第八話 キノコ森のおばあさん
目指すはモルバニア王宮と分かっているものの、どちらに向いて歩けばいいのか分からない。
野生の勘という名の限りなくあてずっぽうに近い感覚で森を歩いていた柚希は、突然近くの繁みをガサリと揺らす音がして、竦み上がった。
恐ろしい獣を想像しながら柚希は耳を集中させて辺りの気配を探る。
やがてガサガサと下生えをかき分ける音をかき消しドドドッと地響きのような音が近づいてきた。
この音には聞き覚えがあった。日曜の昼二時過ぎに警備事務所の休憩時間のテレビから聞こえてくる音だ。
十数頭の大型動物が一斉に駆ける蹄が立てる音。
耳を澄ませていた柚希の前に、突如音のしていた方向から大きなイノシシが茂みから飛び出してきた。背中に矢が何本も刺さり血が垂れ毛皮を濡らしている。
イノシシは柚希がいるのに構わず、突っ込んでくる。
細い木々は折れ、草は踏みつけられ荒々しい獣道ができている。まるで柚希も若木のように踏みつけ倒して行かんという勢いだ。
柚希はそれを真っ向から迎えた。柚希は片足を引き半身に構えた。刺さった矢と突き出した長い牙を掴んで体重を移動させると、それは空を舞った。
ゴォウンと激しい衝突音が森に響き、イノシシは目を回して動かなくなった。
「はぁ……なんだったの」
茫然とひっくり返っているイノシシを見ていた柚希の近くで、馬のような嘶きが聞こえた。
柚希の視線が自然にそちらへと移る。
「驚いたな、君がやったのか」
数人の男たちが馬のようなものに跨がり、少し離れた場所から柚希を囲んで見ていた。その先頭にいた青年が柚希に声をかけてきたが、柚希は馬を含めたその青年たちを見て唖然となった。
青年の青みがかった銀色の髪はサイドの長さが違うボブカット。短いほうのサイドからは金の耳飾りが見えた。青年の後ろや周りにいる人たちも、アニメの世界かと疑うほど鮮やかな色の髪色をしている。
青年たちが跨がっている馬のようなものは鬣がカールしていることを除けば長い顔といい、元の世界のものと似ていた。
青年はひらりと馬もどきから降りると、驚きの色を映していた瞳に今度は不機嫌そうな色を混ぜて柚希を見た。
「なんだ、言葉が話せないのか」
はっと柚希が我に返った。
「かば、もーれん」
「カヴァモーレン。今更だな」
ククッと青年が笑う。
「ラグーナを気絶させたのは君なのか?」
青年の青緑色の瞳がイノシシを見た。
このイノシシはラグーナと言うのか、と思いながら柚希は頷いた。
青年は腰に携えた剣を抜くと、ラグーナの首を斬り付けた。ブシュッと血が流れる。
「なんだ。怖いのか?」
青年に言われて、柚希は自分が真っ青な顔をしてラグーナを見つめていたことに気付いた。膝が震えている。
「ラグーナ狩りは我々にとって遊びのようなものだが必要以上の狩りはしないルールだ。そして狩ったものはその命に感謝して肉を頂いている。その意味が分からないわけではないだろう?」
柚希は頷いた。その考えは元の世界のものと似ている。魚も豚も牛も鶏も。植物からもその命を頂いて生かされている。その感謝の気持ちの《いただきます》なのだから。
ただ、頭では分かっていても目の前で命が消えて往くのを見るのは初めてだった。
「これは君が仕留めた獲物だ。少年、驚かせて悪かったな。……これからさらに身体を鍛え、勉学に励むといい。君のその体術はなかなかのものだ。都城のガレリオーン騎士団入団も夢ではないかも知れんぞ」
そう言うや青年は、ひらりと馬もどきに跨がり、集団を率いて森の中へ再び地響きとともに消えていった。
柚希の前には血を流して死んでいるラグーナが一頭残った。
「はぁ。どうすんの、これ」
柚希は茫然として横たわるラグーナを見た。
グウ、とお腹がなろうとも柚希には、これらの獣を捌く技術は持ち合わせていない。
やはりここは手足を縛って火で焙る丸焼き方式しかないのだろうかと柚希は思案した。
その時、別の方向から柚希に声を掛けてくる者があった。
柚希が振り向くと、それは70歳くらいの婆だった。腰は曲がっていないが髪は真っ白で肌は日に焼けていた。
この世界でも歳をとったら白髪になるのかと柚希は妙に納得した。
「あんた、どうしたね」
婆は身軽に木の根を避けて歩き近付いてくる。
「……ラグーナを貰ったんですが、どうしようかと」
ラグーナは流れた血で毛皮を濡らし死んでいる。
「どうしようって、捌いて食えばいいじゃないかね?」
至極当然のように言われて柚希は困ってしまった。
頭の中にはグツグツ煮えた味噌味のぼたん鍋が浮かぶ。そういえば、ぼたん鍋もサクラ肉も職場の社長に慰安会で食べさせてもらったのだ。
だが、あのときはすでに鍋になって運ばれて来たのだし、いくらなんでもここから一から作るのはハードルが高い。
「そうしたいのはやまやまなんですが、あの、実は捌いたことが無くて」
ここは正直に言ったものだろうと、柚希は素直に婆に言った。腹の虫がすかさず助っ人に入り、柚希は顔を赤らめた。
「あっはは! じゃあ、こうしよう。ラグーナの肉を私にも相伴させてくれるなら、獣の捌き方を教えてあげよう」
「! よろしくお願いします」
柚希はガバッと頭を下げた。
柚希はラグーナを引きずりながら、婆の後ろを付いて歩いた。
婆は時々、木の根の傍に自生する茸らしいものを摘んでいた。
森の側に婆の家があった。
家の外の水場の横で、柚希は婆に指導された通りにラグーナを解体していった。
大変な労力を要したが、なにより獣の形をしたものに最初のナイフを入れる時が一番勇気がいった。
「まあ、最初はこんなものだろうさ」
婆はぐったりとへたりこんだ柚希を満足そうに見ると、骨をザルに集めた。肉片の付いた骨はスープを取るらしい。
毛皮は肉片を綺麗に削ぎ、肉は食べる分をぶつ切りにすると、残りは香草の匂いのする塩に浸けていく。
「街の方へ行くと随分暮らしも違うだろうが、この辺は基本自給自足さ」
てきぱきと動く婆を柚希が見ていると、婆はカラリと笑って言った。
キノコと香草と芋、それにラグーナの肉が入ったシチューを食べながら、柚希は婆に聞いた。
「……私が誰かと聞かないんですか」
本来なら柚希から自己紹介するべきだろう。分かってはいるが、何も聞かず家に迎え入れる婆に柚希は、感謝を感じるとともに違和感を感じていた。
この世界の人は警戒心が薄いのだろうか。
ただ親切なだけなのだろうか。
婆はちらりと柚希を見ると、柔らかな笑みを浮かべていった。
「あんた、日本から来たんだろう?」
柚希は瞠目した。
一体どこで見破られたというのだろう。
婆は何でもないと言った風に続けた。
「ひとりでいるところを見ると移民かねぇ。異世界人だとばれたくないのなら仕草にも気を付けたほうがいいよ」
「どうして、分かったんですか」
その言葉は自ら異世界人であることを肯定するものだったが、柚希はそれを口にしていた。
「アタシも移民だからさ」
フフッと婆は笑ったが、穏やかな空気はその直後、婆の家の扉をノックするけたたましい音に一変させられた。
入ってきたのは二人の男。
一人は蒼い顔をしてぐったりと、もうひとりの男に身体を預けている。
仲間らしい男を担いだ男は、婆に助けを求めた。
婆は何やら処置を施し、寝台に寝かせた男の顔色が良くなると、二人の男に向かって仁王立ちして言った。
「いくら腹が減ろうと森の中の野草は見分けられる自信のあるものしか口にしちゃいけないよ」
男たちは感謝して婆の家を出ていった。
「なんというか……スゴいですね」
言葉の出ない柚希に婆は苦い薬草を噛んだような顔をして言った。
「そうでもないさ。アタシはね、どうしたものか子どもの頃から一目見ただけで毒のあるものが分かるんだよ。さっきみたいに助けてやったとたんに強盗に早変わりする輩もいてね、最初は面食らったもんさ。まあ、盗られるようなものはここにはないけどね。それでもアタシが森に目を光らせてるもんで、キノコの誤食は随分減ったんだが、最近はああいう輩が増えていてね」
婆はカップのお茶を一口飲むと、また口を開いた。
「前はそれほど種類のなかった毒性のある薬草が、このところ増えているんだよ。森にも街道端にも野原にもね。しかも、この世界にはもともとない種類の毒草さ」
あんた、何か知ってるかい? と婆に聞かれて柚希は咄嗟に首を横に振った。
確信のない嫌な考えが柚希の頭に浮かぶ。
「あの、あなたはどうしてここに来たのですか?」
柚希は婆に聞いてみた。それは婆が同じ日本人だと分かった時から頭にあった疑問だ。
「アタシかい? そりゃ、面白そうだからだよ。第二の人生を謳歌中なのさ」
婆が楽しそうに言うので柚希は安心した。少なくとも美桜のように連れて来られたわけじゃないらしい。
「アタシはこの森のキノコおばあさんなのさ」