第十九話 私を連れて逃げて(とは言っていない)
「ひっ!」
短く空気を吸う音がした。それが柚希が悲鳴にならない悲鳴をあげた音なのだと最上は気づいた。
柚希は全身に緊張をみなぎらせ、額に脂汗をにじませている。
「なんだ、柚希ちゃんはエリマキトカゲが苦手?」
柚希は視線をエリマキトカゲにロックしたまま、最上に返事する。
「大きいし、ゴツゴツしてるし、鱗っぽいし、目もギョロギョロしてるし」
「まあ、確かに。あれは大きいよね。さすが異世界」
人間とほぼ同じ大きさだが、案外可愛いんじゃないかと最上は思いながら柚希の視線をたどりエリマキトカゲ群に目をやる。
大きさだけでなく、カラーリングからして常識から大きく外れている。もっとも最上の常識は地球上のものであって、異世界のものではない。ここではあれが常識なのだと言われれば、納得せざるをえない。
「ガルーダってなんなのか聞いてみてよ」
「え、誰が」
「誰がって柚希ちゃんしかいないでしょ。俺はこっちの言葉はカタコトだし」
「誰に聞くの」
「誰でもいいけど、ガルーダ乗り場にいる人?」
決してエリマキトカゲには話しかけたくないと柚希は思った。そもそも会話ができるのかも分からない。
最上に背を押され少しずつ歩み寄るも、エリマキトカゲたちはそんな柚希たちには興味がないようで、ちらともこっちを見る様子はなかった。
そのときだった。
「お嬢さん、ガルーダに乗りたいの?」
優しげな声色で話しかけられたことに気づき、柚希は声の方を振り返った。
柚希よりも頭ひとつ背が高い若い男と目があった。蜂蜜色の明るい髪、空色の瞳。普通のガイジンに見える。この場合の普通は、元の日本がある世界で一般的という意味だ。
「見たところ旅行者…かな」
不躾にならない程度に柚希の服装に目をやると、なにやら納得したように頷く。ついで最上に視線をうつし、眉をひそめた。
「こんな可愛らしいお嬢さんにこんな格好をさせて……しかも女性に道を聞きに行かせるとは。お連れの方を悪く言うようで気がひけるけど、付き合う男は選んだ方がいい」
忠告といったふうに男は柚希に言った。これが本当に付き合っている男性とのことを言われたのなら、柚希はムッとしていただろう。しかし、最上とはなんでもないので、特に柚希の感情は怒りという方向には波立たない。むしろ女性扱いされたことに柚希は感情を高ぶらせていた。
見た目には女らしいところが少ないとはいえ、柚希に女性としてのアイデンティティーは多分にある。むしろ外見に表せられない分、内面は女の子らしくありたいと思っていた。それなのに、近頃、特にこの世界に来てからというもの、外見だけで男と判断され続けてきたのが随分と堪えていたらしい。
目の前の男が驚いた顔をするのと同時に、気色ばんだ最上が二人の間に割り込んできた。通じない日本語で男に詰め寄る。
『あんた、何を泣かしてるんだ。おい、柚希ちゃん。コイツになにかされたのか』
言葉が分からない男は柚希を庇うように前に立つ。
「君が望むなら私が君をこの野蛮な男から助けよう」
驚いた柚希は男を見上げた。
これまであまり経験のない男性を見上げるという仕草……そしてそこに頼もしくも優しげな笑顔。
知らない人だけど。どうしてこんな展開になったのか分からないけれど、柚希は不覚にもときめいた。
男はそんな柚希の表情の変化を、諾と受け取ったのだろう。突然柚希の手を引き、最上の視線から逃れるようにエリマキトカゲがたむろするなかへ走り込んだ。ふいをつかれた最上は柚希を見失ってしまう。
柚希は力強く手を引かれるままに人の間を縫うように走った。柔道をやめてからもランニングを毎日五キロ、続けていて良かったと思いながら。