第一話 失踪した友人
駅前留学MOVA。
何かのパチモンみたいな語学教室が秋前にオープンしていたことに柚希は気付いていた。
ピンク色のライオンに口が黄色い嘴。どこまでいってもかつて倒産した某語学教室を思い出す。
往来もそこそこある駅前の歩道に立ち往生して、早小一時間は経つ。行き交う人々はそんな彼女に一瞬の視線を送り通り過ぎていった。
「いつまでもこんなところでこうしていられない。ーー美桜……」
柚希は友人の名前を呼び、そして意を決したように語学教室のガラス扉を押し開けた。
昼は寝て夜は働く生活をしていた柚希は、見た目あまり女の子らしいところがなかった。幼稚園の頃から始めた柔道は、彼女にたくましい身体と不屈の精神を与えてくれた。
だが、高校はスポーツ推薦で入ったものの芳しい結果は残せず、もともと偏差値の高い学校であったうえ、柔道ばかりに力を注いでいたので授業に付いていけず、進学は諦めざるを得なかった。そして高卒で今の警備会社に就職したのだ。職場のおじさん達は、それでも若い女の子である柚希を可愛がってくれた。
そんな柚希が夜勤明けの疲れを癒すように眠り込んでいた時に、柚希の携帯が鳴った。
時計を確認してアラームではないことを確かめた柚希は、着信であることに気付いて電話をとった。
「美桜? ひさしぶり~」
片岡美桜は、柚希の柔道仲間ではない数少ない友人のひとりで、しかもかなりの才媛だ。
彼女は薬学部に通う大学生となった。
連絡してくるのは半年振りだった。
お互い新しい環境に慣れるのが忙しかったのだと理解している。彼女が自分を忘れないでいてくれた事に柚希は喜びを覚えた。
「急に電話してごめんね。今、大丈夫? 何してた?」
「ん~? 寝てた」
「えっ! ごめんね」
「いいよ~、どうせもうすぐ起きなきゃいけなかったし」
支度に一時間はかかるだろう美桜と比べて、自分の支度は男子なみの15分で終わるのだから、あと45分は寝れたけれど。と、柚希は腹を掻きながら心の中で呟いた。
「で、どうしたの?」
「あのね、あのね!」
単に話を聞いて欲しかったのだろう。他愛もない会話が始まる。大学の話、バイト先の話、そして最近始めたという語学教室の話。
「なんでまた。美桜、英語得意だったでしょ?」
「受験英語と会話とは別なの」
駅前に最近できたという駅前留学を謳っているMOVA。そこの講師がカッコいいだの、なんだのと話は続く。
しまいには柚希をその語学教室に一緒に通わないかと誘ってきた。
「嫌だよ。英語なんて超がつく苦手だし。夜のビルの警備に英語は必要ない」
「そんなことないよ~。それにMOVAだけがやってるモルバニア語を修得すると就職支援があるんだって!」
「はあ? モルバニア語ぉ? どこよそれ」
地理が苦手な柚希にはモルバニア語を使う国がどこにあるのか分からない。ニュースでも聞かないその国は最近独立したどこかの小国だろうか。
「そのモルバニア語の講師がまたカッコよくてぇ~、英語だけでいいのにそっちも受講しちゃってるの私。で、友達を紹介したら受講料が5%割引されるんだよね~」
遠慮がちに告げられた美桜の本音が、柚希には甘酸っぱい。思わず口許を緩めながらも……。
「友達を売ろうとしてるな~?」
「やだなぁ~、美桜にも紹介したいんだ」
「ん?」
「イケメン揃いだし~、あのね、なんかさ、実は……そのモルバニア語講師のジョアンなんだけど……もしかしたら私に気があるのかも……なんてね!」
「へえ。それなら勧誘しなくても紹介してくれればいいじゃない」
「そうなんだけど、ね」
ふいに重くなる美桜の口調。のろけたかっただけではないのか。その時の柚希は深く考えなかった。
「とにかく、昼間は私寝てたいし。今さら英語を勉強する気はないんだ。ごめんね」
「あ、うん。ごめんね」
「またね~」
また連絡があるものと気にもとめず電話を切った。
このあと美桜が行方不明になると知っていたら。
本当に美桜が話したかった事に付き合って聞いてあげれば良かったと後悔が募る。
とある晩秋の夕方。柚希が仕事に出掛けようとしていた矢先に突如柚希の家を訪れた男たちによって美桜が行方不明だと知らされた。
その男たちは、麻薬Gメンと呼ばれる麻薬取締捜査官だった。