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[第57話] 錆(さび)を取る

 茂木桜もぎざくら万太郎は、ほぼ老人に近くなった中年後期のしがないせ男である。町役場を退職後、細々と年金で生計を維持していた。妻の里美も十分働かせた痩せ馬にえてむちをいれることなく好きにさせているから、茂木桜は助かっていた。びしい暮らしながら、金に不自由するほどのこともなく、妻との年金である程度は満足感を得ていた。

 茂木桜はこの日も朝から日課にしている盆栽の水やりを済ませ、さてと…と、まったりソファーに腰を下ろした。里美が温めてくれた暖かいミルクをフゥ~~フゥ~~と美味うまそうにすすっていると、キッチンから声が飛んできた。

「これ、さびついちゃってるの! いで下さらない?」

 茂木桜が視線を声がした方に向けると、妻の里美が前の洗い場で包丁をかざしていた。手のいた茂木桜は断る理由が見つからなかった。

「ああ…いいよ。そこに置いといてくれ」

 このひとことが彼の人生を狂わせた・・ということはなかったが、かなり茂木桜を手古摺てこずらせる結果となった。

 錆を取る・・この作業は簡単そうに見えてなかなか、ねちっこいコンニャク作業なのだ。コンニャクはスパッ! と切れそうで切れない柔らかさがあるが、それであった。今風に言えばファジー、文語風に表現すれば曖昧模糊あいまいもこなのだ。

 茂木桜が砥石で研ぎ始めて十数分したが、さっぱり錆はとれなかった。しばらく放置してあった包丁のようで、錆が深くなっていたのである。茂木桜は離婚して今は家にいる娘の沙代の顔が、ふと包丁にオーバーラップして浮かんだ。包丁は錆を修復できるうちに研がないと駄目にしてしまう。夫婦関係も修復可能なうちにわだかまった感情の錆を取らないと駄目になってしまう。沙代の場合は研ぎ忘れて駄目になったのだ。俺達も危うい危うい…と、茂木桜は力を入れて真剣に包丁を研ぎ始めた。


                    THE END

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