第52話 土下座と調教
「すまなかったアセトゥ。それに一本角、本当にごめんな。許してくれ……。全てはいたらない飼い主である、この俺の責任だ……」
俺はアセトゥと一本角の前で、地面に額をこすりつけ土下座していた。
ゴレに右ストレートをお見舞いされた一本角は、頭を完全に破壊されて大地に横たわっている。アセトゥは現在、そんな一本角を修復中だ。
ゴレは暴れないように、俺が土下座をしながら抱っこしている。彼女は土下座する俺と地面に挟まれて、サンドイッチ状態だ。
我ながらすごい体勢である。
俺に押し潰されるように仰向けに寝ているゴレは、時折何やらもぞもぞと動く程度で、大人しくしている。途中から俺の背中に手を回してぎゅっとしがみついているし、隙を見て逃げ出したりはしないと思う。
「あの、ネマキ兄ちゃん、オレ気にしてないから。よ、よく分からないけど、そんな恰好もうやめて……」
アセトゥは先ほどから、俺の土下座を見ておろおろしている。
この少年の反応からして、どうもこの世界に土下座文化は無かったようだ。
一本角とアセトゥから見れば、俺は地面に突っ伏して謝り続けている変な人だろう。しかし、これは誠意の問題だ。
それにこの点に関しては、俺は一応外国人設定であるという事情もある。遠い異国の謝罪の姿勢ってことで、おそらく好意的に解釈してもらっているとは思う。
額を地面にこすりつけ続ける俺を、アセトゥがそっと引き起こした。
「もう顔を上げて、ネマキ兄ちゃん。大丈夫だから、ね? アルパスはオレが使役権承継しているから、こうして修復もできるんだし。……それにしても、ネマキ兄ちゃんのゴーレムはすごいね。不意打ち気味だったとはいえ、うちのアルパスが攻撃をかわせないなんて」
びっくりしちゃった、と言いながら微笑むアセトゥ。
全ての罪を赦すかのごときその笑顔は、まるで天使のように見えた。
しかも、ただ許すだけでなく、さりげなくうちの相棒を持ち上げてくれている。
「うう、アセトゥ……!」
なんて良いやつなんだ、アセトゥ。
俺がもし純朴な村娘だったら、すでに完全に惚れているシーンだぞ。
この子は何て大人なのだろう。俺はもしゴレがいきなり問答無用で顔面をぶん殴られてKOされたら、平和な文化人としての正気を保てる自信がまるでないというのに。
「でも、その子は色々と無茶苦茶だなぁ。無操作の状態で殴りかかってくるゴーレムなんて、オレ聞いたこともないよ」
「えっ そ、そうなのか?」
やはりよその家のゴーレムは、皆もっとおりこうだったのか。
すまん、本当にすまんアセトゥ。俺のしつけがなっていないばかりに。
「やっぱりネマキ兄ちゃん、先生が見込んで連れて来るだけのことはあるんだなぁ。あんなの、あきらかに普通じゃないもん……」
アセトゥは何やらしきりに感心している。
だがな、少年よ。あのババアが目をかけて孫娘のように可愛がっているのは、ゴレなんだ。おそらく俺のことは、叩きがいのあるサンドバッグ程度にしか思っていないぞ。
こんな風に俺と会話をしつつも、アセトゥは一本角の修復作業をずっと続けている。
一本角の頭部は、すでにかなり修復されている。
先ほどアセトゥが損傷部分に手をかざすと、周囲から破片が集まって、徐々に修復が開始された。
今回みたいに単純に砕けた場合には、ゴーレムはこれで治るっぽい。
ギネムもこのようにしてピエロ達を治していた。あいつの場合は4体だから、超重労働だ。ゴーレム格ゲーで毎回ゴレに派手にぶっ壊される度に、ひぃひぃ言っていた。気の毒になって、修復しやすいように手刀で倒してくれと、俺はこっそりゴレにお願いしていたくらいだ。
また、単純に砕けたわけではなく、素体の一部が失われたような場合には、材料を補填してやる必要があるみたいだ。とはいえ、その場合にも生成時と同じ要領で粒子化させた材料を再び練り込んでやれば良いだけみたいなので、そこまで難しい作業ではないという話だ。
いずれにせよ、胸の魔導核さえ壊されなければ、ゴーレムの修復のハードル自体はわりと低いということだ。
ただ、ギネムの時にも思ったのだが、ゴーレムの修復作業には結構時間がかかるようだ。特に頭部の修復には時間がかかる。アセトゥも、すでに40分くらいはこうして手をかざしている。
アセトゥがかざしている右手からは、どうも修復中のゴーレムへと魔力が吸われているようだ。
以前、古代地竜にやられてゴレの腕が折れたときには、たしか腕の断面同士をひっつけると、2・3分くらいで接合されたように記憶している。おそらくはあのとき、俺も魔力を吸われていたのだろう。俺の場合は少々吸われた程度では消費した感覚すらないから、気付かなかったんだな……。
実はこの、“ゴーレムの素体の修復”というのは、ゴーレム使いの適性というものを考える上で、わりと重要な要素のひとつだ。
ゴーレムの修復は、そのゴーレムの中に流れている循環魔力と同質の魔力を持つ者……つまり、飼い主にしかすることができない。
そして、どうもこの修復時の魔力の消費量に、土属性の属性魔力変換率の個人差が関わってくるようなのだ。土属性の適性が高いと修復が楽だし、低いときつくなったり、そもそも修復ができない。
これがどういう事かというと、飼い主の土属性の適性が低すぎる場合、ゴーレムの日々のメンテナンスは実質不可能になるということだ。厳密に言うと、アセトゥがお祖父さんから一本角を受け継いでいるように、ゴーレム使いがゴーレムの生成を自分でおこなっていないケースも存在するわけだが、この点についてはとりあえず今は割愛しておく。重要なのは、アセトゥのようなケースでも、修復は自力でおこなう必要があるという点だ。
結果的に、ゴーレムをまともに運用できるのは、一定以上の土属性の属性魔力変換率を持つ者に限られてくる。
一般の魔術師にとって死に適性かと思いがちな土属性の適性なのだが、こういう地味なところで、意外と生きてくるのだな。
「まぁ、うちのゴーレムの場合は身体面のメンテナンスとかより、むしろ精神面のケアの方に問題が山積みなわけだが。はぁ……」
俺は溜息を吐きながら、腕の中のゴレを眺めた。
この相棒のことは、まだ抱っこした状態で拘束している。
今は俺にひっついたままじっと大人しくしているが、手を離すとまた一本角に噛みつくかもしれない。こうして抱っこしておく他にない。
「何だかネマキ兄ちゃんも色々と苦労していそうだね」
俺の溜息を聞いたアセトゥが笑っている。
いや、笑いごとではないのだ、少年。
それにしても、ゴレは何故、約束を破ってしまったのだろう。
人里にいる人間やゴーレムには攻撃しないようにしっかり教えていたし、ゴレも俺の前ではきちんと言うことを聞いていた。
たしかに今までも、「殴るな」と言ったら蹴ったり、「向こうが手を出すまで待て」と言ったら相手が手をこっちに向けた瞬間に襲いかかったり、ギリギリの拡大解釈をすることはあった。いや、むしろギリギリの拡大解釈しか、こいつはしない。
でも、一生けんめい約束は守ろうとしていたように思う。
にもかかわらず、今回は完全な約束やぶりをした。
ゴレの中では何かしらの攻撃の動機があったにせよ、一本角自身は、ゴレや俺に対してまったく何もしていない。
今回は、どう考えても100%ゴレが悪い子なのだ。
思うに、ゴレがゴーレムに対して攻撃を開始するまでの怒りの臨界点は、現在かなり下がっている気がする。
これはおそらく、ギネムとゴーレム格ゲーで遊んだりするうちに、ゴーレムはぶっ壊してもわりと簡単に治ってしまうことを、ゴレが学習してしまったからではないだろうか。
つまり、魔導核を破壊して殺したりしない限り、ゴーレムを壊しても俺が本気で怒らないということを、ゴレはすでに見抜いてしまっているのだ。こいつは一見脳筋のように見えて、実のところ相当に頭が切れる。特に俺に関することになると、異常に頭の回転が早い。まるで脳みそを俺のためにしか使っていないかのごとしだ。
さらに決定打となるのはやはり、昨日今日と、ババアが木魚みたいに俺の頭をポコポコ叩き続けていることだろう。ゴレ自身は意識していないだろうが、確実にストレスが溜まっている。こいつは俺がぶっ叩かれる度に、本当に申し訳なさそうに弱っていくんだ。ごめんなさいごめんなさいと、俺に謝り続ける声が聞こえてくるかのようだ。悪いのはゴレじゃなくて、完全にババアなのに。あれで潜在的なストレスが溜まっていないわけがないんだ……。
だが、だからと言って、このままゴレが一本角に噛みつくのを放置するわけにはいかない。
俺はゴレに一本角と仲良くして欲しい。それに、俺自身も一本角ともっと遊びたい。彼は貴重な大型犬成分だ……。
そもそも、よその犬に噛みついたりして迷惑をかけてはいけないのだ。
そんなのは常識だ。小学生でも知っている。
しかし、一体どうすれば上手なしつけが出来るんだ。
今回、ゴレの一本角への怒りは、“約束”では止まらなかった。
言葉で言うことを聞かないとなれば、通常は体罰という選択肢が出てくる。
だが、可哀想すぎて、俺にはゴレを叩くなんて無理だ。
そもそも、俺がゴレを殴って何か意味があるのか? 俺の手の骨が折れるだけだろうが!
いや、待てよ。実際はそうとも限らないか。ゴレはもし俺が殴ろうとしたら、俺が拳を痛めないように、自分の身体を必死に柔らかくするだろう。ゴレなら確実にそうする。こいつはそんな、どうしようもないほどに優しいやつだ。
……ん?
なるほど、そうか。とすると、実は俺が叩いてゴレにダメージが発生する可能性自体はあるわけか。
聖堂ゴーレムの必殺の薙刀や、道化ゴーレムの短剣の嵐より、実は、俺のお尻ぺちぺちの方が、ゴレには痛かったりするのか?
だが、何だかすごく迂遠で、面倒くさいダメージの発生の仕方だな。
というか、それは体罰といえるのか?
ゴレが俺の叩く場所をわざわざ柔っこくして体罰を受け入れて、俺もゴレの受け入れの意思を前提にして彼女のお尻をぺちぺちするというのは、何か色々とおかしくないか?
もはやそれは体罰じゃなくて、ただのプレイなのではないのか???
ゴレがピンク色に濁った瞳を潤ませ、お尻を突き出しながら俺の折檻を待ちわびる姿が、なぜか確信的な予感と共に、超・鮮明に脳裏に映し出された。
…………。
や、やはり、体罰の選択肢はあらゆる意味でない。絶対にやっては駄目だ。
何がやばいって、万が一変な趣味に目覚めたゴレが、お尻ぺちぺちして欲しさのあまり、俺に叱られるような行動をくり返すことにでもなったら……。
そうなればもう、俺にも完全に事態の収拾がつかなくなる。一体何が起こるか想像もつかん。最悪俺のお尻ぺちぺちで人類が滅ぶ。
しかし、だとすれば、俺は一体どうやってゴレをしつければいいんだ……。
すでにお気づきかもしれない。
このとき俺は、出口の見えない思考の迷路へと迷い込みつつあった。
「……なぁ、ゴレ」
俺はゴレに語りかけた。
腕の中で俺に身体を預けていたゴレが、名前を呼ばれて、うれしそうに耳をぴくぴくさせた。
深紅の瞳が、くりくりとしている。
非常にご機嫌である。
思えば、今日はこいつが朝から母屋に遊びに行っていたせいで、一緒にいない時間が長かった。こうして長い間抱っこされて、嬉しいのだろう。
というかこいつ、一本角をぶん殴って頭を破壊したことを、すでにころっと忘れているのではないか?
やはり心を鬼にしてしつけをしないと、まずいな。
俺は彼女を見つめ、大きく息を吸い込み、そして言葉を吐いた。
「……ゴレ。もしまた一本角をいじめたら、絶交するからな」
絶交。
仲良しさんの間のみに発生する、謎の小学生的脅し文句だ。
俺は、こいつに賭けた。
御存じであろうが、小学生のこの脅し文句によって、実際に恒久的な交友関係の破壊が実行されることは、あまり無い。
大抵は言っている方も本気で絶交する気なんてないのだ。
アホな小学生男子の場合は確実にそうだ。少なくとも俺はそうだった。なぜなら、彼らの性質は善良で、全員すこぶる知能が低いアホだからである。大した意味もなく絶交とか言ってみたいお年頃なのである。一瞬絶交っぽい感じになっても、すぐ元に戻る。通常2・3日以内、早ければ即日復帰である。あのねキミたち、そんな日帰りピクニック感覚のものは、絶交とは言わないんだよ。
というか、これで本当に絶交する奴は、元々たいして仲が良くないし、すこぶる性格も悪い。すでに絶交しているのとほとんど同義であるし、そんな奴とはさっさと絶交した方がいい。
つまり、「絶交するもん!」というのは、言おうが言うまいが、実際は何の意味もない脅し文句なのである。
だが、もう俺にはこれしかなかった。
これ以上ひどい脅し文句なんて思い浮かばなかった。
いや、たとえ思い浮かんだとしても、甘い俺がゴレにそんな酷いことを言えるわけがない。
――しかし、その効果は絶大であった。
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「じゃあネマキ兄ちゃん、ゴレタルゥ、またねー!」
アセトゥは元気に手を振りながら、家に帰っていった。
一本角はまだ番兵の仕事があるから、そのまま門の横に立っている。
重傷を負っていた彼も、すっかり健康を取り戻していた。
良かったなぁ、一本角よ。
俺は安堵しつつ、後ろのゴレを振り返った。
そう。ゴレは耐えた。攻撃衝動に、耐えきった。
俺が一本角に仲直りのなでなでをしている間も、全身から殺気を迸らせながら、しかし、必死に耐えきったのだ。
目を潤ませながらぷるぷると震えるその姿は、あまりにも辛そうだったが……。
ともあれ、こうして俺達は、無事テテばあさんの家への帰路についた。
「おりこうだったな、ゴレ。次は一本角とお友達になるのを目標に頑張ろうな」
俺はゴレの頭をなでなでしながら、明るく言った。
そうなんだ、焦ることなんて何もない。
ゴレはたしかに、人付き合いが苦手なのかもしれない。でも、ゴレのペースで、少しずつ前進していけばいいのだ。
気づけば、時刻は昼飯時を大幅に過ぎてしまっていた。
テテばあさんには文句を言われるかもしれない。
屋敷に帰ると、案の定、テテばあさんが玄関で待ち構えていた。
「馬鹿たれ! 番兵の頭をぶっ壊すやつがあるかい! まったく、自分の相方も御しきれんとは……」
「いや、だからその件については本人達には謝罪……をぼおっ!?」
ババアの杖が、俺の脳天に見事にヒットした。
「機能停止中にもし魔獣でも出ていたら、どうするつもりだったんだい!」
「そこは一応ゴレに代わりに見てもらっていたよ。それに、どうせばあさんのデバスだって、普段から里の周辺を索敵してるんだろ……うぼあっ!?」
ババアの杖が、再び俺の脳天をとらえた。
「口答えしてんじゃないよ!」
「お、おい、やめろ! あんたがそうやって俺を打楽器みたいに気軽に叩くせいで、またゴレが潜在的ストレスを溜めてしまうだろうが!」
「はぁ~~?」
いてっ! だから叩くな! 俺の頭は太鼓じゃない!
あっ ほら見ろ、またゴレが泣きそうになっているじゃないか!
くっそおおおお! いつか絶対報復してやるからな、このババア!
「はぁ……。揚げ物を作っている最中に、ゴレタルゥが何も言わずにいきなり台所を飛び出していったときには、一体何事かと思ったよ。まさかあんたが勝手に里をほっつき歩いたあげく、他人の、しかも番兵をやっている最中のゴーレムと遊んでいたとは……」
「し、仕方ないじゃないか。どうしても、あの一本角を触りたかったんだ」
女子のばあさんには分からんだろうが、紳士には抗いきれない衝動という物があるのだ。
ん? 揚げ物の調理中に台所を飛び出した、って……。
なるほど。それでゴレのやつ、手がパン粉まみれだったのか。
こいつ、飯の準備が出来たから迎えに来てくれたのではなく、途中で俺が屋敷の中から抜け出たのに気付いて、あわてて探しに来ていたのだ。
まるで赤ん坊がいなくなったのに気付いて、取り乱す母親じゃないか。
ゴレよ、お前はやはり俺のお母さんだったのか?
「本当にどうしようもないアホだねぇ、あんたは……」
テテばあさんは、あきれかえったような顔で俺を見ている。
ちなみにこのばあさん、俺の知識が幼稚園児以下である事を、すでに完全把握しているようだ。
わずか一日足らずである。ハゲよりも早く看破してしまった。
俺の異世界常識力は、ハゲとの雑談や幼女先輩の優しい教えにより、人里に出て来たばかりだったティバラ来訪時よりも、多少は上昇しているはずなのだが……。
遭遇時から薄々思ってはいたが、ばあさんは野蛮人の癖に相当に頭がいい。
知識量が半端でないのは勿論のことなのだが、驚くほど勘が鋭く、頭自体も恐ろしいほどに切れるのだ。もはや頭脳でも暴力でも、俺には勝てる要素が残っていないと言える。
要するに、野蛮で残虐な上にやたらと知能の高い、最凶最悪のモンスターババアである。
「んじゃ、昼餉にするかね。まったく。すっかり冷めちまったじゃないか」
「あ、そうか。食事に遅れてすまなかったな……」
そういえば昼飯をまだ食っていなかった。
遅れてしまった事については、俺は口答えせず素直にばあさんに謝罪した。せっかく食事を作ってくれたのに、冷ましてしまって申し訳ないと思ったからだ。
素直に謝ったので、ぶっ叩かれなかった。
このとき、ふと思った。
ひょっとして俺がポコポコ叩かれているのは、いつもいらん反抗心を起こして、いちいち口答えしているせいなのか……?
まさか、俺の無駄な反骨精神がババアの杖を発動させ、ひいては、ゴレの悲しみとストレスの原因になっているとでもいうのか!?
い、いや、そんなはずはない! すべてはこの邪悪なババアが悪いに決まっている!
ともあれ、食事の時間は偶然遅めになったことだし、大量に貰ってしまった団子の大部分はアセトゥが食べてくれた。
良い感じに小腹が空いている。
美味しい昼飯を食べられそうである。俺は、ほっと安堵の溜息をついた。
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「ふー、良い湯だった……」
その日の夜、母屋でひとっ風呂浴びた俺は、離れ屋に戻って来た。
テテばあさんの屋敷の母屋には、なんと魔道具風呂がある。
ハゲハウスにもあった、この魔道具風呂。こいつはかなりの高級品だ。この世界の皆さん、わりときれい好きだし入浴文化も普通にあるのだが、個人が据え付け型の専用魔道具で風呂を焚くというのは珍しいようだ。魔道具屋だったハゲの場合はともかく、テテばあさんは間違いなく金持ちなのだろう。どうやら家の見かけがでかいだけ、というわけではなさそうである。
昼飯の山菜や肉の揚げ料理も美味かったし、夕食はなんと豪勢な魚料理が出てきた。しかも川魚ではない、海の魚だ。実に美味かった。
この家は食事も御馳走だし、風呂も入り放題だし。極楽だな。
――はっ!? い、いかん。これ、完全に餌付けされているではないか!
俺は図書館にいかねばならんのだ。ババアに飼われている場合ではない!
だが、しかし。今日はもう暗い。
ババアからの逃亡手段はまた後日考えることにして、今日は寝心地の良いふかふかのベッドでゆっくり休もう。
これは仕方のないことだ。夜道は、危険なのだから。
そんなこんなで、意志の弱い俺は寝る支度を始めようとした。
そのとき、ゴレがおずおずと控えめに、俺のパジャマの袖を小さくひっぱってきた。ちなみに今夜着ている寝間着は、日本から一緒に召喚されてきた例の品だ。そう、青地に黄色い謎動物がプリントされた、クソダサいパジャマである。
「……? どうしたゴレ。今日はもう、ふきふきはしてやっただろう?」
先ほど俺の風呂あがりに、母屋でゴレの身体も拭いてやったはずだ。ゴレは満足そうにしていたし、あれで十分かと思っていたが……?
よく見ると、ゴレが左手に何かを持っている。拭き布ではない。
小さな箱だ。開いてみると、糸やら小さな針やらが入っている。
「あ、これって……この世界の裁縫道具か?」
そういえば、午前中からひとりで母屋へと赴いていたゴレは、テテばあさんからずっとお裁縫を習っていたそうだ。この裁縫道具も、きっとばあさんから借りたか貰ったのだろう。
「でも、これがどうかしたのか?」
俺の問いかけに、ゴレはもう一度パジャマを小さくひっぱった。
いや、それはもう分かったよ。そうだよな、いつも通りの、何とも言えないダサいパジャマだよなぁ。何故だかお前は、このパジャマのことがいたくお気に入りみたいだけど。
そこでふと気付いた。
ゴレが小さく握っているパジャマの裾から、ほつれた糸が出ている。
実は少し前から、裾が一か所ほつれていたのだ。元々安物のパジャマだし、召喚直後はこいつを着たまま草木の茂る屋外を動き回ったりもしていたから、仕方がないのだが。
「……もしかして、このパジャマを直してくれるってことか?」
俺の言葉を受けて、ゴレの耳が小さく動いた。どうやら正解みたいだ。
そういえば、ゴレはこのパジャマのほつれを、ずっと気にしていた。
そうか、ひょっとしてこいつ……。
「お前、まさか俺のパジャマを直すために裁縫を習っていたのか……?」
ゴレの瞳が、きらきらと光った。
俺は目を見開いた。
てっきり母屋では、ばあさんと趣味の裁縫で遊んでいるのかと思っていた。だが、こいつは俺のパジャマを繕うためだけに、一日中ずっと頑張っていたのか。
そんなこと、別にしなくたって良かったんだ。こんな俺のダサいパジャマなんて放っておいて、お前のやりたいことをしていれば、それで良かったのに……。
こいつは、本当に仕方のないやつだ。
俺はゴレを引き寄せ、力を込めて抱きしめた。
ゴレのことを正面からこんなに力いっぱい抱きしめたのは、こいつが俺のために初めて、一生けんめい火おこしをしてくれた時以来のことかもしれない。
あの頃のこいつはまだゴレ太郎だったから、抱き心地はもっと固くて。俺の腕は、こいつの背中まで届かなかった。
今こうして抱いていると、ゴレは俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
その身体は、折れてしまわないか心配になるくらいに、とても華奢だ。
彼女の手から、裁縫セットが、からんと音を立てて床にこぼれ落ちた。
開かれたその手が、遠慮がちに俺の背中に回る。
そして、きゅっと抱きしめ返してきた。
やっぱりうちの相棒は、優しいなぁ。
これで他の人にも同じように優しくなってくれたら、俺には本当にもう、何も言うことなんてないのだが……。