリート様だし、多くの本も執筆していたようだった。書斎机にも、魔術陣の設計図が置いてあったり、直前まで研究をしていたような形跡があった。パソコンの1台や2台、置いていても良さそうなものだが。
「別に、隠れ家の他の部屋にも、ザイレーンの白骨死体があった大岩扉の洞穴にも、記録石板なんて一つも置いていなかったよな?」
あいつやっぱり、意外と貧乏だったのかなぁ……。
思案している俺の言葉を、ゴレが長い耳を張りつめさせて聞いている。
話を懸命に理解しようとする気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
俺以外の人間の話を聞くときにも、せめてこの1%くらいの真剣さがあれば、もう少し話がスムーズに進むのだが……。
真剣なゴレの瞳と長いまつ毛を見ていて、ふと気付いた。
「あっ、そうか。そういえば、“大岩扉の洞穴”なんて言われても、お前には分からないのか……」
ゴレのやつ、どうりで神妙な顔つきをしているわけだ。
実際のところ、俺の召喚とゴレの生成には、数日間のタイムラグがある。召喚直後のゴタゴタについては、こいつは知らないんだ。この世界でずっと一緒に行動してきたせいで、油断していると、つい、ふたりで仲良くこの世界にやってきたかのように錯覚しがちなのだけど。
そうか、ちょっと説明しておいてやるか。
俺は、温かく甘いミルクを、ゆっくりと口に含んだ。そして、膝の上で対面座りをしているゴレに、大岩扉の洞穴についての解説を始めた。
「ほらゴレ、覚えているか? 例の盆地の、俺がやって来た召喚用魔術陣。果物狩りのときに、一度見せてやっただろう? 実はあの北側の崖にはな、ザイレーンの作った、変てこな石の洞窟があって……」
「ザイレーン? ネマキ、何であんたがザイレーンを知っているんだい?」
いつの間にかテテばあさんの顔面が、俺のすぐ真横にあった。
「ブーーーーーーッ!!!!?」
口に含んだミルクが、盛大に噴出した。
俺の熱いミルクをぶっかけられたゴレが、白濁まみれになって、びくびくと痙攣しながらひっくり返った。
だが、今はそれどころではない。
「なっ、びゃっ、ばゃあしゃん!? 何故あんたがここにいるんだ??」
「何故って、そりゃあ私の書斎だからに決まっているだろう。何ボケたことを言ってるんだい……」
「い、いつからいた……?」
「あんたが膝の上でゴレタルゥに腰をくねくね振らせながら、ザイレーンがどうのこうのと喋っていたあたりだよ」
ってことは、わりと最後の方か?
ならば別に妙な事はしゃべっていない、よな……?
「で? 今度は私の質問にも答えな。ザイレーンって言やあ、リュベウ・ザイレーンのことだろう。あんた、まさかザイレーンの坊主と知り合いなのかい?」
「い、いや……それは……」
この口ぶり、どうやらテテばあさんもザイレーンのことを知っていたらしい。
だが、どうする。
ばあさんに、素直に事情を話すか?
たしかに、今更俺が異世界から召喚されたと知ったところで、このツンデレばあさんが、俺達を官憲に引き渡すとは正直思えない。むしろあの手この手で、俺達のことを保護しようとするのではないかという気すらする。
しかし、破滅の魔導王についての詳細も危険性も何も分からない今の状態で、彼女を俺の事情に巻き込んでしまって、本当に良いものなのだろうか。
せめて、もう少し色々と分かった後だったなら……。俺は唇を噛みしめた。
「実は……。以前その、ザイレーンって人の書いた、魔術の入門書を読んだことがあるんだ。実にわかりやすい良い本だったよ」
「…………。へえ。ザイレーンの坊主が入門書を? そいつは初耳だ」
「知らないか? 『魔術入門』っていう本なんだが」
「そりゃ、帝国の公式魔術教本の題名だね。ザイレーンの坊主が執筆者になっていたってのは、知らなかったが。まぁ、私があいつに会ったのは随分昔のことだし、その後に色々と書いたんだろうよ」
ザイレーンと会った?
なんと。テテばあさん、ザイレーンの野郎と直接の面識があるのか!
というか、ばあさんは先ほどから、ザイレーンを「坊主」と呼んでいる。このばあさん、もしやザイレーンより年上なのか? いったい何時の時代からババアをやっているんだ??
とはいえ、レディに年齢を聞くのは失礼である。
この場合質問するなら、むしろザイレーンの方の年齢だろう。
「なぁ、ばあさん。リュベウ・ザイレーンってのは、幾つぐらいの人なんだ?」
「初めて会ったときに、たしか本人が21歳と言っていたから……。今、生きていれば、おそらく70歳手前くらいかね」
「へえ、やはり結構な爺さんなんだな」
まぁ、おそらく実際の死亡年齢はもっと若いはずだが。
それにしても、こうしていざ奴について質問できるとなると、どんどん疑問が湧いてくる。
「なぁ、ザイレーンって、一体どんな奴だった? ばあさんは、ザイレーンとどんな関係なんだ?」
「え、えらい食いつくね、あんた」
俺の勢いにたじろぐテテばあさんだったが、軽く一回咳払いをした。
「……私もそう詳しくは知らないよ? むしろ、あいつの師匠と私が同門だったから、その付き合いで、弟子のあいつとも何度か顔を合わせたってだけさ。その後、私は帝都を出て、この里に引っ込んじまったからね。今、どうしているのかもわからないよ」
「なるほど、そうか……」
ばあさんとザイレーンは、そこまでの深い関係ではなかったようだな。
同業者同士の横のつながりって感じだろうか?
「ザイレーンの坊主がどんな奴だったか、ねえ……。まぁ、大人しい真面目な男だったように思うよ? とびきり優秀ではあったが、特に才を鼻にかけているようなところもなかったし……」
おいおい、ばあさんよ。あんたの目は節穴か!
そいつは腹の底では世界を滅ぼそうとか考えちゃっている、頭のイカれた超クレイジーサイコ野郎だぞ!
「真面目な良い奴? そんな筈がないだろう。もっとないのか、こう、ザイレーンのクズエピソードは!?」
「はあ? 何をむきになっているんだい? ああ、そういや、同じ研究室の若い娘と恋仲だとかいう話を、あいつの師匠から聞いたことがあったか。だが、それも微笑ましい真面目なお付き合いだったようだし……。特に浮いた話じゃないね」
「なんだそれは、ふざけているのか!?」
ええい! なんというリア充なのだ、ザイレーンのクソは! 俺はそいつのせいで、おっさんと野郎と幼女とババアまみれの異世界生活を余儀なくされているのだぞ!
ゆ、許せん。マジで許せん。
俺のザイレーンに対する怒りのボルテージは、MAXに達しようとしていた。
憤怒に肩を震わせる俺に、テテばあさんが話しかけてきた。
「なぁネマキ……ちょいと、聞いているのかい?」
「何だ? 俺は今、クソ野郎への怒りを鎮めるのに忙しいんだが」
「あんたの気分なんぞ知らないが……。そんなことより、そろそろゴレタルゥを何とかしてやった方が良いんじゃないかい?」
「え……?」
見れば、ミルクぶっかけで白濁まみれになったゴレが、ぐったりと床に横たわっている。
その瞳は、ピンク色に染まっていた。
し、しまった! すまないゴレ、今拭いてやるぞ!
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テテばあさんの書斎を後にし、ゴレとふたりで屋敷の庭に出た。
ぶっかけてしまった山羊のミルクは、綺麗に拭き終わっている。
こいつの身体は元々汚れを弾くから、こういう場合は、さっと拭き取るだけで済む。非常に助かる。
日当たりのよい庭を歩いているとき、地面をつついている鶏たちの中に、ヒヨコが混ざっていることに気付いた。
藩都へ行っている間に孵ったのだろうか?
黄色くて、丸っこくて、ふわふわだ。
「可愛いなぁ」
生まれたばかりの生命というのは、実に可愛いらしい。
ヒヨコたちも、まるでクランベリー林檎様の子供たちのごとき愛らしさだ。
「……あ、そうだ!」
このとき、あることを思いついた俺は、ゴレの手を握った。
急に手を握られたゴレが、カクンと前のめりになって、つんのめった。
……?
なんだこいつ、今まるで、鶏の群れめがけて突っ込もうとしているような体勢だったが……。
まぁいい。
「ゴレ、お前に見せたいものがあるんだ。ついてきてくれ」
俺は彼女の手を引いて、駆け出した。
相棒に、クランベリー林檎様の芽を見せてやろう。
きっと驚くぞ。
こいつも、あの実のことが大好きなんだ。
盆地の庭先が今ごろ若芽でいっぱいになっていると知れば、絶対に喜ぶにちがいない。
周囲には、明るい日差しが降り注いでいる。
ふたりで手を取り合って駆けていると、ふいにゴレが繋いだ手を、強く握り返してきた。
透きとおるほどに白くて長い彼女の髪が、踊るように波打っている。
その紅玉色の虹彩は、まるで宝石みたいにきらきらと光り輝いていた。
というわけで、第5章終了です。
今回わりと大人しめな回でしたが、物語全体の小さなターニングポイントに当たるので、ザイレーンとテテオさんの関係性や、やたらハイテクなPCもどきがある世界なんだな? という点など、少しだけ頭の隅にとどめておいていただければと思います。




