第24話 鹿とティバラの街
俺の前方に、シカが立っていた。
漢字で書くと、鹿だ。
そう、枝分かれした角を持ち、奈良公園にいるおなじみの草食動物。
鹿せんべいを持っていると大量に群がって来て、せんべいどころか服までもぐもぐしやがるので、全身が鹿の涎でべちょべちょになってしまうという恐るべき害獣である。
しかし俺はそんな、つぶらな瞳の害獣どものことが別に嫌いではなかった。
「見ろよゴレ! おい、鹿だ! 鹿がいるぞ!」
思わずはしゃいだ声でゴレに話しかけてしまった。
ゴレは、鹿にはそこまで興味がない様子だ。
俺の言葉に反応して、軽く視線を投げるが、すぐに顔の向きを戻してしまう。
鹿じゃなくて、俺ばかり見ている。
猿に初めて出会ったときも、わりとこんな感じだった。
しかし、俺のテンションは上がっていた。
なにしろ、俺がこの世界で見てきた脊椎動物と言えば、猿・おっさん・恐竜だ。
そこに来た、突然の鹿である。
このメンバーの中では、鹿は段違いの癒し度をほこる動物と言えるだろう。
とはいえ、この世界の鹿はわりと威圧感があるようだ。
見た目の印象も、身近な日本の鹿というよりは、むしろ、トナカイやヘラジカに近い。
2本の角も非常に巨大だ。
肩高が2メートルはあり、その時点で既に並の鹿ではないのだが、この巨大な角の先まで入れると全体の高さが4メートル近くに達する。とにかくでかい。
つり上がったその瞳と禍々しくねじれまがった赤黒い角は、人によっては気持ちが悪いと思うかもしれない。
しかし、俺はそんなつまらないうわべだけの人間の価値観で動物を判断したりはしない。
そこにはあるのは、いつも雄大な自然の造形美だけなのだから。
「何というか……美しいな」
うっとりと呟いた俺がふと見ると、いつの間にか、ゴレが鹿の眼前に立っていた。
直後、彼女は鹿をめがけて、稲妻のごときハイキックを放った。
恐るべき死の一撃をもろに受けた鹿の頭部は、脳漿をまき散らしながら吹き飛んだ。
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「いいかゴレ、他の動物にむやみに乱暴をするのは、普通はいけないことなんだ」
俺は街道を歩きながら、ゴレに世の道理を説明していた。
ゴレの長い耳がほんの微かに動いている。
話しかけられたりして、うれしいときの反応だ。
要するに、あまり深く反省していない。
ただ、俺が強く注意したりできないのにも理由があった。
ゴレが野生動物に対して神経質になってしまうのも分かるのだ。
何しろ、こいつは生まれてから今まで、敵対的な野生動物にしか出会ったことがない。
猿も恐竜も、いきなり俺達をぶち殺しにかかってきた。
あいつらは魔獣だから特殊な例なのではないかと思っているのだが、そもそも俺自身に、この世界の動物の生態についての知識がない。
ゴレがあの鹿を排除した判断が正しい可能性もある以上、無責任に叱ることはできなかった。
とはいえ、ついに猿以外の動物が姿を現したことになる。
俺達は一本道の街道を西に進み続けている。
すでに周囲の様子は、明確に変わりつつあった。
スペリア先生の話では、この地域は常に強い西風が吹いているので、土の瘴気の発生源が古代地竜だとするならば、被害はそこを起点に東側に集中しているだろうとの事だった。
まさにその通りであった。昨日から不毛の大地は抜け、草地と樹木がそこかしこに見え始めている。
猿を最後に見たのも随分前だ。
この様子ならば、街道の先にある次の集落には期待できるかもしれない。
俺は、改めて地図を広げた。
「えー、次の集落の名は……“ティバラ”か」
ここに来るまでにも、ぽつぽつと放棄された集落跡を通っている。
まったく集落跡がなかったサマリ以東に比べて、西へ進むほどに街道沿いの集落の間隔が短くなりつつあるのだ。
この地方はおそらく西側が中心地で、東へ行くほど辺境にあたるのだろう。この国の首都である帝都も、この街道のはるか西にあるという話だし。
したがって、地図を確認しながらきちんとペース配分すれば、容易に集落の空き家を拝借することができたから、あれ以来まったく野宿の必要はなかった。
しかし、そろそろ人里にたどりつきたい。
柔らかいベッドが恋しい。手持ちの食料も味は悪くないんだが、この世界の普通のきちんとした食事という物も食べてみたいところだ。
とはいえ、地図の感じだと、そろそろ集落に近いはずだ。
あの丘の峠を越えたあたりからなら、何か見えてくるかもしれない。
「おお、人里だ……!」
緑の丘の上から街道の先を望んだ俺は、思わず歓喜の声をあげた。
眼下の家々からは、炊事の煙のようなものが上がっているのが確認できる。
俺の願いが届いたのだろうか。
なんと、ティバラには、人が住んでいるようだ。
明らかに家の数が多い。規模的には今までの集落よりはるかに大きい。
雰囲気も農村という感じではないし、これは……もはや街だ。
やったぞ、文明だ!
これでとりあえず、野垂れ死にの心配だけはなくなったはずだ。
ここまで、食えるか食えないかすら謎の不思議猿ども以外何もいなかったせいで、自給自足のサバイバル生活さえも不可能だったのだ。ようやくそこから脱することができたこの安堵感は、たとえようもない。
とにかく、可能なら換金できそうな物は換金するなりして、なんとか最低限この世界での生活手段を確立したいところである。
今後の行動方針を決めるにしても、まずはそこからだろう。
飢え死にしてしまっては、元も子もないのだ。
ほどなくして、ティバラの街の門の前に到着した。
だが、この東側の門には誰もおらず、木製の大きな扉は固く閉鎖されている。
そこそこ立派な門だが、長い間利用されていないみたいだ。
ゴーストタウンってことはないだろう。先ほど丘の上から見た様子では、街の中に人がいるのは間違いない。
考えてみれば、ここから東には猿しか住んでない。開けとく必要がないな。
どこかに別の門があるのか。
とりあえず、時計回りに街の南側の方へ回ってみることにした。
街の外周を歩きながら、改めてティバラの街を見やった。
これまでの集落跡は、どこも朽ちた木の柵がある程度で、ノーガードな農村風だった。しかし、この街は簡易ではあるが周囲を土壁に囲まれている。
一応見張り櫓のような物も建ってはいるが、全体的に雰囲気は弛緩している。
おそらく、俺達にも気づいてないんじゃないだろうか。実にのんびりとしたものだ。
壁は単に害獣避けかもしれない。
まぁ、この世界の害獣筆頭である猿どもが放つ必殺のラグビーボールは、こんな土の壁程度なら数枚貫通しそうだが……。
壁越しに見える街の外縁部には、わりと新しい屋根しかない。先ほど丘の上から望んだ家々は、結構年季が入っているように見えたのだが。
そこで、はたと気づいた。土の瘴気に見舞われた地域から逃れた人々の一部は、この街に居を移したのかもしれない。地図での印象やこれまでの集落と比べてやたら規模が大きく見える理由の一つは、もしかするとそれなのだろうか。
街の南側にも入り口らしきものは無かった。
そのまま俺達はふたりして、てくてくと外周に沿って街の東側に向かって歩いていく。
何だかんだで、このままだと街をぐるりと半周してしまいそうだ。
お、南側には一面の畑があるんだな。これは何だろう。麦か?
遠くの畑の中で動いている影がいくつか見える。
農作業をしている人間だ。
おお、人だ……。猿ではないぞ、人があんなに……!
女の子もいる!
別にどうということもない、ご両親のお手伝いをしているのであろう、素朴な田舎の娘さんだ。
その娘さん個人に何か特別な興味があるというわけでもない。
というか、遠すぎて顔も何も分からない。
ひょっとしたら、背が低いだけのお婆さんだったのかもしれない。
しかし、俺は、感動に震えていた。
白骨死体とおっさんと猿まみれの俺の異世界ライフに、ついに女性が出現したのだ。
何か人生の大切な潤いのようなものを、神が取り戻してくれたような気すらした。
神に感謝の祈りを捧げつつ麦畑の脇道を歩いていた俺だが、ふと立ち止まった。
外壁に門がある。街の入り口だ。
すでに街の周りを東からぐるりと半周して、西側までやって来ている。
つまりこれは、ティバラの街の西門ってところだな。
西門からは街道がさらに西へ向かって、街の外へと伸びている。この様子から察するに、このティバラは、円状の街のど真ん中を、本来は東西に街道が突っ切っている形なのだろう。
土の瘴気の被害で東側には進めないので、東門を閉じて行き止まりの街になってしまっているわけか。
門の前には街に出入りする幾人もの人々がいた。
おお、人だ……。
いや、一々人に感動しすぎなのだが、仕方がないじゃないか。今までスペリア先生以外の霊長類は、全員、骨と猿だったのだ。
人の出入りはわりとあるみたいだ。
荷馬車に乗った行商人風の人物もいる。
馬がいるんだな、この世界にも。まぁ、猿も鹿もいるしな。
服装は皆やや独特だが、民族衣装風の物を着ている人の割合が多い。
それにほとんどの人が日本人顔ではない。
しかし、中に一人だけ、微妙に東洋系っぽいの顔立ちの中年女性がいた。
スペリア先生も、俺の容姿にはそこまで驚いている様子ではなかったな、そういえば。
たしか東方の紛争地域から流れて来た人間だと勘違いされていたはずだ。
ということは、東にこんな感じの民族がいるのか。
門の前には一応、槍を持った門番のようなおっさんが立っていた。
正直、そんなに強そうな感じでもない。安っぽい皮鎧を着た、髭を生やした普通のおっさんという感じだ。
少し様子をうかがってみたが、おっさんは立っているだけのようだ。皆ノーチェックで普通に門を出入りしている。
身分検査なしか。よっしゃ、住所不定・職業魔導王でも入れるぞ。
ならば、俺も行くしかあるまい。
すれ違うとき多少どきどきしたが、おっさんは俺よりもむしろ、後ろを歩くゴレの姿をじろじろと舐めるように見ていた。
これは綺麗な犬を連れ歩くと、よく起こる現象だな。おかげで特に何も言われることはなかった。
助かったぞ、相棒。
門をくぐった先、ティバラの街の中はわりと賑やかだった。
人々が通りを行き交っている。
街の住人っぽい人、旅姿の人。駆けていく小さな子供。
家畜を連れた農夫みたいな人もいるが、あれは羊だろうか?
おお、遠くで大きな荷物を運んでいる灰色のデッサン人形っぽいあれは、もしやゴーレムじゃないか?
なんだか、店の数も結構多い。
手前の八百屋のような店では、見たこともない野菜や果物が売られている。
逆に、見慣れた野菜や果物も多いな。元の世界と品種は違うと思うが。
今俺が立っているこの大通りが、本来ならば街道として、このティバラの街の中央を横断しているはずだ。おそらくこの街のメインストリートなのだろう。
俺は周囲の街並みを見渡した。
わりと小奇麗な街ではあるが、ほとんどが一階建ての木造建築だ。
これまでの集落跡や、リュベウ・ザイレーンの隠れ家を見ても感じていたことだが、やはり文明レベル的には、確実に近世以前という印象を受ける。
もっとも、この世界には魔術がある。元の世界と何がどういう風に違ってくるのか、現時点では予測もつかないが。
ともあれ、我が愛すべき土属性がカス属性である以上、土木建築方面の劇的な向上という線だけはありえないと思う。
言っていて悲しくなってきた。この話題はもうやめよう……。
気になる事といえば、先ほどから、ちらほら俺みたいな旅人風の人の姿が見えるんだよな。もちろん皆さんの装備は、俺なんぞよりはるかにしっかりしていらっしゃるのだが。
でも、土の瘴気のせいで、ここは現在、この街道の東の突き当りになっているはずだよな? 事実、東からやってきた俺達は誰ともすれ違っていない。この街の東門だって閉鎖されていたくらいだ。
では、この旅装の人々は一体どこへ行くんだろうか。
様々な疑問や好奇心で、田舎者のようにきょろきょろと周囲を見回していた俺だったが、ふと背後のゴレが気になって振り返った。
さっきから妙に大人しい気がする。
いや、大人しいのはいつもの事だが、何か微妙に違う気がするのだ。
せっかく街に来たのに、全然うれしそうじゃないんだよな、ゴレのやつ。
街や人々に向ける視線が、妙に冷めているというか。
最初に猿や鹿を見せたときだって、もう少しマシな反応だったように思う。
少なくともあのときは、猿を見てはしゃぐ俺にあわせて、視線を時々猿に向けてくれていたりした。でも、今は人々の方を見向きもしていない。
人が多い場所が好きじゃないのだろうか?
少し心配だな……。
それに、街に近づくにつれて、ゴレの纏っている空気が、妙にピリピリしてきている。
さっき畑の女の子を遠目にちらちら見ていたときなどには、もはや空気がビリビリしていた。
どうしたのだろう、こちらも心配だ……。
不安と共に振り向いた俺に、温かな深紅の瞳が向けられている。
そのまなざしは、いつも通り、とても優しい。
しかし、俺は何だか妙な胸騒ぎがした。
もう一度ゴレに念をおしておこう。何事も確認は大切だ。
「……いいか、ゴレ。この街にいる人やゴーレムには、絶対に“攻撃”しちゃだめだからな。攻撃していいのは、俺が許可を出すか、相手が手を出してきたときだけだ。ちゃんと約束を守って、おりこうにするんだぞ?」
俺はゴレに対して、社会の最低限のルールを再確認した。
前回は、無能な俺が“殴ってはだめ”などという不十分な注意をしてしまったせいで、ゴレが相手を蹴ってしまい、悲劇が起こった。
全ては飼い主である俺の責任だった。ゴレは悪くない。だが、絶対に同じ失敗を繰り返してはならない。
一生懸命真剣に話しかける俺をじっと熱く見つめる、輝くルビーのような瞳。
俺が彼女の間近で言葉を発する度に、とても長くて美しい耳が、くすぐったそうに微かに揺れる。
うーん。こいつ、ちゃんと分かってるのかな……。
俺は不安になってきた。
ゴレの圧倒的な暴力の前に、むごたらしく次々と一方的に蹂躙されていく、聖堂の爆乳ゴーレム達の姿が脳裏によみがえる。
……いや、きっと大丈夫だ。だって、あの時のゴレは、パニックで恐慌状態になっていただけじゃないか。
しかも原因は全て、ギリシャ彫刻を使った変態行為を行っているとゴレに誤認させ、純粋で無垢なこいつのピュアな心を深く傷つけた俺にある。責任を取って腹を切るべきは、全て俺だった。
ゴレはとても思いやりがあって、人の痛みをすごくよく分かってくれて、でも自己主張が控えめすぎてちょっと心配な、俺の自慢の相棒だ。
ゴレはいつも誠実で、とても優しい。
俺はこいつに酷い事なんて一度もされたことがない。
だから俺以外の他の人にも、酷い事なんてするはずがない。
しかし、何故だ。何故、こんなにも不安になるのだ。
俺はゴレの前に小指を差し出した。
「ゴレ、こうやって小指を出してごらん」
彼女が俺の真似をして、少し戸惑うように、その細い小指をそっと立てる。
俺はゴレと指切りをした。
「よし。……約束だぞ」
指切りは珍しかったのかもしれない。
ゴレは優しく絡めた小指を、なかなか外そうとしなかった。
普段こいつは俺の動きにまったく無抵抗で、少し心配になるほどなのに。なんだか珍しい。