第34話 下着とデート
「おはよう……って、何やってるんだ、ゴレ?」
朝、目覚めると、ゴレが俺の脱いだ下着に顔をうずめていた。
昨日寝る前に脱ぎ散らかしていた物だ。今朝洗濯しようと思っていた。
彼女は俺の下着を自分の顔に押し付けたまま、微動だにしない。
なんだか、恍惚としているようにも見える。きっと気のせいだと思うが。
これは多分、匂いで服の汚れ具合をチェックしてくれている……のだと思う。洗濯が必要かどうかを、これで判別しているのだろう。
盆地の隠れ家にいた頃も、洗濯の前によくやっていた。
悪気がないのは分かっているのだが、俺としては恥ずかしいからやめて欲しいんだけど。やめてくれない……。
何度言っても、こっそり隠れて匂いをかいでいる。
さて、このように、ゴレには嗅覚がある。
とはいえ、この嗅覚に関しては、それほど優れているわけではない。おそらく人並みか、それよりやや落ちるのではないかと俺は見ている。洗濯物の匂いの判別にも、やたら時間がかかるし。
一方で、耳の良さ、すなわち聴力はわりと良いのではないかと思う。
小さな物音なんかにも、敏感に反応しているときがある。
でも、人の話とかは全然聞いていないんだよな。ほとんど俺の言葉しか聞いていない。よく分からんな、こいつの聴覚は……。
ゴレの五感でずば抜けて凄まじいのは、何といっても、“視力”である。
こいつは、目がめちゃくちゃ良い。特に動体視力は完全に人智を超えたレベルに到達している。この優れた視力と例の謎レーダーの併用によって、ゴレは常に正確に周囲の状況を掌握しているようだ。
昨日ハゲから聞いた話によれば、聖堂ゴーレムは“光受容体”と呼ばれる瞳の水晶状の器官のおかげで、極めて視力が高いそうである。ゴレの目の、綺麗なルビーみたいな虹彩部分のことだな。たしか聖堂の爆乳達も、ゴレとは色違いの緑色の虹彩を持っていたはずだ。ゴレがルビーなら、彼女達はエメラルドってところだろうか。
ただ、この光受容体が付いているゴーレムというのは、実はとても珍しいみたいだ。
通常、ゴーレムの様々な感覚は、“索敵紋”と呼ばれる額のセンサーが担っている。
そう。例のおでこの不思議な紋様である。
この額のセンサーで、光や音、ゴーレムの種類によっては匂いまで感知するらしい。といっても、それほど目は良くないそうだ。
ゴーレムが頭をやられると機能停止するのも、多分こんな風にセンサー類が頭部に集中している仕様が関係しているのではなかろうか。
とはいえ、ゴレの索敵紋は、普段ほとんど前髪に隠れているんだよなぁ。
こいつはどうも、俺に索敵紋を見られるのが恥ずかしいみたいなんだ。おでこが出ていると、そそくさと前髪で隠したりする。
それに、ゴレは俺の話を聴くときには一生けんめい耳を動かすし、俺の下着の匂いをかぐときだって、必死に鼻に押し当てている。
……ゴレの額のセンサー機能は大丈夫なのだろうか。ちょっと心配だ。
そんな風にしみじみとゴレのセンサーについて考察していた俺だったが、ふと我に返ってゴレの様子を見た。
ゴレはまだ俺の下着に顔をうずめている。
随分長いな……。
「なぁゴレ、洗濯物の匂いチェックは、もうそれぐらいで十分じゃないか?」
そう声をかけつつ彼女の顔を覗き込んで、ぎょっとした。
――俺の下着に顔をうずめるゴレの瞳が、ピンク色に濁り始めていた。
やばい、故障だ。
慌ててゴレから下着を奪い取った。
嘘だろ? まさか、そんなにひどい匂いだったのか、俺のパンツは。
ゴレが故障してしまうほどにか……?
俺は手に持ったパンツを改めて見た。
特に何の変哲もない、ボクサーパンツだ。
こいつはパジャマと一緒に元の世界からやって来た俺のパンツである。パジャマの方とは違って、ダサくはないと思う。多分。
自分でも匂いをかいで確認してみたが、別に臭ったりはしていない。それにこのパンツは、昨日1日しか履いていない物のはずだ。
いや、しかし体臭は自分では分からないと言うよな。何より、たった今ゴレが故障しかけたという、純然たる事実が存在しているのだ。
そうか、やはり俺の下着の匂いはひどいのか……。
俺は深いショックを受けた。
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「はあ? 新品のパンツを買いたい?」
ハゲがあきれたような顔で俺を見ている。
俺は涙目でうなずいた。
「うん……。色々と事情があって、俺、下着をあまり持ってないんだ。その、匂いとか……。色々と気になってしまってな……」
事実、俺の下着は古代地竜にほとんど吹き飛ばされて、現在2枚しか残っていない。あのとき履いていた1枚と、パジャマと一緒に貴重品として雑嚢に入れていたおかげで無事だった、例のボクサーパンツのみだ。
とりあえず今朝の出来事は置いておくとしても、早めに買い足しておかないと今後困るのは間違いない。このまま2枚でローテーションを組んでいる限り、一日雨が降って洗濯できなかった時点で、詰む。
「そういうことなら、今から街の服屋に行ってきたらどうだ? もう店も開いとると思うぞ。そういえば、お前さん本が読みたいと言っとっただろう。ついでに本屋にも寄ってみたらいい」
「そうするか……」
服屋に本屋か。ちょうどいい機会だ。
パンツ以外にも、色々と買っておきたかったところだし。
ちなみにこの世界の男物のパンツは何タイプかあるのだが、基本的にはトランクスのような形をしている物が多い。ふんどしではないみたいだ。ゴムはなくて、腰の部分は紐で軽くしばる。特にごわごわしたりもしていないし、履き心地は悪くない。
ここで俺はふと疑問に思ったことがあった。
「なぁ。そういやパンツの値段って、いくらぐらいするんだ?」
「お前さん、下着の値段も知らんのか……。本当に、あきれるほどの温室育ちだなぁ。まぁ、男物なら銅貨50枚も出せば、そこそこの品が買えると思うが」
銅貨50枚というと、えっと……。どのくらいの価値だ?
たしか、店での食事が銅貨10枚程度だったろうか。うろ覚えだが。ということは、パンツの価値はレストランごはん5食分くらいなのか。元の世界よりは、服の値段がちょっと高いのかな。
この世界の見た目の文明レベルからすると、衣料品はくそ高いかと思っていたのだが、別にそこまででもない様子だ。
「なるほど。とりあえずそれくらいなら、俺でも問題なく買えそうだな」
さっそく、財布を握りしめて出かけようとする俺。
「おい、ネマキ」
何故かハゲに呼び止められた。
俺を見つめる心配そうな目は、完全に、初めてのおつかいに出かける幼稚園児を見る目であった。
「わしは今日はジビルの商会へ行くための準備を色々とせにゃならんから、買い物には付いて行ってやれんのだが……。お前さんだけで、本当に大丈夫か?」
「はぁ!? あまり俺をなめるなよ? 流石にパンツくらい自力で買えるわ!」
ぷんぷんと憤慨しながらドアを開けようとしたとき、床にしゃがみ込んでいたゴレがふらふらと立ち上がった。
おや、お前も買い物について来るつもりなのか。
瞳がピンク色に濁って故障しかけていたし、大事を取って、家で安静に留守番をさせておこうかと思っていたのだが。
というかゴレのやつ、まだ微妙に腰砕けみたいな状態になっているのだが、本当に大丈夫なのだろうか……?
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笑顔の中年男性が、路地の先にある古びた一軒の店を指さした。
「あそこが、この街で一番品揃えの良い書店だよ」
「ありがとうございます。わざわざ道案内までしてもらってすみません」
俺は恐縮しながら、男性にお礼を述べた。
本屋の場所がよく分からず困っていたところ、この人が案内してくれたのだ。
「いやいや、とんでもない。良い本が見つかるといいね。是非お買い物楽しんでいってね、ゴーレム使いさん」
男性はにこやかに手を振りながら去っていった。
いい人だ……。
道案内の男性と別れた俺とゴレは、本屋に向かって通りを並んで歩いた。
今日の相棒は、ずっと俺の半歩後ろくらいの位置を歩いている。これは平時に歩くときのポジションとしては、最も前方の位置取りだ。感覚としては、ほとんど真横に並んでいるような状態といえる。
斜め後ろが大好きなゴレにしては、わりと珍しい位置取りである。
仲良く並んで歩く俺達は、ふたりとも手に大量のパンツと衣料品が入った買い物袋を提げていた。
そう。先ほど俺は幼稚園児以下なりに、立派に買い物を果たした。
というか、パンツはすごく安かった。ハゲの話では銅貨50枚程度かかるということだったが、実際は銅貨20枚だったし、なぜか服屋のおじさんはにこにこしながら靴下やら何やら色々とおまけしてくれた。
ちなみに、さっきこの書店まで道案内してくれたあの男性こそが、その服屋のおじさんなのである。
いい人すぎるだろう……。
大量の下着が入った買い物袋を持って、ゴレはご機嫌である。
ふたりで一緒に買い物をしながら並んで街を歩いている間中、ずっと耳が小さく動きっぱなしだ。
こいつは買い物が好きなのかもしれない。
服屋で俺のパンツを買うときも、すごく真剣に選んでいたし。
どれも同じようなパンツだと思うのだが、こいつなりのこだわりがあるみたいなのだ。
というか、履くのは俺なんだがな。ゴレがこだわってどうするんだという話なのだが……。
さて、本屋の中に入ってみるとしよう。
木製のドアを開けて店内に足を踏み入れると、ふわっとインクの匂いがした。俺の大好きな、本屋さんの匂いである。
店の外観は古びていたが、中はきちんと手入れが行き届いている様子だ。
店舗の大きさとしては、ハゲの魔道具屋よりも随分小さい。というよりも、ハゲショップが無駄に広いだけだと思う。
棚には様々な本が並んでいる。
絵本みたいな物から専門書っぽい物まで、色々と取り揃えてあるようだ。
服屋の御店主の言っていた通り、たしかに品揃えが良さそうな感じである。さすがに元の世界の書店には遠く及ばないが。
お、学習書も置いてあるな。
残念ながら、古代地竜に消し飛ばされてしまった我が愛用の『魔術入門』シリーズは、この店には置いていない様子である。
もし置いてあったら、買い直してもよかったんだけど……。
手近にあった魔術の学習書らしき本を、1冊手に取ってみた。
おや、本に紙の帯で封がされている。中身が読めないみたいだ。
見れば、棚にある本のほとんどに、同様の封がされていた。
なるほど。ここには立ち読みの文化はないのか。
俺には、魔術の専門書の翻訳内容がゴリラ化してしまうという、例の現象の問題がある。中身が読めるかを確認せずにここで学習書を購入するのは、ちょっとリスクが高すぎるかもしれない。
買うのは別の本にしよう。
学習書を、そっと棚の中に戻した。
店の奥を見ると、お婆さんが一人で店番をしているようだ。
うん、お婆さんだけしかいない。
なるほどな。俺には、本屋の可愛い孫娘との出会いと恋の物語などは、一切始まらなかったようだ。
ああ、知っていたさ……。
別に悲しくなどない。今日は本を買いに来たのだから。
とりあえずゴーレムについての良さげな本を、何か1冊選んで買っておこう。
それに加えて、もう1冊くらい何か別の本を買ってもいい。何か個人的に楽しむための趣味の本を。
俺は読書好きな男なのだ。
悩んだ結果、俺は2冊の本を購入した。
その名もずばり、『ゴーレム図鑑』と『食べられる野草』だ。
『ゴーレム図鑑』は名前の通り、ゴーレムの図鑑である。店のおばあちゃんによれば、挿絵付きでわかりやすいそうなので、この本を選んでみた。
もう一つの方の『食べられる野草』も、我ながら良いチョイスをしたのではないかと思う。サバイバルに役立ちそうだし、俺が単純に異世界の植物に興味があるということもある。趣味と実益をかねた本というわけだ。
野草の本は銀貨2枚、ゴーレムの本は銀貨1枚と銅貨10枚という値段だった。
この世界の本の値段って結構高いみたいだな。
でも、これでも実際は相当に割り引いてもらっているのだ。
おばあちゃんは、2冊ともすごく値引いてくれた。最初の売り値は、なんと、野草の方が銀貨8枚で、ゴーレムは銀貨6枚だった。銀貨14枚分の買い物が、銀貨3枚ちょいになったのである。びっくりするような割引率だ。
ティバラの街の人達は、何故かものすごく俺とゴレに好意的なのだ。
服屋の御店主もそうだったのだが、皆さん、にこにこと競って道を教えてくれるし、商品の前に立って買うか迷っているだけで、どんどん値段が下がっていく。
屋台のおっちゃんが、食べ物をただでくれたりもする。
先ほどまた焼き菓子をもらったので、テルゥちゃんへのお土産に持って帰るつもりだ。
でも、街に来た初日には、こんな事はなかったと思うのだが……。
特に本屋のおばあちゃんは、目に涙を溜めてじっと俺の手を握ってきた。もはやここまで来ると、完全に理解を超えた謎の現象だ。俺に謎のおばあちゃん限定モテ期が到来している可能性すらある。
とはいえ、ご厚意でものすごく割り引いてもらってはいても、そもそもの買い物の量が量なのだ。服の代金なども合わせると、おそらくトータルで銀貨20枚か21枚分くらい使っていると思う。
銀貨1枚でそこそこのグレードの宿1泊だもんな。よくわからんが、今日1日で20万円くらい使ってしまったことになるのではないだろうか。
少し心配になって、財布の中身を数えてみた。
金貨が5枚に、銀貨は14枚あった。銅貨は……ジャラジャラとものすごくいっぱい増えている。おそらく、買い物のときに銀貨を崩したせいだ。
俺、猿の魔導核はわりと持っているのだが、今のところ現金収入のあてもないから、これ以上あまり無駄遣いできないかもしれない……。
うん、明日から節約頑張ろう。
相変わらず危機感の薄いおそろしく適当な銭勘定をしながら、俺達はふたり仲良く家路についた。
隣でパンツの入った買い物袋を持つゴレは、とても幸せそうだった。




