第6話 てんとう虫と教科書
うららかな正午の木漏れ日が降り注いでいる。
俺は優しい笑顔で、自分の手のひらを眺めていた。
視線を注ぐその指先には、小さな丸っこい虫がちまちまと歩いている。
てんとう虫みたいな、黒っぽい昆虫だ。
以前、この盆地には俺以外の生物がいない気がすると言ったな。
……すまん、あれは嘘だった。
このてんとう虫みたいな小さな昆虫がいたのだ。
今朝、クランベリー林檎をもぎに来たとき、果樹の葉っぱの上を歩いているのを発見した。
どうも、こいつらが果樹を受粉させて回っているのではないかと、俺は予想している。
「ふふふ、虫太郎はかわいいな」
俺はこいつに“虫太郎”と名付けて愛でていた。
我ながらシンプルで良いネーミングセンスだと思う。
この世界で出会った、小さな生命第1号だ。
おっさんの白骨死体なんぞとは癒し度の桁が違う。
「お? どうした、虫太郎?」
俺の指の先端まで移動した虫太郎は、じっとそよ風をうけている。
そしてタイミングを見計らったかのように、ぱっと羽根を開いた。
「あっ……」
虫太郎は俺の指先から、大空に向かって飛び立った。
そのまま、あっという間に虫太郎は小さくなっていく。
その姿は果樹の方に消えていった。
「ま、待ってくれ、虫太郎……! 俺を……俺を一人にしないでくれ……!」
震える指先が、虫太郎が消えていった虚空を泳ぐ。
まるで、見えない何かを必死に掴もうとするように。
「虫……太郎……」
消え入るような声で、もう一度その名を呼ぶ。
しかし、もう虫太郎は帰ってこない。彼は、戻るべき彼の世界へと帰っていったのだ。
……そう。賢明なる諸君ならすでにお気づきだろう。
このとき、俺は他者との交流に飢えまくり、孤独に参りはじめていた。
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「さて、今日の午後はどうすっかな……」
柔らかな草に覆われた家の玄関の前に座り、『魔術入門Ⅳ』のページをめくった。
現在、この入門書を片手に、少し遅めのランチタイム中だ。
虫太郎との別れはつらい出来事だったが、俺たちがお互い人生の次のステップへと進むためには必要なことだった。
俺は頭の切り替えのできる男だ。
「さっさと入門書を読み切るべきなんだろうな。土魔術はここからの脱出に必ず役立つだろうし」
軽く炙った干し肉とチーズをかじりながら、俺はつぶやいた。
うん、悪くない。やはり温かい食べ物はいい。
特にこの、良い感じに炙った熱々チーズのとろける食感は素晴らしいな。
足元に広げられた布の上には、黒パンと、もはや食卓には欠かせないクランベリー林檎様。
陶磁の器には、汲まれたばかりの冷たい湧き水が入っている。
“属性の理解”の実験事故による、自然破壊と惨劇の発生から2日。
俺の食事レベルは、劇的な改善を遂げていた。
家の床下に、元家主であるリュベウ・ザイレーンの遺した、地下貯蔵庫を発見したのだ。
庫内には干し肉やパン・発酵乳製品などの保存食が、まだ大量に残されていた。
全て、食える状態でだ。
ちなみに、見たこともない発酵食品も数種類あったが、怖いのでまだ手を付けていない。加えて、やたら苦い豆とか、調理法の良く分からない食材も一定数存在している。そんなわけで、貯蔵庫の全ての食品が利用可能なわけではないのだが。
とはいえ、俺一人ならおそらく余裕で1・2か月は籠城できる量があると思う。
俺はこの時に確信したのだが、この地下貯蔵庫と書庫の2か所には、おそらく何かしらの魔術がかけられている。この2部屋の状態だけ、盆地内の他のすべての場所で観測される経年変化と大幅にずれているのは、もはや疑いようがない。保存食と言っても、流石に干し肉やパンはそう何年も持つものではないはずだ。
いや、実際にはそれどころではない。これは驚くべきことだが、黒パン――黒っぽいし味も似ているので便宜上そう呼んでいるが、ライ麦製かは知らん――などは、まだ硬くなりきっていなかった。今のところスープに浸して食う必要すらない。扉には埃が堆積し、長期間開けられた形跡のまったくない貯蔵庫から出てきたパンが、である。
たしか入門書に“時属性”って魔術があったから、それなのかなぁ……?
さて、食糧庫はともかく、なぜ書庫に劣化を遅らせるような魔術を用いていたのか。これは俺の憶測の域を出ないが、結局のところ、ザイレーンが学者肌の人間だったからではないだろうか。おそらく彼は、蔵書が駄目になることを理屈抜きの部分で非常に恐れたのではないかという気がする。俺も本好きだから気持ちは分かる。この点に限ってとはいえ、クソみたいな性格のおっさんにシンパシーを感じてしまったのは癪だがな……。
ちなみに、干し肉やチーズを炙るために使っている種火。これは、昔テレビで見たサバイバル番組を思い出しながら、悪戦苦闘しつつ必死こいて人力で火おこししたものである。
ふはは。地球人類に火属性魔術など不要。
俺は生活力のある男だ。
などと、ここ数日間の涙のにじむ苦労を思い出しているうちに、ささやかながら満足な食事はあらかた終わった。
俺はデザート代わりのクランベリー林檎様を食べはじめた。
うーん、この口いっぱいに広がる爽やかな酸味。
たまらなく瑞々しい、麗しき乙女のような果肉。
そして、飲み込んだ後も口に残る、ほのかで上品で、貴族的な甘味。
一口かじればその鮮やかな赤色はルビーのように美しく、目でも俺を楽しませてくれる。
エクセレントだ。やはり最高だ、クランベリー林檎様は。
食事を終えると、俺は先日の〈小石生成〉の暴発事故による大自然破壊の跡地へと歩いていき、そこに、指先で小さく穴を掘った。
そして、さっき食べたクランベリー林檎様の種を埋めた。
俺は毎食後、クランベリー林檎様の種を、必ずここに植えることに決めている。
俺のせいで、どう考えても完全に無意味に散ってしまった大量の植物たちよ。本当にすまなかった……。
そう遠くないうちに、俺はここを出ていかなければならない。しかし、俺が去った後の遠い未来、この荒れ地が美しいクランベリー林檎様畑として再生していることを切に願う。
とはいえ、直接的な破壊が俺の前方にほぼ集中していたのは、不幸中の幸いだったと言えるだろう。
おかげで目立った被害は、この森林破壊のみだ。
そうでなければ、確実に後ろの家ごとぶっ潰していた。
屋根が崩落したのをチラ見したときは心底びびったが、実際のところ、損害を受けたのは老朽化した軒先の一部だけだった。
あとは、家の中の陶器類が一部割れていたくらいか。
〈小石生成〉と言えばだが、あの入門魔術により生成された、ちょっと小石とは言いがたい十数メートル級の巨岩。あれは、生成直後に崩れ去っている。
今回のケースでは、そのおかげで事後処理の手間が省けた分、かなり助かったわけだ。
……しかし、じつはこの土魔術の基本形、「術者による魔力供給が途絶えた段階で、生成物が崩壊する」という性質が、この世界の土属性魔術に、非常に扱いづらい微妙属性魔術という、不遇な評価を与えているようだ。
つまりだ、物を作っても崩れてしまうので、土木建築にはほとんど転用できない。
一応、術者が使用する武器や道具を土で形成する魔術もあるにはある。が、常に魔力を供給しないと形を維持できないので馬鹿みたいに燃費が悪いし、ぶっちゃけよほどの特殊な状況でもない限り、該当する市販の製品を普通に使った方が早い。わざわざ魔力をジャブジャブ消費しながら土の剣を振るうより、そりゃ普通に購入した剣を使った方がいいわな。
結果的に実用性には乏しく、一般的な土属性魔術の大半はかなりマイナー。みたいな感じだ。
うむ。これが、俺が唯一使える属性魔術の社会的評価である……。
『魔術入門』の著者であるリュベウ・ザイレーンも、土属性魔術については、その著書の中で完全に見下してかなりこき下ろしており、俺は殺意の衝動を抑えるのに苦労した。
ぶっちゃけ『魔術入門』中で土属性の入門魔術に割かれているページ数は、火属性とか風属性の5分の1もない。
全12巻で構成される『魔術入門』は、その第1巻で「属性の理解」などの魔術全般の総論的な部分を述べ、2巻以下でそれぞれ各属性の魔術について解説している。土属性魔術しか使えない俺が最低限読む必要があるのは、最初の第1巻と、土魔術についての各論書である第4巻ってことになるわけだ。他は読んでも使えない魔術しか載っていない。そして、この第4巻、土属性の解説本『魔術入門Ⅳ』はぺらっぺらなのだ。厚みでいえば、おそらくラノベより薄い。
……ちなみに、火属性についての解説本である『魔術入門Ⅱ』は、判例付き六法全書クラスのめちゃくちゃな厚みがある。これ、学生の学びの段階から完全に差別されてるじゃねーか! ふ、ふざけんなよ、ぶっ殺すぞザイレーン! あ、もう死んでたな……。
それでも俺は『魔術入門Ⅳ』をまじめに読んでいた。
実はこの『魔術入門Ⅳ』は、1巻の方や石の本でのザイレーンの文章とは、ちょっと書き手の癖が違うんだよな。ほんわか優しいというか。
この巻って、共著者のエメアリゥ・ヘイレムさんが担当しているのではないだろうか?
そのように考えるだけでも、学習のモチベーションが全然違ってくるよな。
ああ、そうだ、俺の先生はエメアリゥ先生だ。ザイレーンのクソでは断じてない。
きっとそうに違いない。よし。今、そう決めたぞ。
俺は一つの決定を下し、再び熱心に学習を始めた。
とりあえずモチベーション維持のため、エメアリゥ先生は、俺好みのおっとりした年上のお姉さんで想像しておこう。読書好きだと、なお素晴らしい。
ああ、分かっている。もちろん、実際は性別すら不明だ。それに万が一生きてらっしゃったら、おそらく相当のご長寿だろう……。
…………。
だがな諸君。モチベーションってのは、重要だ。
『魔術入門Ⅳ』は、『Ⅰ』の方とは違って、けっこう具体的な魔術の解説が入ってくる。
だから、油断していると、文字の羅列に見えてくる部分が、ある。
要するに、本の内容が「にゅぽぽれぺれぺれウホホ……@♪♪」状態になるってことだ。
これが起こるたびに、俺は、自分がまるでゴリラか原始人になった気分になるんだ……。
だが、これはちゃんと理解しながら読み進めることで、回避できる。
そのことに、すでに俺は気づきはじめていた。
俺は、めげない男だ。
見ていてくれ、エメアリゥ先生。
とはいえ、ここ数日間は入門書を読んでいるだけだ。じつは実験とか試射とかは、あれ以来一度もやっていない。
小指の先ほどの小石を生成しようと思っただけで、あの大惨事だった。
2日前の大自然破壊事故は、俺の中で完全なトラウマになってしまっていたのだ。
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さて、クランベリー林檎様・植林の儀式も終了した。
俺は、例の自然破壊による被害で視界がひらけ、元々わりと良好だった陽当たりがさらに良くなった庭先に腰かける。
今日の午後は、ここで入門書を読んで勉強しようと思っていた。
家の中でも本を読むには十分な明るさがあるのだが、せっかく気持ちが良い天気なので、俺は庭先で読書することにしたのだ。
ああ。庭先には、椅子代わりにできそうな良い感じ木の幹の残骸が、なぜかそこかしこに大量に転がっているしな。ありがたいことだ。
やさしい風が、頬を撫でた。
うん、そうなんだ。誰かが樹木を根こそぎ吹っ飛ばしてなぎ倒したからね。
風通しも、すこぶる良くなっているよ。
入門書をぱらぱらとめくった。
度重なる翻訳能力のゴリラ化現象にもめげず、我ながら結構読み進めたものだ。
『魔術入門Ⅳ』も、そろそろ後半。
これから新たな章に突入だ。
――そして俺はこの日、その後の己の運命を劇的に変貌させる魔術に出会う。
それは、慈愛の女神の福音だったのか。それとも、殺戮の魔女の呪縛だったのか……。
このときの俺には、まだ、知る由もないことだった。
「えーと、何々……。〈ゴーレム生成〉?」
『魔術入門』の巻構成は、ざっとまとめるとこんな感じです。
『魔術入門Ⅰ』“属性の理解”や魔術全般を簡単に説明。
『魔術入門Ⅱ』火属性の入門魔術を実際に解説。(厚い)
『魔術入門Ⅲ』風(厚い)
『魔術入門Ⅳ』土(うすい。執筆担当者が違う?)
『魔術入門Ⅴ』氷
『魔術入門Ⅵ』水
『魔術入門Ⅶ』雷
『魔術入門Ⅷ』?
『魔術入門Ⅸ』?
『魔術入門Ⅹ』?
『魔術入門Ⅺ』?
『魔術入門Ⅻ』時
この中で、主人公が読んでいるのは『Ⅰ』と『Ⅳ』のみですね。
ちなみにもし全巻読破すれば、魔術師と戦う際などにある程度対策が立てやすくなったりします。実はどの巻にもきちんと有用性がある良書です。