第十八話 エルーガへ
「貸して貰ったのにごめんね」
柚希は泥だらけになったワンピースドレスを畳み膝に乗せたまま肩を落とした。服装はすでに男性向けだという旅装に戻っている。
エマはにっこりと笑って柚希の両手をとると言った。
「柚希のおかげで無事に帰れたんだもの。ありがとう」
「でも……」
しかしあのとき道を迷わなければエマを危険に巻き込まなかったかもしれない。そう思うと柚希は地面にめり込むほど落ち込んでいた。握られたエマの手から温かい体温を感じる。それはエマの心の温かさそのものだった。
「私なら大丈夫。悪い人たちは捕まったんだから。これでも私十八年ここで育ってきているのよ。こんなことユズキよりも慣れているわ。ユズキは元気を出してエモニアへと出発して」
「うん……ありがとう」
エマはクルリと振り向き、扉に寄りかかって立つ最上に言った。
「モーガミさん、ユズキをくれぐれもよろしくね。恋人なんだから放って行ったらダメよ」
「だから恋人じゃないって!」
柚希は今度も全力で否定したが、エマははたして理解してくれたのだろうか。最上はそんなやり取りを肯定も否定もせずにただ微笑んでいるばかりだ。
エマは再び柚希に向き合ったが、その表情は先ほどまでのそれとは違った。歯が痛むようなしかめ面。くるくると変わるエマの表情に柚希は行方を探している友人の姿を見た気がした。
「ユズキ……エモニアには歩いて行くつもり?」
「ええ、もちろん、そのつもりだったけど他に何かあるの?」
柚希にはこの世界の移動手段が分からないのだから、そうとしか答えられない。
「エモニアは遠いわ。でもそうね、エルーガまでは歩いて行くしかないんだけど……その先へはガルーダがあるわ」
「え、が、ガルーダ?」
「そう、エモニアまで乗っていける公共交通手段よ、エルーガ=エモニア間で走ってるの」
柚希の頭のなかに黒い鉄の塊のような蒸気機関車が浮かんだ。
「そう、花まつりの期間のエモニアはとても綺麗なのよ。あたしはこの店があるから行ったことはないんだけどね。帰りも必ずうちに寄ってね。そして都城の話を聴かせてくれる?」
柚希は親切な友人に力強く頷いた。
「もちろん」
「ナニナニ、この街道を真っ直ぐ行けばエモニアに着くの?」
地図に目を落としながら最上がぼやいた。
「最上さん地図が逆さまです」
「え! ホント?」
「仕方がないだろ? 君みたいにモルバニア語を習ってきていないんだから」
最上がふて腐れた子どものように言い訳をするので、柚希は可笑しくなった。
柚希は最上の持っている地図を覗き込みながら言った。
「この街道をまっすぐ行くとエルーガという街です。エルーガを経由して海沿いの街道を下るみたいですね。その間にいくつか小さい村や町があるかもしれませんが、セーイチさんが寄っていない場所は書かれていないらしいので」
「ふうん、あー、それにしても腹が減った」
「あれ? 朝ごはん食べてないんですか?」
「食べてなかったんですよ。一文無しなもんで」
慇懃といったしぐさで返した最上の言葉に、柚希は彼が無一文だということを思い出した。騒動があったのですっかり忘れていた。
うん、お金大事。干し肉が思ったより高く売れて良かった。
そういわれればもう昼か。太陽が高いのを見て、この世界の太陽もひとつなのだと気付いた。
柚希は自分の腹具合とも相談してリュックサックから干し肉とパンを取り出した。このパンは出発の前にエマから貰ったものだ。酒場で出しているパンが焼けたところだと持たせてくれた。皮が厚くてパリパリしていて塩気があっておいしい。
「私もお昼にします。サンドイッチでよければ食べますか?」
「ありがとう、ご相伴に預るよ」
最上は気取って答えた。
街道から外れて草原の大きな石に腰をかけると、柚希は持っていたナイフでパンをスライスした。厚さを均等に出来ないのはご愛敬だと許してもらおう。その上にラグーナの肉を削ぎ落とせば簡易のサンドイッチの出来上がり。
草原をウロウロしていた最上は、なにやら野草を一掴み採ってきていた。
「これも挟めれれば旨いと思うんだけど。洗うところがないかな」
「何ですかそれ?」
柚希が少し眉間にシワを寄せてそれを見た。最上はそれを鼻に近づけたり揉んだりして匂いを確かめている。
「ルッコラ……かな。見た目も匂いも同じ」
「水筒になら少し水がありますけど」
ルッコラなんてハイカラなものを柚希は食べたことがなかった。この世界の状況をみれば、見知らぬ草はあまり食べたくない。
「んじゃそれを少し拝借」
最上は水筒の水でそれを手早く洗うと、自分と柚希のパンにそれを挟んだ。
リリアも食事をするのか、花から花へと飛び回りはじめる。
「あまり遠くへ行かないでね」
柚希が声をかけるとリリアは小さな手を柚希に向かって振った。
「柚希ちゃん昨日から誰と話してるの? 今の僕にじゃないよね」
最上の不思議そうな表情に柚希は曖昧に笑ってルッコラが挟まれたサンドイッチにかぶり付いた。
ルッコラもどきは、ピリッと芥子のような刺激があるものの柚希が内心、怖れていた食中毒にはならなかった。
モルバニア城はエモニアの都を裾野に広げるようにして建っていた。その王城の磨かれた石の床を長靴の出す音を響かせながら歩く男がいた。黒い軍服様のかっちりとした服に身を包んでいるその男は、冷たい瞳で前方を見据えながらひたすら長い廊下を歩く。
そして男が入ったのは豪奢な内装の一室だった。黒いお仕着せのメイドに迎えられ、男と同じ軍服の同僚と目混ぜすると、幾重にも重ねられた薄紅の紗のカーテンの手前で膝を折った。武器を持つ右手を左胸に当てることで敵意がないことを示すこの国では最敬礼の姿勢をして陛下の声を待った。
「イディ、待っていましたよ。遠征ご苦労でした」
空気が動いた。カーテンの向こうには女王のベッドがある。
若くして国軍司令室室長となったイディは、モルバニアにいくつかある武門の家系の出であるが、その異例の出世には裏があった。
モルバニア王国では王位継承者が国軍を指揮する習わしになっていた。マニラ女王のひとり息子であるジョアン殿下も現在その任に就いているのだが、ジョアン殿下は何かと軍を動かしたがる男であった。女王がせっかく和平を結ぼうと画策している国に対して浅慮に戦を吹っ掛けんとする。
女王が玉座に座れない状態になってからはそれが顕著になりつつあり、なにやら国内外の動きがきな臭くなってきた。そこで女王は自らの手足になりうる人間を新たに集め、ジョアン殿下を監視させた。いくらジョアン殿下が出兵させようとしてもイディが判をつかなければジョアン殿下は容易に兵糧ひとつ自由に動かせなくなってしまったのだ。
さすればジョアン殿下もおとなしくなるだろうと思われたが、またなにやら画策している動きがあった。いわばイディはジョアン殿下対策本部長という立場であって、国政とは別で動いていた。
こんな面倒くさいことをせずとも捕らえて幽閉してしまえばいいものを、とイディは思ったが、女王もやはり我が子は可愛いと見えてお目付け役をつけるに留まっている。
イディは掛けられた言葉に深く頭を垂れた。
病に倒れ枕から頭を離せなくなった今でも女王の声色には威厳と張りがあった。
「もったいないお言葉。恐悦至極にございます」
「例の件の報告を」
「はい、街道沿いは陛下の憂慮されていた通りでした」
もともとこの世界にない植物が街道沿いを中心に繁殖している。
調査したところ、今月に入ってから食中毒による体調不良、死亡者は合わせて三桁に上っていた。それ以外にもエルーガの海辺街でよからぬ動きがあることも掴んだ。
「毒草は火妖精の力を借りて焼いてしまいましょうか」
「……他の動植物への影響もあるわ。一概に焼いてしまえばよいというものでもないのよ。ひとまずは誤食を防ぐために情報を国民へ」
「かしこまりました」
報告しながらイディは、国境近くの森で会った少年を思い出していた。ラグーナを体術ひとつで仕留めた少年はイディにとって奇異の存在だった。
柚希と最上がエルーガに着いたのは、三日後の朝だった。
途中野宿を余儀なくされた二人は、火を焚き交代で休んだがもっぱら最上が火の番をしていたといってもよかった。柚希はそれを申し訳なく思い、寝ずの番の交代を強く申し出たが、最上に「次の街に着いたらうまいものを奢ってくれればいいから」と軽くかわされてしまった。
こうして二人は潮の香りのするエルーガへと足を踏み入れた。
エルーガの街は海岸線に沿ってすり鉢状に街が形成されており、全体に白っぽく見えた。それは、この街の建物の外壁がすべて白に塗られているからだった。
「こういう街、イタリアかどこかにあったな」
最上は言ったが、海外旅行に縁のない柚希はピンとこない。
それよりむしろ活気に溢れたこの街が中世ヨーロピアンを模したなんとか村といったレジャー施設に見えて仕方がなかった。
「とりあえずガルーダとかいうのが何なのか、ちょっと見てみよう」
歩き出した最上の後に柚希が続き、まもなくガルーダ乗り場と書かれた広場を見つけた。街の大きな道沿いにあるそれは、たいした苦労もなく見つけることができた。
だがしかし、人に交じり立ち上がっている生き物を見つけ、柚希は大声をあげそうになった。
ガルーダ乗り場となっているはずの広場には大きな蛍光イエローのエリマキトカゲがたむろしていたのだった。




