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[第45話] 馬鹿につける薬

 昔から、馬鹿につける薬はないという。薮崎やぶざきまなぶも、そんな男の一人だった。

 梅雨が明け、暑い夏が始まったこの日の朝も、いつものように藪崎は地下鉄に揺られていた。

「あっ! 私、降りますので…」

 年の頃なら17、8と見える可愛い女性が、ニッコリと微笑ほほえみながら目の前に立つ藪崎に言った。身なりからして、どうもこのあたりに勤めるOLぽかった。可愛い美人にそう言われれば、さすがに悪い気はしない。

「どうも…」

 軽く一礼をしながらポツリと言うと、藪崎はあやつり人形のようにその女性と入れ替わって座っていた。女性は藪崎に一瞥いちべつすることなく、そのまま出口へと向かった。普通なら、話はこれで終わりである。だが藪崎はお馬鹿である。座りながら、アレコレと思いを巡らした。ニッコリと微笑んだ…俺に声をかけてまで座席を譲ってくれた…これはもう、俺に好意があるからに違いない…と薮崎は思った。いや、お馬鹿な藪崎は独断と偏見で、そう断定した。

 次の日の朝、藪崎は同時刻の電車に乗り込み、車内を見回していた。しかし、そう上手うまく偶然が重なるはずがない。お目当ての可愛い女性は乗っていなかった。藪崎はお馬鹿である。次の日の朝も、そして次の次の日の朝も、藪崎は見回し続けた。だがやはり、お目当ての可愛い女性は乗っていなかった。そして、半年の月日が過ぎ去ろうとしていた。

 藪崎があきらめかけたある日の朝、歩いていた舗道で偶然、そのお目当ての女性を発見した。相手も歩いていて、対向から近づいてくるではないか。もちろん、向うは薮崎のことはすっかり忘れているようで、表情一つ変えなかった。近づいたその女性とれ違った瞬間、薮崎は意を決して声をかけようとした。そのとき、どこから現れたのか、運悪く一匹のあぶがブ~~ンと羽根音を立てて薮崎を威嚇いかくした。正確には自分の存在を主張して注意を喚起かんきしたのだが、お馬鹿な薮崎は手で虻を振り払った。これがいけなかった。蜂のひと刺しならぬ、虻のひとしである。片腕をチクリ! と刺され、薮崎はアタフタとした。

「大丈夫ですか? あの…これ、使って下さい」

 どういう因縁なのだろうか、その女性はポシェットから軟膏を出し、電車のときと同じようにニッコリと微笑んだ。

「どうも…」

 ポツンと軽く一礼をしながらそう言うと、藪崎はあやつり人形のように、その軟膏を受け取り、片腕に塗っていた。女性は藪崎から軟膏を受け取ると、何もなかったように立ち去った。藪崎はその後ろ姿を、ただ茫然ぼうぜんと見送っていた。馬鹿につける薬はあった。


                   THE END

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