第46話 交渉人と背後の助手
ジビルの街の外壁前には、たくさんの人馬が行き交っていた。
すでに昼前だし、人も多い時間帯だ。
荷馬車を降りた俺を、車上からハゲ達が心配そうに見ている。
「それじゃあ、俺が今からペロロ支店長と話を着けてくる。皆はここで待っていてくれ」
「……セペロ支店長、な。本当に大丈夫なのか、ネマキ? お前さんの今の一言で、わし、物凄く不安になってきたんだが」
「そうか、セペロだったな。彼のことは記憶から消そうと努めていたせいで、どうも名前が思い出せなかった。もう大丈夫だ。任せてくれ」
「…………」
ペイズリー商会との話し合いには、俺とゴレのふたりだけで行くことにした。
もちろん、証人であるギネム・バリには同行してもらうことになるが。
ギネムは観念したのか、ずっと大人しく付いてきている。暴れたり、抵抗するようなことは一度もなかった。ピエロ達がやられてしまってからは、まるっきり借りてきた猫のようだ。
でも、これは俺にも気持ちがわかってしまうんだよなぁ。
もし立場が逆で、俺がゴレのいない状況でピエロ達に囲まれていたら、抵抗する気なんてきっとおきないだろう……。
俺はギネム・バリに深く同情した。
俺達が話し合いに行っている間、ハゲ父娘と御者のお爺さんには、門の外で馬車に乗ったまま待っていてもらう。
ハゲと相談した結果、それが一番安全だろうと判断した。
一見好き勝手やっているように見えるペイズリー商会なのだが、彼らは表向き、あくまでまっとうな商売をしているという体裁を取っている。これまでも、街中では露骨な行動には一切出てこなかった。
この正門付近なら、人の出入りも多い。ここに停車していれば、万が一商会の連中に見つかっても、彼等がいきなり手を出してくる可能性は低い。
もっとも、万が一にも3人が何か面倒ごとに巻き込まれるような事態になる前に、俺が短時間でさっさと話し合いを終わらせてしまうつもりだ。
「い、いやだ……! おいらは依頼に失敗したんだぞ、ペイズリー商会になんて顔を出せる訳がない。勘弁してくれぇ」
門の手前まで来たところで、これまで大人しかったギネム・バリが、泣き顔で抵抗を始めた。
確かに気持ちは分かる。
もし俺が彼と同じ立場なら、絶対にペイズリー商会には行きたくない。全力でばっくれたいと思うだろう。
だが、彼は大事な犯罪の証人なのだ。付いて来てもらわなければ困る。
「今さらそんな聞き分けのない事を言わないでくれ、ギネム……。事態を話し合いできちんと解決するために、お前の証言は必要不可欠なんだ」
だが、ギネム・バリは地面に根を張ったように動こうとしない。
俺は途方に暮れた。
無理矢理引きずっていくような乱暴をする訳にもいかない。
そもそも、俺にそのような腕力はない。ギネム・バリは立派な成人男性だ。とても赤ん坊を抱っこするようなわけにはいかん。
……待てよ。赤ん坊を抱っこ、か。
ゴレなら力持ちだし、抱っこが本当に上手だよな。
うちの相棒は包み込むように、とても優しく抱っこしてくれる。恥ずかしながら何度も何度も抱っこされてしまっている俺が言うのだから、間違いない。
「なぁゴレ。本当に申し訳ないんだが、彼を抱っこして商会まで運んでやってくれないか?」
ゴレにお願いしてみた。
彼女ならきっと、ギネム・バリを、優しくしっかりと商会まで運んでくれるだろうと思ったからだ。
聖女のような慈愛に満ちた母性本能の塊であるゴレが、路上で赤子のごとく駄々をこねるギネムの方へ、ゆっくりと歩いていく。
その姿を確認して安心した俺は、正門の方へと向き直った。
よし、ここからが本当の勝負だ。
------
ジビルの街の正門は、特に問題もなく通過できた。
というか、やたらすんなり街に入れたように思う。
俺が近づくと、門番達がさあっと左右に割れて道を開けてくれたのだ。
最初にハゲ達と一緒に街に入ったときには、何か手続きをして金を払っていたような気がするのだけど。
ひょっとして、車両と徒歩とでは手続きが違うのだろうか?
まぁ、有り得る話だな。車両の場合だけ、特殊な入市税のようなものがかかっている可能性はある。もしくは積み荷に税がかかるとか。
ただ、すべての門番達が俺達の方を見て青ざめた顔をしていたのが、少し気にはなるのだが……。
ともあれ、街の中にさえ入ってしまえば、もはやペイズリー商会まで何の障害もない。あとは普通に通りを歩いて、商会まであっという間だ。
ギネム・バリも、最初は背後で何やら騒いでいる声が聞こえていたが、今はすでに静かになっている。
ゴレが優しく抱っこしているはずなので、きっと心が落ち着いたのだろう。
俺はジビルの街中を、ペイズリー商会に向かって淡々と歩いた。
商会の建物に近づくにつれ、周囲に人がどんどん増えている。
いや、本当にものすごく人が多い。何だか妙な感じだ。
通りの左右両側に、沢山の人だかりがずらっと続いているのだ。
そこらの家々からも、窓を開けて多くの顔がのぞいている。
この雰囲気からすると、ひょっとして、この通りをお祭りのパレードでも通るのか? それとも、マラソン大会でもあるのだろうか。どうもそんな様子だ。
もし交渉を手早く終えることができたら、皆で少し見物しても良いのだが。
テルゥちゃんなんかは、きっと喜ぶだろう。
「な、何だあれは……。晒し刑か? 聖堂ゴーレムが人間の頭をつかんで……」
「あの血まみれでぶら下がっているのって、もしや『四道化使い』のギネム・バリじゃないのか?」
「まさかゴーレム戦で負けたのか、あの男が……」
「顔をボコボコに殴られている上に、指がねじれ曲がってるわ。あれは間違いなく、残酷な拷問の跡よ……」
通りを囲む人々がざわざわと騒がしい。
正直何を話しているのか気にならないことはないのだが、このときの俺は、あまり周囲に気を配る余裕が無かった。
そうなのだ。責任重大な話し合いを控え、実はひどく緊張していたんだ。
ほどなくして、ペイズリー商会・ジビル支店前に到着した。
木造二階建ての、ひときわ大きな建物である。
やはり立派だ。彼等は間違いなく経済的強者だ。
全財産が金貨5枚ちょいの経済的弱者である俺には、強大すぎる相手だ。
だが、俺は断固として抗議する。
もはやこの決心に揺らぎはなかった。
幼いテルゥちゃん、親切なお爺さん、ついでにハゲ。皆の人生を守る為にも、俺は断固たる態度で交渉に挑まねばならない。
ペイズリー商会は、裏で違法な犯罪行為を行っている悪徳企業だ。おそらくゴネるだろうし、脅しすかしも使ってくるだろう。
しかし、誇りある文化人として、一歩も引く気はない。
今から俺は、交渉人だ。
精神を集中し、気合いを入れた。
「おい。彼、『四道化使い』をゴーレムで吊るし上げたまま、ペイズリーの商館に入っていくぞ」
「ペイズリー商会はあの男とトラブったってことか」
「あんなイカれた残虐なゴーレム使いに目をつけられたんじゃあ、あの支店はもうお終いだな……」
「何だって構わない。お願いします、お願いします。どうか息子の仇を……」
「お、俺、あの聖堂ゴーレム使い知ってるぞ……。噂じゃ、たまたま気に障ったって理由だけで、あの『壊剣』を一味ごとむごたらしい私刑にかけて潰滅させた戦闘狂らしい。通り名は、えっと……そうだ。たしか『ティバラの悪夢』――」
群衆がひどくざわついている。
だが、極度に精神集中している俺にとって、もはや彼等の発する音は全く耳に入って来ていなかった。
俺は力強く商会の扉を開き、玄関ホールへと進んだ。
「……セペロ支店長にお会いしたいのだが」
開口一番、俺は極力はっきりとした口調の、心持ち大きめの声で職員たちに告げた。礼節は守る必要があるが、交渉事に気弱な態度では駄目だ。
しかし、職員たちはこちらを見たまま、固まっている。
全員凍り付いた表情で、まるで時間が止まってしまったかのようだ。
誰一人喋ろうとしない。
客や外部の商人とおぼしき人達も大勢いるのだが、全員なぜか硬直している。
「もう一度言う。支店長をここに連れて来て欲しい。人を待たせているし、時間もないんだ。……あまり手間をかけさせないでくれ」
先ほどは聞こえていなかったのかもしれない。俺も緊張していたし、もしや声がかすれていたのかも……。
俺は極力はっきりとした滑舌を心がけ、さっきよりひと際大きな力強い声で職員にお願いした。
あまり交渉が長引くと、この街にもう一泊しないといけなくなる。ぶっちゃけ今でも、時間的には結構微妙なラインなのだ。ティバラに着くのは夜になるかもしれない。お前ら商会の馬鹿どもが好き勝手やったせいで、ハゲの家は貧乏で予算がないんだぞ。予定外の宿代はきっと負担になる。
そんなことを考えていたら、表情が少し険しくなってしまった。
この瞬間、弾かれたように、数人の職員が奥に向かって駆けだした。
あ、一人転んだ。大丈夫かな……。
というか、この店。いくら俺がトラブルの相手方とはいえ、接客対応が最悪すぎやしないか?
そういえば、先ほどから職員達を見ていて、気付いたことがある。イケメンや美女というものは、表情が歪んでもイケメン美女な造形と、歪むと酷い有り様になってしまう造形の2種類がいるのだ。俺は新たな真実を知った。
何やら奥の方で言い争う声が聞こえた。
直後、イケメン達から押し出されるように、セペロ支店長が廊下に出てきた。
貴様ら私を売るのか。警備はなぜ全員逃げ出したのだ。とか何とか、聞くに堪えない叫び声がこちらまで聞こえてくる。
それにしても、イケメンというものは、醜い争いをしていても一定の絵にはなるな。本当に得だ。
セペロとイケメン達が、遠くで何か責任のなすりつけあいを始めている。
その姿をぼけっと眺めながら、俺は「そういえば、馬車の風浮き箱が壊れたのって、タイミング的に絶対こいつらの差し金だよな……。お爺さんのために修理代を請求しておこう……」みたいな事を考えていた。
一方、セペロとイケメン達のおしくらまんじゅうは、ヒートアップしていた。
周りの美女たちも、何やらキーキーと猿のように叫んでいる。
顔だけは美人ばかりだから、絵面はそう悪くないんだけどな……。
結局セペロが人数差で押しまくられて、廊下からこちらの部屋まで出てきたようだ。彼が抵抗した際に手をひっかけたせいで、カウンターの書類が派手に床にまき散らされた。
……やはりこいつら、普段は顔面の造形で圧倒されてしまって優秀な集団に見えるが、実際のモラルや能力的な平均値は、俺から見てもかなり低いように思う。まさか、本当に顔だけで選ばれているのか?
だが、この構成員でこれだけ景気が良いというのは、驚くべきことだ。違法行為でカバーしている部分が無視できないレベルで存在するにせよ、やはり商会の頭はそれなりに優秀な人物なのだろうか。
いや、人々を食い物にしている手口がほとんど機械化されているような印象から推測すると、むしろ強力なマニュアルが作成されているのか……?
そうこうしているうちに、ついにセペロが俺の前に転がり出てきた。
相変わらずのグレーヘア美中年であるが、髪は崩れ眼鏡はずり落ち、全身に汗をびっしょりとかいている。
「おい……」
「ひぃっ! よっ寄るなぁ! 化け物め!」
俺が声をかけた途端、セペロはパニックを起こし逃げ出そうとした。しかし散乱した書類に足を滑らせ転倒。カウンターに胸を強かに打ち付けた。
彼の喉から蛙が潰れたみたいな声が出た。
「かっ かひゅっ ヒュッ」
おかしな呼吸音を立てて、セペロが床に崩れ落ちた。
……まずいぞあれは。あばら骨が折れているかもしれん。
俺は慌ててセペロに駆け寄り、引き起こした。
「おい、大丈夫か?」
もちろん、すこぶる親切で優しい俺は、完全に善意から介抱している。にも関わらず、セペロは真っ赤な顔で青筋を立てながら、俺を睨みつけてきた。
「ぐ、ぐう……。私は、ペイズリー商会のっ、ジビル支店長だ。ぜ、絶対に貴様の要求など呑まんぞ!」
あ。そういえば俺、交渉に来ていたんだった……。
こいつらが身内同士で猿みたいに暴れ回っているものだから、うっかり失念しかけていた。
まぁ、せっかく彼も一応会話をしているし、このまま交渉を開始するか。
「いや、話は聞いてもらうぞ。俺の要求はシンプルに二つだ。一つは、ハゲショッ……チョトス魔道具店に、今後一切関わらないこと。もう一つは、お前らが壊した風浮き箱の修理代込みの慰謝料を、馬車の所有者のご老人に支払うことだ。もちろん、彼に手出しする事も許さん」
本当はもっと言いたい事が沢山ある。
でも、たとえ細かい要求をしても、こいつらは顔面の造形が優し気なだけの最低の人間達だから、どうせ聞かないだろう。
だから、俺は最低限の要求をすることにした。
もちろん本音をいえば、ハゲや俺への慰謝料も請求したいところだ。
だが、実は、その……。
もし俺達が刺客から受けた暴力を金銭の問題として突いてしまうと、先日暴走したゴレが集金業者達を問答無用で大量に半殺しにしまくった例の事件を、治療費や慰謝料の問題として蒸し返されやしないだろうか? 今は何となくうやむやに出来ているが……。
…………。
すまんハゲ、慰謝料はあきらめてくれ。
ゴレには二度とあんなことが起こらないよう、俺からよく言い聞かせておく。
しかし、俺のこの非常に文化的かつ公明正大な要求にも関わらず、このセペロという男は異様に頑なだった。
彼は血走った目で憎悪に顔を歪めて、俺を睨みつけた。ちなみに彼は、顔が歪むと見られない有り様になってしまうタイプの美中年だったようだ。
セペロは真っ赤な顔で、唾を飛ばしながら怒鳴り始めた。
「私は清らかな血を持つキナス人だっ! この土地のうすら馬鹿どもや、貴様ら汚れた血の東方の蛮族などとは、血統も! 品性も! 何もかもが違う! 私がお前ごときに屈することはないッ!」
この中年男の頭の悪い回答に、俺は困惑した。
今回の交渉に、そもそも人種問題は全く関係なかろう。歪んだ人種偏見と選民思想も恐ろしいが、思考ロジックがまったく理解不能である。
まずいぞ。こいつ、顔が知的なだけで、中身はDQNなのでは。どうしよう、これでは話し合いが成立しないかもしれない……。
「困ったなぁ……」
若干悲観的になってしまった俺は、つい、少し泣きそうな表情で、悲しげに呟いてしまった。
その瞬間、いきなりセペロが絶叫を始めた。
「あっあ゛っぎい゛い゛え゛ええええええええええええええ!!! あ゛ぐうっ! いぎっ!? おっぎいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
「!?」
俺はびっくりして、セペロの服を掴む手を離しそうになってしまった。
そして、思い出した。
そうだ、この手を離してはいけないのだ。交渉の機会を決して逃してはいけない。何を弱気になっていたのだ、俺は。俺の頑張りに、年寄り子供の今後の人生がかかっているというのに。
その時、背中に柔らかな温もりを感じた。ゴレだ。
見ると、背中に密着するゴレが俺の右肩ごしに顔を出し、心配そうに俺を見つめている。
あれ? そういえばお前、ギネム・バリはどうしたんだ?
……まあいい。そうだ、ゴレにも心配をかけてはいけないよな。きちんと相棒として、困難な交渉を立派に成し遂げる様を見せてやらなくては。
俺はセペロの服を掴む手に力を込めた。
闘志がみなぎる。俺ならきっとやれる。いや、やらなければならないのだ。
セペロにぐぐっと顔を近づけようとして、ふと思った。
先ほどからずっと感じている、周囲の職員や客達の、この原因不明の恐怖におびえたような視線……。
ひょっとして、俺の顔が怖いからなのではないか?
俺は元々目つきがあまり良くない自覚があった。
思い起こせば、古代地竜が絶命する瞬間、奴の瞳に映った俺の顔は、不良どころか、まるで恐怖の大魔王のようだった。たしかにあれは、心の弱い人が見たら泣いて命乞いを始めるレベルの顔だ。
何という事だ。
俺はもしや無自覚のうちに、自身が最も忌み嫌う暴力主義者達のように、周囲の他人を威圧し、恫喝していたのではないだろうか?
笑顔……そう。今俺に必要なのは、笑顔だ。
俺はにっこりと微笑み、セペロに顔を近づけた。
セペロの方に顔を向けているので、俺が笑った瞬間に、周囲の人々がさらに青ざめ震えはじめたことには、まったく気付かなかった。
「あんたの血統の事はどうでもいいんだ。きちんと俺の要求の内容を聞いて、せめて妥協点のすり合わせをしてほしい。……話し合いをしよう」
「ひいっ、ばっ蛮族め゛! 私は誇り高きキナス人だ! あの方に選ばれた、美しく優秀な人間だ! わた、じあ゛っぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
「!?」
再びセペロが絶叫を始めた。
しかし、俺はもう怯まなかった。……すまん、嘘をついた。びっくりして多少腰が引けている。
だが、なんとか笑顔は維持した。
「だから、あんたの事はどうもいいんだ。要は俺の要求を聞いてくれるのかという、それだけの話なんだから。……な、話し合いをしよう」
「話し合いも何も、こっこんな、拷問っ、も゛おっがああおおおおおおおおおおおおおおぎあああいいいいいッ!!!」
「???」
困惑する俺だが、しかし、努めて笑顔は崩さなかった。
「ちゃんと分かる言葉を喋ってほしい物なんだが……。難しい言葉で答えられないなら、せめてイエスだけでもいいんだがなぁ。……さ、話し合いをしよう」
「ごのっ野蛮じっぎい゛いいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!!!」
「……!?」
「はっぎゃああんっんっ! ん゛っ!? ほあおあおおっおおおおおお!!!」
「え?」
……今、なんか二回いかなかったか?
俺が当惑していると、背中に控えめに押し付けられていたマシュマロのごとき二つの柔らかな感触が、微妙に左に移動した。
そして今度は、すっと俺の左肩からゴレが顔を出してきた。
なんだい、ゴレ。新しい遊びかい? でも今はちょっと俺、店長と大事な話をしているから……。
交渉は困難を極めた。
平行線の話し合いが続き、セペロの絶叫がさらに5回ほど繰り返された。
最初の連続した謎の大絶叫を除くと、普通の絶叫が合計10回繰り返されたことになる。
このとき、ふっとゴレの感触が背中から離れた。
遊んでやらなかったから、すねちゃったかな?
ごめんな。これが終わったら、たくさん相手をしてやるから……。
その後も、セペロは、何度も何度も、俺をおどかそうと絶叫しつづけた。
彼が絶叫するたびに、周囲の人々は腰をぬかしてへたり込んだり、立ちくらみを起こして失神する者も出てきた。
でも、立ち去る者はいない。まるで逃げるタイミングを失ってしまったかのように、その場で棒立ちになっている。
おそらく、セペロの大声が周りの人々まで威圧し、迷惑をかけ始めているのではないかと思われる。
俺は心底この男にあきれた。
それにしても、先ほどから、何だかひどく血の匂いがする。
ひょっとして、戦いの後にローブに血でもついてしまっているのだろうか。後で確認しておかないといけない。
さて、ゴレが俺の背中を離れてから、すでに10回ほどセペロの絶叫が繰り返された。
これでおそらく、トータルで大絶叫1回、通常絶叫20回ということになるだろうか? あきれるほどに良く叫ぶ男だ。
再びゴレが俺の背中にぴったりとくっつき、右肩から顔を出してきた。
おや? 戻って来たのか。今までどこで遊んでいたんだ?
だが、ゴレが右側に戻って来たのを見たときのセペロの表情は、凄かった。
まるで無間地獄に落ちた罪人のような、絶望に満ちた顔をしていた。
ともあれ、この男さっきから絶叫しかしていない訳だが、ひょっとして俺の要求内容なんて忘れているんじゃないだろうか……。
一応もう一度説明しておいた方が良いのだろうか。
「なぁ、俺の話が良く分からないって言うのなら、きちんと最初からもう一度おさらいしたっていいんだが。面倒臭いが仕方ない。何度でも説明してやるぞ? ……なぁ、話し合いをしよう?」
俺は柔らかな笑顔で、努めて優しくセペロに語りかける。
セペロは汗をぐっしょりとかき、土気色の顔で荒い呼吸を繰り返している。
すでに瞳は濁り、焦点は合っていない。瞳孔は開ききっていた。
原因は大声の出し過ぎだろう。
「ひっひっ、も、もうゆるじで、ぐっぎえあ゛あ゛あああああああああ!!!」
先ほどから時々、ボキンッ、とまるで太い何かが折れるみたいな音や、ベキベキと硬い何かが捩じれるような、大きな音がしている気がする。
でも、ほとんどセペロのすごい絶叫でかき消されてしまっている。しかも、顔のそばで彼が叫ぶせいで、俺の耳はすでにキンキンしていた。
だから、気のせいなのか何なのか、良く分からなくなっていた。
「なぁ。こんな事を延々と繰り返していても、営業時間が終わってしまうだけだと思うんだが。あんたら、仕事終わりが早いんだろう?」
俺は笑顔でセペロに提案した。
「……なぁ、そろそろ話し合いをしようか」
「あっアっ な、なん゛でもいう事をぎぐがら゛……。もう、やめでぇ……」
こうして、セペロはついに俺の話を聞いてくれた。
根気よく話し合いの姿勢を崩さなければ、困難な交渉も成し遂げられるのだ。
俺はまた、平和な文化人として、一歩高みへと進んだ気がした。
達成感に満ち溢れた俺は、作り笑顔ではなく、本当の意味での笑顔になった。
そんな俺の横顔を、ひっついているゴレも幸せそうに見ていた。




