第62話 酔っ払いと尻叩き
「お、おい。ピュウルス、あんた大丈夫か?」
床に崩れ落ち、虚ろな目でぶつぶつ言いはじめた地中海男。
その姿に困惑していたとき、突然、周囲に爆発のような歓声がわき起こった。
見れば、演習場を取り囲む大勢の野次馬たちが、大興奮している。
「……あ、そうか。俺、試合に勝ったんだった」
周囲は、まさしく熱狂の渦だ。
皆さん、実に楽しげなご様子である。
さすがマディス師の秘蔵っ子だ! とか、若き日の師の伝説の再来だ! だとか、口々に好き勝手なことをおっしゃっているのが聞こえる。
それにしても、問題はこの野次馬の人々だ。
野次馬や観客と呼んではいたが、この人達の中に、街で見かけるような町人の装いをした人は一人としていない。だいたいが高級そうな魔術師のローブや、法衣のような服を着ている。
考えてみれば、こうして魔術師協会内の施設に、普通に出入りをしている人々なのだ。おそらく全員、それなりに地位のある魔術師達なのだろう。
この中に、テテばあさんに告げ口をする人がいなければ良いのだが……。
「きゃああああ!!! ネマキくうううん!」
おや? 女性の黄色い歓声も聞こえてくるな。
俺は観客の方を見た。
あっ、叫んでいるのは、例の優雅なマダムじゃないか。
扇子をぱたぱたと振りながら、興奮気味に歓声を上げ続けるマダム。その姿はさながら、アイドルに熱狂する主婦のようだ。
まぁ、おそらく今の俺は、この世界の人々の感覚でいえば、試合に勝利した花形スポーツ選手のようなものなのだろう。どうもゴーレム同士での試合というのは、競技化されている様子だし。
それにしても、マダムよ。空中回廊で見かけたときの、あの上品な淑女は一体どこへ行ってしまわれたのだ。貴方、実はそういうキャラだったのか。
そういえば、この人の大きな歓声は、試合中も聞こえていた。
そうか。俺のことを、ずっと応援してくれていたのだな……。
優しいこの年上の貴族女性に向かって、俺は笑顔で手を振った。
「いやあああああ!!! かわいいいいいいいいい!!!」
マダムが黄色い悲鳴を上げている。
――めきっ。
周囲の歓声に混ざって、何か大きな音がしたような気がした。
俺は、妙な音のした方を振り返った。
そこにはゴレが立っている。
ゴレの足元の床に、なぜか、大きな亀裂が入っていた。
おいおい。この演習場の石の床、まさかの欠陥建築か。
魔術師協会は建物に金をかけているように思っていたのだが、存外、ここの建築というのも、たいしたことはなかったようだ。
「勝利おめでとうございます、ダサイ様!」
床の亀裂を眺めていた俺に、担当職員のお兄さんが駆け寄ってきた。
「マディス師のお弟子様ですから、相当の使い手なのだろうとは察していましたが……! 想像以上の凄まじさですね!」
職員のお兄さんは興奮気味である。
「はっはっは! 俺達の大勝利です!」
周囲の熱狂にのまれて若干ハイテンションな俺は、お兄さんとハイタッチをしようと、両手を掲げた。
が、彼はきょとんとした顔で、俺の掲げた両手を見ている。
しまった。どうやらこの世界には、ハイタッチの風習はなかったようだ。そういえば、土下座の風習もなかったもんな、この世界。
「あ、いや……。俺の故郷の風習なんです。お互いにこう、手のひらを合わせるのですが……」
一瞬にして勝利の熱狂は消え去り、両手を挙げたまま、いたたまれない気持ちで泣きそうになる俺。
「はぁ、なるほど。……こうでしょうか?」
お兄さんが、控えめにハイタッチをしてくれた。
やはりこの人は、良い人である。
「ところで、これでもう、俺は試験に合格ってことで良いのですか?」
「ええ、そうなりますね。今回の入会にともなう試験は、この実技試験のみですから。一応、審査役であるデマラーン師の承認は必要になりますが」
「あいつの承認ですか……」
向こうで椅子に座る、太った丸い老人の様子を見た。
デマラーンは涙目で、ぶんぶんと首をふっている。
「い、いやだっ! わしは認めんぞ、マディスの弟子の合格なんて! そ、そうだっ。今の試合は、実は本番前の練習だったのだ! 次は、我が二番弟子と三番弟子と四番弟子が相手を……」
「子供か、お前は!」
思わずツッコミを入れてしまったぞ。
まったく。わざわざ呼び出されたあげく、ゴレにボコられる弟子たちの身にもなってやってくれ。そいつらも全員、そこにいるピュウルスみたいな、お通夜ムードになってしまうだろうが。
そんな事になれば、俺は場の重い空気に耐えられそうにない。
「ネマキくうううううん!!! こっち向いてえええええええ!!!」
このとき、観客の方から、例のマダムの黄色い叫び声が聞こえた。
彼女は熱心に俺の名を呼び続けている。
マダムよ。俺は今、それどころではないのだが……。
まったく、仕方のないレディである。俺はファンの声援に応えるべく、笑顔で彼女の方を振り向こうとした――
――ドゴンッ!
突然、凄まじい破壊音が響いた。
慌てて視線を前に戻すと、ゴレの足元の床が、めちゃくちゃに壊れている。
い、一体何事だ……?
「ひいいいいい!? 殺さないでくれええええ!」
見れば、なぜかデマラーンが命乞いを始めている。
奴の座っていた椅子は倒壊し、デマラーンが床に転げ落ちていた。
どうやら、ゴレの足元から縦に発生した亀裂が、たまたまデマラーンの椅子を直撃したようだ。
実は、ゴレとデマラーンの距離は、けっこう近いのだ。
今回の試合では、序盤、ピュウルスは完全に受けに回っている。その関係上、ゴレがわりと敵陣の奥にまで斬り込む形になっているのだ。
なぜか殺伐としたオーラをまき散らしながら、無言で立っているゴレ。
やはりゴレのやつも、デマラーンの数々の権力濫用の横暴が、流石に腹に据えかねたのだろうか……?
ゴレの姿を見上げるデマラーンは、青ざめてぶるぶると震えている。
突如、何かに急き立てられるように、デマラーンが声を上げた。
「……ご、合格っ! ネマキ・ダサイは、たった今、入会試験に合格した! 審査役である、このデマラーンが承認する!」
涙目のデマラーンの叫び声が、演習場に響き渡った。
直後、周囲から、どっと大きな喝采が起こった。
……どうやら俺は、無事、試験に合格できたようである。
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「くうううっ! マディスだけでなく、弟子にも勝てんとはあああ!」
デマラーンはうずくまって泣きながら、床をダンダンと叩いている。
おのれマディスめ、マディスめえええっ、と、少々声がうるさい。
この“マディス”というのは、やはり、テテばあさんのことを言っているのだろう。
テテばあさんの姓は、おそらく、マディスというのだ。
ばあさんは自己紹介のときには、テテと名乗っていた。里の皆も、気楽な感じで、テテ先生、テテ先生と呼んでいる。
だから、てっきりテテばあさんには、名字がないのかと思っていた。
この世界、名字がない人もけっこういるのだ。
例えば身近な例だと、ハゲやテルゥちゃんなんかは、おそらく名字がない。
べつに、平民は名字がなくて貴族には名字がある、といったような厳格なものでもないみたいなのだが……。
「にしても、デマラーンのやつは何故ここまで、うちのばあさんに固執するんだろう……?」
弟子と誤解した俺にまで絡んできたほどなのだ。デマラーンとテテばあさんの間には、よほど深い対立の溝があるのだろう。
ばあさんもデマラーンも権力者のようだし、お互いに派閥の威信をかけて、熾烈な政治抗争でもやっているのだろうか?
俺が首をかしげていると、職員のお兄さんがそっと囁いてきた。
「私も詳しくは知らないのですが……。デマラーン師は現役時代、名うてのゴーレム使いだったそうなのです。でも、マディス師には、試合で負けっぱなしだったらしくて……。それで、こんな風によく絡んでこられるみたいですね」
「それ、完全に私怨じゃないですか……」
本当にどうしようもないな、デマラーンのアホは……。
演習場を退去するとき、床に突っ伏すデマラーンの横を通った。
俺はなんとなく、足元のデマラーンに声をかけた。
「なぁ、デマラーン。あんたさ、私怨でうちのばあさんに絡むのなんて、もうやめとけよ。復讐は、悲しみと杖による報復しか生まんぞ……」
この俺の言葉に、突っ伏しているデマラーン本人ではなく、そばで座り込んでいたピュウルスが反応した。
地中海男は、俺を見てくやしげに呻いた。
「くっ、お前にお師匠の悲しみの、一体何が分かるというのだ。……お師匠はなぁ、若いころ、マディス師によって、結婚をぶち壊されているのだぞっ!」
「え?」
何だと。
それは一体、どういうことだ……?
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「まったく、うちのババアは最悪だな! 男の敵だ!」
「おう、おう、分かってくれるか、ネマキよ。お前は本当に良い奴だなぁ!」
「私は最初から気付いていたぞ、兄弟! お前はマディス師の手先などではないとな!」
魔術師協会の最上階にある、高級カフェのような一角。
俺はなぜか、そこでデマラーン師弟と意気投合していた。
「まったく、うちのババアがそんな外道だったとは。ババアが戻ってきたら、俺が一言文句をいってやるよ。前々から、うちのババアはちょっと野蛮すぎると思っていたんだ」
さきほど、俺はデマラーンから、ババアとの因縁のあらましを聞いた。
デマラーンは若かりし青春時代、この国の帝都でひらかれた、とあるゴーレムの競技大会に出場したそうだ。
この大会で、彼は優勝の暁には、意中の女性に結婚を申し込むと、周囲に公言していた。そのときの準決勝の試合相手が、テテばあさんだったのである。彼はテテばあさんに容赦なくボコボコにされまくり、敗北したそうだ。
ここまでは仕方がない。まぁ、勝負事の世界だ。
しかし、あろうことかその試合で、テテばあさんはデバスを使い、機能停止したデマラーンの愛機を、バラバラにぶっ壊して観衆に晒した。さらには試合場の上で、鞭を使ってデマラーンをしばきまくり、彼に大恥をかかせたそうだ。
ばあさんって若い頃は、杖ではなく、鞭を使っていたみたいである。
俺、若い頃のばあさんに出会わなくて、本当に良かった……。
ともあれ、これによってデマラーンのプロポーズは見事に失敗。不遇な非モテ青春時代を過ごしたそうである。
「ゆ、許せん。許せんぞ、悪のババアめ! 俺が絶対に矯正してやる!」
力強く演説する俺。
デマラーンとピュウルスが呼応する。
「ネマキよ、お前はマディスの弟子にしておくには惜しいっ! 惜しいぞっ! どうだ、わがデマラーン派に来ないか。わしは藩の中枢にも顔が効くからな。お前が仕官したいと言うのなら、推挙もしてやれるぞ?」
「それが良いぞ、兄弟! 兄弟のような奴なら、私達も大歓迎だ!」
「おー? さっそく敵対陣営の引き抜き工作か? なかなかの悪じゃないか、じいさんよ?」
デマラーンのあごを、たぷたぷと叩く俺。
ガハガハと笑うデマラーン。
「あ、あの、お三方とも、少し飲み過ぎでは……」
同席している職員のお兄さんが、心配そうな顔で注意してきた。
何だか、隣に座っているゴレも心配そうだ。
だが、ふたりとも、心配は無用だぞ。別に、真昼間から酒を飲んでいるわけではないのだから。俺はそのような自堕落な人間ではない。今飲んでいるのは、協会のサービスドリンクにもなっていた、例のグレープフルーツジュースだ。
これは実に美味いな。それに、飲むと気分が良くなってくる。
「兄弟はなかなか良い飲みっぷりじゃないか。おい、アラドにセウド。じゃんじゃん檸酔水を持って来てくれ!」
ピュウルスの言葉を受けて、2体の青い短槍ゴーレム達が、盆にのせたグレープフルーツジュースを運んで来た。
短槍ゴーレムというのは、こんな風に、非常に器用なゴーレムだ。大きさも手ごろだし、都会で人気が出るのもうなずける。
俺はおりこうな短槍ゴーレム達から、笑顔でジュースを受け取ろうとした。
このとき、割り込んできたゴレが、彼らの盆の上からジュースを奪い取った。
ゴレは彼らを肩でぐいぐい後ろへ押しやりながら、ジュースを優しく俺に差し出してくる。器用なやつである。
どんどん通路へと押しやられる青いゴーレム達を見ていて、俺はふと思い出した事をピュウルスに質問した。
「……なぁ、ピュウルス。試合のとき、こいつらを縦列の妙な陣形で並ばせていただろう? あれは、一体どういう意味があったんだ?」
「ん? おお、その件か。よくぞ聞いてくれた。あの陣形は、そのまま突撃にも移行できるんだがな、本命はそこではないのだ。……あれを見てくれ」
日焼けした地中海男はそう言うと、壁際に置いてある、石の手槍を指さした。
さきほどの試合で、彼のゴーレム達が使っていた武器だ。
「2本の槍で、それぞれ長さが違っているだろう?」
「あ、本当だな」
右に置いてある槍は、左の槍の1.5倍以上の長さがある。
試合中には、まるで気付かなかった。……いや、むしろ気付かれないように立ち回っていたと考えるべきか?
「後衛に持たせる槍はな、あんな風に、リーチを長く作ってあるんだよ」
「ふむふむ、なるほどな。それで?」
「敵は、攻撃を前衛のアラドの盾で阻まれた瞬間に、まず、盾の死角からのカウンターの槍に襲われるわけだ」
ピュウルスは、身振りで槍を突くような動作をした。
たしかに、試合中もカウンターを狙っているような気配はあったな。
「……で、ここまでは対応されるケースも多いんだがな。実は、この槍の一撃を凌がれた段階で、アラドの身体で死角になっている背後から、後衛のセウドが、本命の二の槍を放つってわけだ。ふっふっふ、つまりは、げに恐ろしき三段構えの陣形さ。大体の敵は、これで落ちるな」
「おお、お前も色々と考えているんだなぁ」
上機嫌で説明するピュウルスに、相槌を打つ俺。
それにしても、ピュウルスのやつ、そんな大事なカウンター戦法を、ぺらぺらと俺に喋って大丈夫なのか……? 何だか、まるで酔っ払いみたいな奴だな。
「おのれええ! 卑劣なマディスめえええ! 次こそはわしが勝ぁつ!」
赤ら顔をしたデマラーンが、上機嫌で叫んでいる。
「よしよし、デマラーンのじいさんよ。あんたはまさしく、ババアによる最古の被害者だ。我が『ババアの杖被害者の会』の名誉顧問に任命してやろう」
「ほうほう。何だか良くわからんが、このわしが顧問を務める以上は、その組織をアラヴィ藩、いや、帝国一の大勢力にしてやろうではないか」
「おっ、またまた悪い顔をしているなぁ、じいさんよ」
肩を組み、ガハガハと笑う、俺とデマラーン。
と、このとき、背後から突然、ドスの効いた老婆の声がした。
「……ほおう? これはまた、随分と楽しそうな相談をしているようだねぇ」
たらり、と背筋に冷や汗が流れた。
慌てて後ろを振り返った。
そこには、鬼の形相のテテばあさんが、腕組みをして立っていた。
「げええええっ! ばあさん!?」
「げえええっ! マディス!?」
狼狽する、俺とデマラーン。
その姿は、二人そろって今にもソファから転げ落ちんばかりである。
「ネマキ! このアホたれがっ! 人があんたのために頭を下げて回っているときに、手前は一体何をやっているんだい!」
「い、いや、その、これはだな……。あっ、そうだ! 聞いたぞ、ばあさん。あんたデマラーンのじいさんに、昔随分と酷いことをしたそうじゃないか。何でも公衆の面前で、鞭でしばきまくったとか……」
「はあ? そりゃ、そこのアホじじいが、試合前に私を金で買収しようとしたからだ! 見せしめに、とっちめてやっただけだよ!」
な、何ィ!? 買収だと?
そんな話は聞いていないぞ。
「おい、それは本当か、じいさん!?」
問い詰めたデマラーンの視線が、虚空を泳いでいる。
「そ、そういえば、そんな事もあったかもしれんのう……」
おい、クソメタボ!
そういう話の肝心な部分を、端折って説明しているんじゃあない!
激しくうろたえる俺に、ばあさんがぽつりと呟いた。
「……百叩きだね」
「は?」
「ネマキ、あんたデマラーンと一緒になって、入会試験なんぞと称して、随分愉快な騒動を起こしてくれたようじゃないか。協会中が、その話題で大騒ぎだったよ」
「そ、それは……」
「あたしゃ言ったよねえ? 妙な騒ぎを起こしたら、尻を百叩きにすると」
「お、お、お……」
顔面蒼白になる俺。
ふと気付くと、テーブルとソファが、ガタガタと激しく揺れている。
ゴレだ。
隣に座っていたゴレのやつが、まるで電動マッサージ機のように、激しくぶるぶると震えているのだ。
こいつは、俺が尻を百叩きにされる光景を想像し、その想像だけで、精神に深刻なダメージを受けはじめている。
あまりの激しい振動に、テーブルのグラスがガチャンと倒れた。
テテばあさんが、杖をぶんぶんと素振りしながら言った。
「……よし、アホたれども、そこに尻を並べな。私は優しいからね、今回は百叩きを4人で割って、1人25発にしておいてやる」
事ここに至っては、もはや観念するしかない。
すべてを諦めた俺は、大人しく壁に手をつき、尻をつき出した。下手に抵抗すれば、ゴレが長い時間苦しむことになるからだ。
だが、このばあさんの発言に、デマラーンと、職員のお兄さんと、ピュウルスが、一斉に悲鳴を上げた。
「えっ? わしもか!?」
「お、お待ちください。4人って、まさか私も頭数に入っているのですか!?」
「ひいいいいっ! お師匠のせいですよおおお!」
すまない。本当にすまない皆。
だが、うちの相棒のストレス軽減のために、付き合ってくれ……。
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「まったく、えらい目にあった……」
尻をさすりながら、俺はつぶやいた。
魔術師協会のロビーは、穏やかな静寂に包まれている。
現在、俺達はすでにデマラーン師弟とは別れ、最上階からこの1階ロビーに戻って来ている。
ゴレは今回の尻叩きでは、意外と精神ダメージを受けなかったみたいだ。
デマラーンとピュウルスが尻を叩かれて悲鳴をあげるのがおかしくて、途中から俺が笑っていたせいかもしれない。ゴレも途中から隣に寄り添って、うれしそうにしていた。
今彼女は、叩かれた俺の尻をなでようか迷っているようだ。
手を出したりひっこめたりを、10分以上ずっと繰り返している。
俺の酔いは、すでにすっかりさめていた。
ふわふわと靄がかかっていた頭の中も、今はすっきりとしている。
これは、尻叩きで目がさめたというのもあるのだが、実は先ほど、テテばあさんから酔い覚ましに、解毒の魔術をかけてもらったのだ。
解毒魔術は、水属性治癒魔術の下位分類のうちの一つだ。
テテばあさんは、土属性の他に、水属性も使えるみたいである。
この解毒の魔術ってのは、毒にあわせて複数種類が存在している。
万能じゃないわけだ。ある程度の医療知識がないと、使いこなせない。
しかも、あくまで“体内での毒素の分解と排出を早める”魔術がほとんどで、解毒魔術自体がまるで効かない毒もあるようだ。ただ、こいつはアルコールなどの酩酊成分の分解の促進には、かなりの高い効果がある。
要するに、酔い覚ましや二日酔いに効くってことだ。
ちなみに、テテばあさんからこの魔術をかけてもらうのは、今回が二度目だ。
一度目は、例の首吊り人参の毒で死にかけたときである。
しかし、おかしいな。
俺は何故酔っぱらっていたのだ?
アルコールなど、一滴も摂取していないはずなのだが……??
ともあれ、すっきりと酔いのさめた頭で、机の上に積まれた書類を眺めた。
実技試験には、無事合格した。後は、この入会書類にサインをして、すべての手続きは終了という運びのようだ。
入会の説明書類は、けっこう多い。
ま、面倒くさいし、内容は読まなくてもいいだろう。
気に入らなければ、すぐに脱会すれば良いだけのことだ。
「えっと、署名欄はここか。よし。ねまき・ださい……っと」
俺は気楽に入会書類にサインをし、拇印をぽちっと押した。
なるほど。テテばあさんが、名前を書けるよう練習しろと急に命令してきたのは、このためだったのだろう。
「それでは、こちらが当魔術師協会の、上級会員証になります」
担当のお兄さんが、名刺大の会員証を手渡してくれた。
黒に銀文字の輝く、高級そうな会員証である。
「へえ……。これが会員証ですか」
俺は、会員証をぺらぺらとひっくり返して確認した。
やたらと渋い会員証だ。真っ黒だし。
見れば、きちんと俺の名前などが刻印してある。
えらく発行の手際が良いが、これはおそらく、俺が試験を受ける前から、すでに発行手続きを開始していたのだろう。本来は実技試験自体が儀礼的なもので、合格させる気満々だった様子だし。
「おめでとうございます、ダサイ様。これにてダサイ様は無事、当協会の上級会員です」
お兄さんが、笑顔で無事の入会を祝ってくれた。
悪くない気分である。
「あはは、ありがとうございます」
「一時はどうなることかと思いましたが、本当に良かったです」
「いやぁ、本当に、その節はご心配をかけてすみませんでした……」
俺とお兄さんがのんびりと談笑していると、ちょうど、ロビーで他の魔術師達と世話話をしていたテテばあさんが戻って来た。
机上の入会書類を見たテテばあさんは、にやりと笑った。
「よしよし、上出来だ。これであんたも上級会員だねえ」
相変わらず、邪悪な笑みを浮かべるばあさんである。
ばあさんの黒い笑みを見ていて、ふとある疑問が浮かんだ。
「……なぁ、ばあさん。何故ここまでして、魔術師協会への入会にこだわったんだ? ここってどう考えても、入るのが相当に難しい組織だろう。ばあさん自身、関係者に根回しをしまくっていた様子だし……。身分証を発行するだけなら、もしかして、もっと別の方法があったんじゃないのか?」
「うーん。まぁ、そういう方法も、全くないわけじゃあないがね」
そう言うと、ばあさんはちらりと俺の顔を見た。
「あんた、図書館で何か大事な調べ物があるって言っていただろう? ここの協会員なら、公立図書館のほとんどの本が閲覧できるのさ」
「! 何だと。魔術師協会には、そんな会員特典があるのか」
それは助かる。
そうか、図書館には、閲覧制限のある書籍も当然存在するよな。俺が調べようとしている内容からすれば、こいつはかなり重要な特権かもしれない。
……ん? 待てよ。
ということは、何か? テテばあさんは、俺の希望をかなえる為に、わざわざお偉いさんに沢山頭を下げ、権力を使ったゴリ押しまでして、必死に俺のことを協会に入会させてくれたというのか?
ば、馬鹿な……。
何て親切なご老人なのだ。
俺は今まで、この偉大な人物のことを、完全に誤解していたというのか。
若干決まりの悪い俺は、ぽりぽりと頭をかいた。
「……その、ありがとうな、ばあさん。色々と骨を折らせてすまなかった」
「ふん。最初から素直にそう言っときゃあいいんだよ。まったく……」
ぶっきらぼうに、そう言ったテテばあさん。
だが、その直後、彼女は再び邪悪な笑みを浮かべた。
「ま、それに、あんたのことは、わざわざ上級会員にまでねじ込んでやったからねぇ。これで、ただの平会員とはちがって、あんたは対外的な会員特権の、ほぼ全てを使えるようになっているってわけさ」
「? それが一体どうしたっていうんだ?」
「――つまり、今後は私の使い走りとして、あんたのことを思う存分に、こき使い回せるってわけだよ。何せ魔術師協会の上級会員様だからね、権限を振りかざして、相当に無茶な使い走りもできる」
な、何……?
俺を便利なパシリにするだと?
まさか……今回の俺の魔術師協会入り、それが真の狙いだったのか……?
「お、おい。ちょっと待て。俺は聞いていないぞ、そんな話は……」
血相を変える俺に対し、テテばあさんは、さも当たり前のように、さらりと言い放った。
「だって、もし言ったら、あんた絶対に入会しないだろう?」
…………ッ!
は、ハメやがったなああああ! このクソババア~~~~!!!
「おい! やめだ、やめやめ! 俺はこんな腐った協会、脱退するぞ!」
断固として退会を宣言する俺。
だが、テテばあさんは涼しい表情である。
「へぇ? あんたに退会時の違約金が払えるのかい?」
「……何、違約金だと?」
一体何の話だ。
訝しむ俺の前に、ばあさんが入会の説明書類をぺらりと広げた。
さっき適当に読み飛ばした書類だ。
奪い取るようにして読んだ。……確かに違約金の項目がある。
この協会、特に理由も無く退会する場合には、違約金を払わねばらならないのだ。しかも、この違約金というのが、金貨40枚と、馬鹿みたいに高額だ。
金貨40枚というと……約2000万円くらいか? おいおい。
「払えるわけないだろう、こんな額! 俺の貯金は金貨5枚だぞ!」
流石に、ハゲからもらった治癒規を売り払うつもりなどはない。
そんな俺に、ばあさんがにやりと邪悪に笑った。
「ふうん。じゃ、観念するしかないねえ」
「くっそおおおおお! ハメられたああああ!」
机に突っ伏して、呻き声を上げる俺。
騒々しい俺達の様子を見て、職員のお兄さんが笑顔で呟いた。
「ふふっ。ダサイ様とマディス師は、本当に仲が良いみたいですね」
お兄さんよ、貴方は眼科に行った方が良いのではないか……?
俺は彼のことが、少し心配になった。
『ババアの杖被害者の会』会員名簿
NO.1 ネマキ・ダサイ(会長)
NO.2 里の鼻たれ小僧(副会長)
NO.3 マルトム・デマラーン(名誉顧問)
NO.4 ルドウ・ピュウルス
NO.5 魔術師協会職員のお兄さん




