第17話 偽りの本名
「いやはや……! まさか、こんな場所で私以外の人間に出会えるとはなぁ」
彼は大きく扉を開き、フレンドリーに話しかけてきた。
人の良さそうな丸眼鏡の男性。
右耳に、青緑色の大きな水晶の耳飾りをしている。
明らかに日本人の顔立ちではないが、とりあえずエルフというわけでもないようだ。普通の耳をしている。
穏やかな笑顔で俺を見ていた彼だったが、続いて俺の後ろに立つゴレに視線をやり、目を見開き、あんぐりと口を開けた。
息をのみ、しばし沈黙する。
しかし、すぐに咳払いをし、元の柔和な表情に戻った。
「まぁ、こんなところで立ち話もなんだね。さぁさぁ、中へどうぞ」
親切に家の中へと案内してくれようとした彼だったが、直後に何かに気づいたような顔をして、照れくさそうに笑った。
「とは言っても、私もここに今夜間借りしていただけで、家主ではないんだがね」
男性に連れられるまま、暖炉のある居間のような空間へとやって来た。
室内に妙な異世界の家具も無いせいで、本当に普通の簡素な木組みの家という感じだ。
「まさか土小鬼の変異体が、ここまで跋扈しているとはねぇ……。おかげで、ここに来るまでに、ごらんの有様だよ。私もそれなりに、腕に覚えはあるつもりだったんだが」
疲れたように呟く彼の衣服は、大きく破れていた。
よく見れば、丸眼鏡も一部が割れて、ひびが入っている。
というか、着衣に血が滲んでいる部分もある。だ、大丈夫なのか?
この様相と疲弊した顔色のせいで、くたびれた中年男性という印象を受けていたが、実際の年齢的には、もう少し若いのかもしれない。
ん? 土小鬼? 何だそれは。
俺はここまでの道中、猿しか見ていないのだが……。
とはいえ、このとき俺は、内心焦っていた。
俺も、俺も、早く、早く何か話さねば……。
ちなみに、俺は文字の読解同様、この世界の言葉を問題なく話せる事については、すでに気づいていた。なぜなら、ゴレに話しかけるときに俺の口から出てくる言葉は、常に見知らぬ言語だったからだ。
よって、この場合の問題は、俺の言語能力ではない。
この世界に来て初めて出会った、人の良さそうなインテリ風のおじさん。
俺にとって、最も話しやすいタイプの人種の一つではある。
しかし、白骨死体と出会ったときの心構えばかりが先に立ち、この世界の生きた人間と出会ったときの会話シミュレーションが、まったくできていなかった。
もはや、一人の完全なるコミュ障の姿が、そこにはあったのだ。
俺は、必死に言葉を絞り出した。
「なるほど、それはご災難な……」
おい、ご災難ってなんだそりゃ!? 第一声がそれか! 我ながらもう少しくらい気の利いた言い様があった気がするぞ!
早くも発言を後悔する俺だったが、こちらが会話の意思を表明したことに、目の前の男性は少なからぬ安心感をおぼえた様子だった。
眼鏡の男性の優しげな笑顔に、ひときわ明るさが増した。
俺がもしマダムなら、コロっと落ちているシーンだ。
「名乗るのが遅れてしまったね。私の名前は、セマウ・スペリア。帝立魔術学院で、一応、助教授をやってます。よろしくね」
知性を感じさせる、丸眼鏡。そして、一定の社会的地位にあるにもかかわらず、俺のようなコミュ障の若輩者に先んじて、親切に名乗りを上げてくれる、この気高い精神性。
このとき俺は、このスペリアと名乗るおっさんから、確かな文化人の匂いを感じた。
ならば俺も、異界の文化人のはしくれとして、礼をつくさねばならない。
「こちらこそ、名乗りが遅れて失礼しました。俺の名前は……」
そして、硬直した。
やばい。
名前がわからなかったんだ、俺。
俺の記憶の欠落の仕方の真のやばさは、実はここにある。
あえて意識しないと、記憶が欠落している事実自体にまったく気付かない。
俺は焦った。
今の俺には、偽名を考えるのに十分な知識すらない。
俺が知っているこの世界の名前の中で、男性名として確定しているのは“リュベウ・ザイレーン”のみだ。性別の判断理由は幾つもあるが、特に決定的なのは奴の服飾品だ。俺が今所持している服は、元々持っていた例のダサい寝間着以外はすべてザイレーンの物だが、こいつの服は明らかに男物で、俺が着てもサイズがほぼ合う。
しかし、著書で見た派手な経歴からすると、あの男は普通に有名人の可能性がある。というか、偽名とはいえ、あんなクソを名乗るのは俺のプライドが絶対に許さん。
だが、と言って、どうする。自分の名前もわからない。家族の名前もわかない。
自分の存在を規定する物すら存在していない。
焦りにこわばった指先が、手元の鞄に触れる。
もはや俺が持っている元の世界の名残自体、鞄の中の、このダサいパジャマくらいしか残ってはいないのだ。
こんな黄色い猫……いや、タヌキだったか? とにかく、意味不明な黄色い謎アニマルがプリントされた、救いようもないほどにくそダサい寝間着以外に、何ひとつ残されてないのか、この俺には。
俺のアイデンティティーとは、一体……。
悔し涙に拳を震わせる俺。
しかし、この瞬間、俺は頭を切り替えた。
切り替えの早さは、俺の美徳だ。
逆に考えよう。
そう、俺には何も残されていないわけではないのだ。
むしろ俺にはまだ、このダサい寝間着が残っているとも言えるのではないか。
こんな死ぬほどクソダサいパジャマを着ている奴など、おそらくそういるものではない。
俺だって人前でこんなものを着るのは御免だし、買ったのもほとんど気の迷いだ。
このダサい寝間着はもはや、一つの個性なのではないだろうか?
あえてはっきりと言おう。この時、俺は半ばやけくそになっていた。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「……――俺の名前は、ネマキ・ダサイです」
俺は、凛とした張りのある声で、背筋を伸ばし、そう答えた。
迷いなく澄みきった瞳で、まっすぐに相手を見据える。
堂々と、そして大胆に。
そう。いわゆる、虚勢である。
背中から、ゴレのひときわ熱い視線を感じる。
ああ、お前がこの俺のネーミングセンスの、熱心な信者なのは知っている。
「ネマキ君か。しかし、ダサイとは……。このあたりでは、聞かない家名だね」
何!? ネマキの方は普通にセーフだったのか!?
それにしても、この世界の名乗りは、個人名の後に家名が続く、という並び順なのだな。
実は、先ほど俺は日本語の感覚のままに、「ダサイ ネマキ」と名乗ったつもりだった。おおよそ「田斎 祢真紀」的な気分で。
しかし、口から出たこの世界の言葉は、勝手に順序がひっくり返ったのだ。
スペリアのおっさんは、何か考えるような様子で俺をしげしげと眺めた後、後ろのゴレの方をちらりと見てから、うなずいた。
「なるほど、君は東方から来たんだね。……そのような聖堂ゴーレムを連れていることといい、色々と深い事情があるのだろう。お察しするよ」
さ、察されてしまった……。
ここで彼に何を察したのか聞いてしまうのは、完全に藪蛇だろう。
もはや、話を合わせるしかない。
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その後の会話の内容から察するに、どうやら東の方では長い間小国同士の戦乱が続いているようだ。
そして、どうも俺は戦に負けて国を追われた、魔術師の家の人間だと思われている節がある。
俺も「そうそう、そうなんです」みたいな感じで、適当に話を合わせておいた。
不自然な事を言ってしまってないか、ちょっと心配ではある。
だが、スペリアのおっさんの方は特に不審がる様子もない。
そもそも、彼にとっては世話話をしているだけで、別に事情を詮索するつもりがないのかもしれないな。この辺り、やはり文化人という感じがする。
「それにしても何というか……すごいな。ネマキ君の、そのゴーレムは。私はゴーレムについては専門というわけじゃないけど、一見しただけで只者でないのは分かるよ」
彼は俺の出自よりは、むしろ連れているゴレの方に興味を引かれたようだ。
お、やっぱり? わかっちゃいますかね、違いが。
そうなんです、こいつが、俺の自慢のゴーレムです。
「ありがとうございます。自慢の相棒です。名前は、ゴレ太郎と言います」
自己紹介は本名で。これは基本だ。
スペリアのおっさんは、一瞬何かを深く考え込むような表情になった。
たしかに今の美女神エルフギリシャ彫刻な容姿とは、隔絶した本名だからな。
気持ちは分かる。
いや、しかし彼のこの様子は、変なネーミングに困惑しているという感じとも、微妙に違うような……。
一体何だろう?
男性の表情は、すでに、元の柔和なものへと戻っていた。
「“ゴレタルゥ”か。蛮妃と呼ばれる戦いの女神の名だね。実に良い名だ」
……!!!
違います! ゴレ太郎です!
とは言え、俺はすでに気づいていた。
「ゴレ太郎」は、この世界の人には、多分「ゴレタルゥ」と聞こえる。
おそらく、発音がこの世界での自然な形に調整されるせいで、人名などの固有名詞は、微妙に元の世界と発音が変わっているときがあるのだ。
要するに、「桃太郎」も「モモタルゥ」になる。
しかし、俺は一生けんめい考えたこの「ゴレ太郎」という名前に、誇りを持っていた。
極力語尾を意識し、はっきりと発音するよう心がける。
「ええ、うちの“ゴレ太郎”は勇ましくて頼りになるやつです。まさに戦いの女神。こいつがいなければ、とてもここまではたどり着けませんでした」
スペリアのおっさんは、納得したようにうなずく。お、伝わったか。
「土小鬼は、我々魔術師にとって、天敵みたいな魔獣だからね。ネマキ君は見たところ戦士という風でもないし、その“ゴレタルゥ”に何か秘密があるのだろうとは思っていたのだけど」
伝わってなかった……。
しかし、俺は、簡単には折れない男だ。
「俺の“ゴレ太郎”はまさに無敵です。無敵の女神です。負ける姿がまったく想像できないくらいですよ」
ほめるたびに、ゴレの身体がそわそわゆれながら、俺にどんどん密着する。
しかし、それどころではない。俺は今、プライドをかけた、真剣な戦いの真っ最中なのだ。
「はっはっは。豪気なことだ! しかし……ふむ、なるほどねぇ。ただの貴族趣味ではない聖堂ゴーレムの中には、非常に高性能の物があると聞く。“ゴレタルゥ”が、まさにそれというわけなんだね」
駄目か。まだゴレタルゥと言うのか。
いや、まだだ。俺の心は、まだ折れていない。
「いやぁ、もう本当に“ゴレ太郎”は強すぎて、俺なんてほとんど“ゴレ太郎”のヒモみたいなものですよ」
ゴレの、柔らかくて、なぜか熱を帯びはじめた身体が、俺の背中にどんどんしなだれかかってくる。
だが、そんなことは、今の俺にはどうもいい。
「謙遜することはない。使役するゴーレムの実力は、すなわちゴーレム使いの実力なのだらからね。“ゴレタルゥ”の性能が素晴らしいものなら、それは、それだけネマキ君が優秀だということの証左さ」
なぜだ、何故なんだ……。
俺のナイスなネーミングセンスを、この世界の人々と共有するのは、無理だというのか……。
「……ありがとうございます。褒めていただいて、ゴレ……タルゥ……も、喜んでいると思います……」
俺の心は、ついに折れた。
パチパチとはじける暖炉の火を囲み、スペリアのおっさんと夕食を共にした。
彼は流石旅人といった感じで、装備も携帯している食料も洗練されている。
原始人が作ったみたいな雑な背負い籠に、保存食をぼんぼん詰め込んでいるだけの俺とは、えらい違いである。
おっさんから、キャベツの酢漬けみたいなのを分けてもらった。
味は悪くない。
お礼にチーズを差し上げた。
彼は、良いチーズだとたいそう喜んでくれた。
ちなみに、スペリアのおっさんは、暖炉の薪に火魔術であっさり点火した。
一瞬だった。
ゴレの高速火おこしより、はるかに早い。
俺は土魔術を代表し、敗北に震えた。
しかし彼の方も、俺の隣でかいがいしく食事の世話を焼いてくれるゴレの様子に、目を見開いていた。
ひ、火魔術に勝ったぞ……!
これでおそらく試合の総合結果的には、互角だろう。
久しぶりに人と会話のある食事に舌鼓を打った。
スペリアのおっさんが持っていた果実酒を男二人でちびちびやりながら話を聞いたところによれば、彼はこの地に蔓延する土の瘴気の調査をするため、帝都から単身ここまでやって来たらしい。
しかし、予想以上の現場の状況に、これ以上の調査続行は無理と判断。明日には街の方に引き返すつもりだったようだ。
まじか。これは、ナイスタイミングというやつなのでは。
ついでに、俺も一緒に街まで連れて行ってもらえばいいのではないだろうか?
「あの、俺も同行させてもらえないでしょうか。何分、この辺りの土地には疎くて。持っている地図も、古い物しかないんです」
俺のこの申し出を、スペリアのおっさんは気楽な調子で請け負ってくれた。
「ああ、もちろんいいとも。ここまで無傷でたどり着ける凄腕が用心棒についてくれるなんて、こちらからお願いしたいところさ」
こうして、俺はこの気の良い人物に、街までの同道の約束を取り付けたのである。
にしてもなかなか美味いなこの果実酒は。一体何の果物だ。
気付くと、既に夜は随分と更けているようだ。
小さな明かり窓から見える屋外は、とっぷりと深い闇に覆われている。
「では、そろそろ寝るとしようか。……ここでは、日の出前には起きないと危険だからね」
スペリアのおっさんはおそらく、日昇と共に活動を始める猿の脅威のことを言っているのだと思う。たしかに、寝坊しているところをあの猿どもに襲われれば、ぶっちゃけ死ぬしかない。
しかし俺にはゴレの謎レーダーがあるから、まったく無警戒に毎日わりと遅くまで惰眠を貪っていた。
ちゃんと早起きできるだろうか。かなり不安がある。
おっさんは寝袋を用意して、部屋の隅で眠りはじめた。
俺もそのまま暖炉をはさんだ反対側の部屋の隅で、毛布にくるまった。
隣に座っていたゴレが、当然のように添い寝して俺を抱きしめようとしてくる。
「ありがとうゴレ。でも、ここは温かいから、必要ないよ」
そう、この部屋は、暖炉のおかげで十分温かいのだ。
ゴレは優しいから、床で寝ると俺が風邪をひくと思って、気を遣ってくれたのだろう。
しかし、大丈夫だよ。室内で寝るかぎり、昨日までのような添い寝の必要はない。
今宵の俺はもう、ナイト様の腕に抱きしめられないと眠れないような、惰弱な存在ではないのだ。
とはいえ、ぶっちゃけ、他人であるスペリアのおっさんが居る手前、赤ちゃんのように抱っこされて眠るという行為が、大人として恥ずかしかったというのは、正直あるのだが……。
しかし、俺のこの態度に、ゴレは数秒間、硬直した。
直後、凍てつくような殺気を、眠っているスペリアのおっさんの背中目がけて放出しはじめた。
まずい。
具体的に何がまずいのかは、よく分からない。
得体の知れない殺気を発しているとはいえ、心優しく親切で思いやりのある、俺の自慢のゴレが、他人に対して何か酷いことをするとも思えない。
昼間の聖堂でのゴーレム達との一件は、相棒の俺が変態と誤解させてしまうような行動をとったせいで、ゴレをストレスによる軽いパニック状態に追い込んでしまったことが原因だった。全て俺に責任があるのは明白だ。普段の優しいゴレなら、絶対あんなことにはならない。
しかし、なぜだろう? 俺がこのまま眠ってしまうと、夜の闇にまぎれて、何かとんでもない悲劇が起こってしまうような……。そんな予感がする。
しかし、どうしたらいいのか分からん。
それに今日は色々あったせいで、正直もう疲れていて眠かった。
俺は犬の首根っこをつかむように、がっしりとゴレの手首をつかんだ。
猛烈に膨れ上がりつつあったゴレの殺気が、徐々に弱まっていく。
安堵した俺はそのまま眠気にまかせて、意識を手放しはじめた。
俺がゴレの手首をにぎっていた手から力を抜いたせいで、ふたりの手が重なり合うような状態になった。
同時に、彼女の細い指が、なぜか急にするすると動き始め、俺の指にしっとりと絡みはじめるのを感じた。
こういう手の繋ぎ方を、たしか、何と呼ぶんだったか……。
俺はそんなことを考えながら、まどろみの中へと落ちていった。