第19話 地竜と助教授
「そもそも、私が今回の調査でサマリ近辺まで出向いて来たのは、この地方で隠棲しているはずのザイレーン師に、助力を願えないだろうかと思ってのことだったんだよ」
暖炉の前に座り、そう語るスペリアのおっさん。
眠気が完全に吹っ飛んだ俺は、只々、目を見開くしかない。
「……まぁ、実際は師の助力を仰ぐどころか、すぐに引き返すはめになってしまったわけだけどね」
彼は面目なさげに頭をかいている。
セマウ・スペリア。
この、気の良い眼鏡の男性は、俺をこの世界へ召喚して世界破滅を狙っていた、あの狂気の召喚術師リュベウ・ザイレーンの弟子だったのだ。
そういえば、書斎でザイレーンの著書を漁っていたとき、作者の経歴みたいなところで、帝立魔術学院で客員教授をやっている、みたいなことも書いてあった。あのときは、このクソエリートが! くらいにしか思っていなかったが……。
考えてみればスペリアのおっさんは、同学院の助教授だと最初に名乗っていた。何かしらの繋がりを考えて然るべきだったかもしれない。自己紹介の際に俺がリュベウ・ザイレーンの名前を拝借しなかったのは、今にして思えばナイス判断だったことになる。
だが、この立派な文化人の精神を持つ目の前のスペリアのおっさんが、あのクソみたいなザイレーンの弟子だというのか!?
そんな馬鹿な。にわかには信じられん。
これは、完全に、弟子が師匠を超えているパターンじゃないか。
学者としての研究成果? そんな物は知らん。
にしても、スペリアのおっさんはザイレーンの助力を得るために、わざわざサマリ近辺までやって来たのか……。すまん、おっさん。実はザイレーンのアホは、すでに洞窟で白骨死体になっているんだ。助力は無理なのだ。
この師弟関係の事実にショックを受ける一方、俺にはほっと胸をなでおろしている点が、実は一つある。
つまり、このスペリアのおっさんがザイレーンの直弟子なら、少なくとも、奴の死亡から俺の召喚までのタイムラグで数百年が経過している、などという可能性は消えたわけだ。正直、あまりに白骨死体にしか遭遇しないせいで、おっさんに会うまで、時間が経ちすぎて文明が滅んでいるんじゃないかと、俺は本気で疑っていたほどなのだ。
いつごろ師事していたのかは知らんが、スペリアのおっさんは見た目年齢的にはせいぜい40代前半ってところだ。もしかすると、もっと若いかもしれない。ここから逆算すれば、想定される召喚のタイムラグは最大で30年くらいか?
色々と突っ込んだ質問をしてみたいところではあるのだが、やはり、この世界の人に俺が“魔導王”だと身バレしてしまうと、まずいのだろうか?
うん、まずいよな。どう考えても。世界滅ぼす系の職業らしいし、何やら過去に殺されているみたいな物騒な事もザイレーンの遺言には書いてあった。
俺の正体は隠しておこう。魔導王だとバレると、何もしてないのに誤認逮捕されてしまう可能性が高い。
しかし、だとすると、どういう質問からしていくのが無難なのだろうか。
俺がそんな風に色々と考えを巡らせているうちに、スペリアのおっさんは寝袋を用意して寝息をたてはじめていた。
おっさんは猿の襲撃に備えて早めに寝る人だからな。
まぁ、質問は明日以降にすればいいだろう。瘴気を抜けるまでまだかかりそうだし、おっさんとの付き合いは、しばらく続くはずだ。
そんな風に考え、俺は床についた。
隣にいるゴレが超あったかいんだけど、このゴレの謎ヒーター機能、堕落してしまいそうで良くないな……。
優しく快適な温もり。眠りに落ちるまでは、あっという間だった。
翌朝、パンと干し果物、おっさんが持ってきていたハーブティーのような飲料で軽い朝食を済ませ、俺達は西へと出発した。
街道をしばらく歩いていて、気になっていることがある。
昨日の日没前に見たときより、土の瘴気の色が濃くなっている気がするのだ。
遠くの景色が茶色に染まっている。昨日はここまでひどかっただろうか。
「瘴気って、一晩で濃くなったりするものなんですか?」
教えて、スペリア先生。
「いや、そういう事例はあまり聞かないね。多少の濃度変化は起こるが、こんな短時間に明確に目視できるレベルの変化は通常起きない。……妙だね」
おっさんも異変には気づいていたようだ。
その後は何やら考えるようにして、黙り込んでしまった。
そして、俺にはもう一つ気になっている事がある。
猿がいない。
今日はまだ、一頭も出ていない。
時間的には、既にうじゃうじゃと出始めている頃だ。
聖堂の周りと似ているといえば似ている状況なのだが、あのときのように道端に死骸が転がっているわけでもない。
そもそも、昨日の夕方前までは、この辺に普通に猿どもはうろうろしていて、ゴレにかかと落としで沈められていたのだ。
なぜ今朝は急にいなくなった?
まさか、ゴレのかかと落としにびびったのか?
実は、可能性として、まったく無いわけではないのだ。
猿どもは何気に賢いので、彼我の圧倒的な戦力差に気付くと、寄り付かなくなる節がある。
たとえば、ゴレによる一方的な虐殺行為の直後に付近で昼飯にすると、2・3時間くらいその場でだらだらしていても、一匹も猿は顔を見せなかったりする。
毎朝俺がゴレに抱っこされたまま、赤ん坊のごとくのんびり眠っていられたのも、おそらくはこれが原因だ。付近でのゴレによる大量殺戮の効果が、翌朝まで続いているのだ。
常に猿に向かって移動し続けている俺達にとっては、あまり関係がなく気づきにくい、猿のこの基本習性。だが、もしこの習性がなければ、例の聖堂周辺の死骸の量があんなもので済んでいるわけはない。ギリシャ彫刻たちは毎日猿退治にてんてこまいで、周りには白骨死体よりも腐乱死体が多くなっていたはずなのだ。
猿は、圧倒的強者に近づかない。
とは言ってもだ。
昨日集落に到着したのは、すでに猿が巣穴に帰る日没に近い時間帯だった。
だから近辺でゴレが蹴り殺した猿も、2・3頭にすぎない。
流石にこの程度の殺害頭数では、猿の行動にたいした影響は出ない。
では、何故……?
何かが、おかしい。
スペリアのおっさんは、歩きながら難しい表情をしている。
おそらく先ほどの俺と同じような疑念を抱いて、色々考えているのだろう。
ゴレはとくに変わった様子もない。
斜め後ろを、ご機嫌で歩いている。
俺が後ろを振り返ったので、ゴレが顔を近づけてきた。
深紅の瞳が俺の姿を映し、何かを期待するようにきらきらと輝いている。
よく見ると、長い耳が小さく揺れている。
気づいたのだが、こいつは機嫌が良いときに耳がほんの微かに動く。
大抵は話しかけたときや、何かほめてやった時だ。
俺は再び前に向き直り歩き出した。
杞憂なのだろうか。
まぁ、ゴレがこの様子なら大丈夫なのかな。
相変わらず、周囲には赤い大地が続いている。
崖や岩などの起伏はあるので、まるっきりの平地とは言えない。
しかし、それらの自然物も、そこまでの高さがあるわけではない。
遠くの景色は瘴気の霞でぼやけているが、前方の視界自体は良好と言えた。
正面から強い西風が吹いて、俺は一瞬だけ目を閉じる。
そして、再び目を開いたとき、その異変は起こっていた。
――前方に、巨大な黒い岩山のような物体が出現している。
しかもこいつ、ゆっくりと動いている。
でかい。
本当にでかい。
いや、でかさが半端ではないのだ。
正直、でかすぎて正確な大きさがよくわからない。
10階建てのビルくらいのサイズは、優にある気がする。
それは、巨大な、竜だった。
岩盤のような鱗に覆われた皮膚。
四足歩行で、顔面と額から、巨大な5本の角を生やしている。
一見した印象は、暗黒のドラゴンの肉体に5本角の肉食超トリケラトプスだ。
その姿は、完全に、邪竜である。
俺達の存在にはまだ気づいていない……と思う。
悠然と俺達の前を横切ろうとしている。
何だ、これは。
ここまで接近に気付かなかったのか?
このでかい生物を?
こんな開けた場所で?
いや待て、ゴレの謎レーダーは……?
そのゴレが、俺をかばうように斜め前に飛び出した。
動きに焦りがある。
こいつも、今の今まで気づいていなかったのだ。
同時に、隣に立つスペリアのおっさんから、呻くような呟きが聞こえた。
「古代地竜……! そ、そんな馬鹿な……。ありえない……」
おっさんの顔色は悪い。
額から大量の汗を流しながら、目を見開き、何かぶつぶつと呟いている。
「これが土の瘴気を発生させていたのか……。だが、なぜこんなところに……。この短い年月で生息域を大幅に南下させてきたとでもいうのか? 絶対にありえないことだ……。だとすれば、これは……。そうか、それで闇ではなく土の……」
おっさんは今、明らかに動揺して、思考の渦に飲まれている。
インテリにありがちな症状だ。俺には分かる。
現実に引き戻さねば。
「スペリアさん!」
俺の呼びかけに、彼は身体をびくりと震わせ、はっとしたように振り返った。
「ネマキ君、急いでゴレタルゥを抑えるんだ! あの竜を絶対に刺激してはいけない!」
俺は言われるがままに、あわててゴレに飛びついた。
うお、こいつ腰細っそいな!
とはいえ、確かにゴレは竜めがけて飛びかかる寸前だったようだ。
おっさんの判断は正しかった。ギリギリセーフだ。
いや、むしろ抱きしめているゴレの全身から力が抜けて、ふんにゃりしてきてるんだが……これ逆に大丈夫か!?
3人で急ぎ岩陰に身を潜める。
まさか、スペリアのおっさんが自失するほど狼狽するとは。
とはいえ、俺も猿に鱗が生えているだけでびびっていた頃と比べて、えらい成長ぶりだ。
俺を精神的に打ちのめし続けた不思議猿どもには、ある意味感謝せねばなるまい。
いや、むしろこの古代地竜とやらがあまりに現実離れし過ぎているせいで、今は逆に冷静になっているだけのような気もする。この超弩級肉食トリケラドラゴンには、それくらい規格外の雰囲気があった。
岩陰で息を殺しながら、ちらりと竜の方を見る。
げっ! ゴレのやつ背負い籠あっちの地面に置きっぱなしじゃん。
あれ見つかったら、やばくないか?
いや、ゴレは悪くない。相棒の粗相は、全て飼い主である俺の責任だ。
俺のそんな自責の念をよそに、スペリアのおっさんが小声でささやいた。
「……いいかい。このまま何とかやりすごす。あの竜には絶対に勝てない。あれは理の外にある存在だ。古代竜は殺せない。それはたとえ、ゴレタルゥがどんなに強くとも、だ」
殺せない? 一体どういうことだ、スペリア助教授。
「マジですか、あいつ不死身なんですか……?」
おっさんはすこし考えたような素振りをしたが、すぐに首を振った。
「不死身とは言い切れない部分はあるが……。少なくとも過去に討伐された記録はない。あれら古代竜は、世界にたった4柱しか存在していないんだ。そして、滅んだ古い世界の頃から唯一生き続けている存在だと、そう言われている」
さらに、おっさんは続ける。
「あの古代竜は、土の瘴気に紛れてゴレタルゥの表土索敵をやすやすと突破しただろう? あれは半霊体だ。肉体はそこにあるが、しかし、それに意味はない」
そ、そんな急に哲学みたいなことを言わないでくれスペリア先生。
俺は出来の悪い生徒なのだ。
とはいえ、おしゃべりはここまでだ。
俺達は再び息を殺し、地竜の巨体が通り過ぎるのを待つ。
おい、こらゴレ! もぞもぞするな。おりこうにしてなさい。
俺はゴレを抱きしめる腕に力を込めた。
それから、かなりの時間が経過した。
俺、そろそろ腕が痺れてきたんだが……。
古代地竜のばかでかい存在感は、まだ、すぐそこにある。
この化け物、このあたりから離れるつもりがないのか?
まるで、徘徊しながら何かを探しているみたいだ。
とはいえ、あちらの事情などはどうでもいい。辛い我慢比べを強いられているこちら、というか、主に俺の限界が近いのだ。
おい、謎ドラゴンよ。さっさとどこかへ行ってくれないか。
疲れ切って、心の中でそう呟いたとき――
背筋に、ぞっとするような悪寒が走った。
俺の腰が、ふわりと浮いた。
ゴレが俺を抱きかかえ、もの凄い勢いで跳躍したのだ。
一瞬、強い風圧と衝撃を感じた。
目の前の景色が、地面から、いきなり青空になった。
視線を下げると、はるか下に広がる、赤茶けた地表。
そして、巨大な黒い地竜の背中。
ゴレに抱えられた俺は、上空30メートル以上の位置にいたのだ。
俺は先ほどまで自分が立っていた場所を見やり、そして、絶句した。
「な……っ!?」
大地が大きく抉れて、無くなっている。
まるで何か巨大な物体が通過したように、そこには、抉れた大地に一筋の深い溝が出来ていた。
真っ暗なその溝からは、茶色い土の瘴気が濛々と舞い上がっている。
「何が、どうなって……」
眼下の破壊された大地に向けて、俺は茫然と呟いた。
だがその直後、ある事実に気付き、全身から血の気が引いた。
スペリアのおっさんは、どうなった?
さっきまで、あの何もなくなった抉れた地面に、一緒に立っていたはず――
この瞬間まで、俺の緊張感が若干足りていなかったことは否めない。
正直、ここまで俺達コンビはほぼ無敵だった。
うちのゴレは最強だ。きっと何とかしてくれる。
盆地を出た直後に最初に戦った、やばい感じがしたラスボスみたいな黒い悪魔だって、ワンパンだった。
それに、万が一ゴレが妙な魔術でやられそうになっても、また俺が〈NTR〉で守ってやればいいと思っていた。
俺だって一応、肩書き上は“魔導王”だ。
おそらくは魔獣の親玉的な、魔王的なあれだ。
この馬鹿でかい竜だって、おそらく魔獣には違いないだろう。
頭のどこかで、そう思っていた。
だが、この“古代地竜”は、そんな次元の存在ではなかったのだ。
古代竜はこの世界に4柱しか存在しないと、スペリアのおっさんは言った。
“柱”ってのは、そう。……神様を数える単位だ。
俺は、召喚術者リュベウ・ザイレーンの遺言書の中で、過去に魔導王が何人も殺害されているという記述を、すでに読んで知っていた。
だが、先ほどスペリアのおっさんは、こう言っていた。過去に古代竜が討伐された記録はない、と。
この時点で、気付いておくべきだった。
――“古代竜”は“魔導王”よりも、分類上、格上だったのだ。
今、絶望的な死闘が幕を開けた。