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[第61話] どうなさいます?

 温泉はいい…と思いながら、湯桶ゆおけかぶるは絶景の夕陽ゆうひを前にして海沿いの露天風呂にかっていた。湯舟の前には置場石があり、その上には盆に乗った徳利の一合酒とツマミの小皿、さかずき、それに割り箸が置かれている。湯桶は時折り、めかけた徳利の酒を湯で温めながら、チビリチビリと杯で飲み、そして小皿のツマミを食らう。湯桶の眼前には潮騒しおさいと沈みゆく夕陽の絶景がある。この絶妙に配合された景観は、湯桶にとって何とも言えない最高の気分をかもし出していた。

 ほどよく酔いも回り、いい心地になった湯桶は、そろそろ上がるか…と思った。そのときである。

「どうなさいます?」

 急に背後で老婆の声がした。湯桶は、えっ? と後ろを振り返った。自分一人が浸かる露天の湯で人の声などする訳がない。だが、湯桶は人の声を確かに聞いたぞ…と思った。まあそれでも、そんな妙なことがある訳がない。あれば怪談である。ははは…それはない、それはないと思いながら湯桶は上がり、脱衣場まで歩いた。その後は何事もなく時が移ろい、美味うまい魚と料理に舌鼓したつづみをうった湯桶は、いい気分で横になることにした。

 夜半である。すっかり、いい気分で寝入っていた湯桶は、ふと潮騒の音で目覚めた。そのときだった。

「どうなさいます?」

 ふと、老婆の声がした。あの湯舟で聞いた声とまったく同じだった。湯桶は、ゾォ~~っとさむけをおぼえ、布団を頭までかぶると震えながら目をつむっていた。どうも、しなくていいっ! と思えた。その後は何事もなく、怖さを感じながらも、いつしか湯桶は微睡まどろんでいた。

 次の朝である。朝食も終わり、ほどよいところでチェックアウトすることにした湯桶は帳場のカウンターへ行くと勘定を済ませた。

「あの…昨日きのう

 湯桶がそこまで言ったそのときである。それをさえぎるように宿屋の主人が言い返した。

「ああ、お客さんも聞かれました? すみませんねぇ~、先代の女将おかみをやっとりました今年、95になる母親です。ボケでしてね、昔を想い出しては…」

 多くを語らず、宿屋の主人は口籠くちごもった。

「アレは、どういう意味なんですかね?」

「いやぁ~、ずっと食事前にお客さまの接待をしとりましたもんで…。たぶん、それが…」

「なるほど…そういうことでしたか」

 湯桶が得心して、荷物を取りにもどろうとしたそのときだった。背後で宿屋の主人の声がした。

「どうなさいます?」

「えっ? 何がですか?」

「お車は?」

「あっ! ああ…。呼んどいて下さい」

 湯桶は、親子だなぁ…と思った。


                    THE END

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