社会の進歩があると仮定して
職場の飲み会での事。
ウーロン茶を初めから頼んだ新入社員の女の子に対して、オクムラ先輩が注意をし始めた。いや、注意なんて行儀の良いものじゃない。それは半ば言いがかりに近い。「皆が同じに酒を頼んでいる中で、ウーロン茶なんて頼まれたら興醒めするからやめろ」。そう、そのオクムラ先輩は言っていたのだ。こういうのは旧時代の悪習だと思われがちだけど、今でもある所にはあるもんなんだ。
“やめろ”
その時、僕は自身に向けてそう言った。ある衝動が持ち上がってきたからだ。僕には昔から悪い癖がある。いつもはむしろ地味にしているのを好んでいて、目立つ行動なんて執らないのだけど、どうにも、こういうような集団心理の幻影というか、意味の分からない“正しさ”に遭遇すると、それを否定してしまいたくなるんだ。
しばらく僕はそれに耐えていたのだけど、オクムラ先輩が新入社員への説教をなかなか止めないものだから、ついには耐え切れなくなり、気が付いた時には、
「別に良いじゃないですか、それくらい」
と、そう言っていた。
ああ、やっちゃった…
心の中でそう思う。なんでこう面倒を起こすような事をしちゃうかな自分は。
そう発言した途端に、そこにいた全員の視線が僕に集中した。僕はその視線に怯む。普段は大人しいだけに、皆はそれを意外に思ったらしく、その視線には多少の驚きが含まれてあった。
「ほぅ」
と、オクムラ先輩は言う。
「おい、ノト。“別に良い”だと?」
それから先輩は、明らかに不機嫌な目つきになって僕を見据える(ノトは僕の名前だ)。僕はそれに怯えた。その僕の発言で、先輩の標的はどうやら僕になったようだった。先輩は僕に向けて説教をし始める。
「お前は何も分かっていない。こういう飲み会の場だって、大切な仕事の一部なんだ。皆の団結力を養う為の重要な……」
その先輩の説教を聴く内に、僕はなんだか腹が立ってきた。
インチキだ。
そう思う。
その論拠を裏付けるデータは、一体どこにあるというのだろう? もしも、業績の良い会社の飲み会の記録を集めて、皆の団結の為に全員が酒を頼んでいたら、それは確かにそういう効果もあると認めるしかない。でも、そんなデータはありはしない。それどころか、その強権高圧的な発想は、今、この場の皆のモチベーションを下げているように思える。皆の顔を見てみろ。お願いだから、止めてくれって書いてあるぞ。
「でも、飲み会は、リラックスの為の場でもある訳でしょう?」
そして。
怯えていたはずの僕は、気付くとそう言っていた。怒りの方が勝ってしまった訳だ。僕は“妄信”そのものが大嫌いなんだ。
ああ、また馬鹿を…
そう心の中では思っていたけれど、口は止まらなかった。
「ウーロン茶を頼むくらいで怒られて、気を遣わなくちゃいけない飲み会と、そんなのを気にしなくて良い、気楽な飲み会。どちらの方がその効果があると思いますか? 少なくとも僕は後者だと思います。それに寛容さは、皆の集団に属していたいという気持ちを満足させるのじゃないでしょうか? チームの団結力はそちらの方が向上するかもしれません」
それに。
例え、飲み会で酒を飲むのを強要するチームが仕事の上で優秀なのだとしたって、それで個人が苦しまなくちゃいけないのなら、僕は断固歯向かってやる。そんな“文化”に、一体、どんな意味があるって言うんだ?
その時僕はそう思っていた。もちろん、興奮していたからこそ、そんな過激な事を考えていたのだろうけど。
「なんだと、ノト!」
それから、オクムラ先輩はそう叫んだ。元々、この先輩はそんなに口は巧い方じゃないから、きっと反論が思い浮かばなかったのだろう。当然ながら、その表情には明らかに怒りの色があった。僕は殴られる覚悟をした。が、
「まぁ、そう熱くなるな、オクムラ。店の中だぞ」
そこで肩に手を置きつつそう言い、イイノ先輩がそれを制したのだった。オクムラ先輩は、それに虚を突かれたような表情を見せた。オクムラ先輩は、怒りを爆発させるタイミングがそれで掴めなくなってしまったようで、それから目を泳がせて黙り込む。周囲の人間の(店内の他の客も含めての)、自分を見つめる視線に気が付いたのかもしれない。こんな所で騒ぎでも起こせば、小さな事件でも会社に傷がつく。それくらは分かっているのだろう。
それからイイノ先輩は僕に視線を向けた。
「それからな、ノト。お前にはお前の言い分があるだろうが、先輩を立てるぐらいの事はしておけ。
こっちは、先輩ってだけで、後輩に威厳を示さなくちゃいけないんだ。それはそれで辛いもんなんだぞ。上に立たなくちゃいけない人間の気持ちも慮ってくれ」
それからそう言う。驚いた事に、その発言に少しの笑いが起こった。それで多少は場の雰囲気が和やかになる。
「オクムラに謝るんだ」
イイノ先輩はそれからそう言った。僕はその言葉に素直に従う。それが頭の良い選択だったってのもあるけど、何より怒りが醒めて、急速にチキンな自分を取り戻してしまった事が大きい。オクムラ先輩は、僕が謝ると大仰にも握手を要求してきた。しっかりと強く握ってくる。何処まで本気なのか分からないけど、少なくとも今はもう大きな問題にはならないように思えた。
飲み会は、それから無事に進んだ。初めのハプニング以外は変わった事は何も起こらなかった。ただ、終わった後に、ちょっとした出来事が二つほど。
一つは、オクムラ先輩に怒られていた新入社員の女の子が僕にお礼と謝罪をしてきたこと。僕としては、ただ自分の怒りが抑えられなかっただけだから、別に気にしていなかったのだけど(特に謝罪は余計な気がする)、その子にとっては一大事だったようだ。もう一つは、イイノ先輩から帰り道に、話しかけられた事。しかも、一緒に駅までの道を歩きながら、少し会話をした。
「ノト。今日は、グッジョブだったな。お陰で、助かったよ」
僕はそう言われて、少し困惑した。あの、オクムラ先輩とのハプニングを言っているのだとは分かったけど、それがどうしてグッジョブなのか分からなかったからだ。
「いえ、僕の方こそ助けてもらって」
そう返すと、イイノ先輩はカラカラと笑った。
「いやいや。あそこで、誰かがオクムラを止めなかったら、確実に新入社員の士気は下がっていたさ。下手すりゃ、何人かは辞めかねない。しかもそれで、時代遅れの発想をする企業だってネットに書き込まれたりするだろう。会社の悪評になる。
うちは弱小企業だから、死活問題だよ。ああいうのは」
そう言い終ると、少しの間の後にイイノ先輩はこう続けた。
「それに……」
また、少しの間。
それに?
「あれのお陰でオレの株が上がった。もちろん、お前の株もな」
僕はそれを聞いて、少し困った。
「上がりましたかね?僕の株」
自分では上げるつもりなんて全くなかったし上がるとも思っていなかったのだけど、飲み会が終わった後に、新人の女の子から言われた礼を思い出して、少しは上がったのかもしれないとそう思った。
「当たり前だよ。オクムラには悪いが、あいつはいい悪役になってくれた。しかし、まさかお前があんな事を言うなんて、オレは少し驚いたぞ。あいつは権力志向だからな、敵に回すと厄介だし」
僕はそれに苦笑しながら応えた。
「そうらしいですね。でも、僕はどうも、権力とかそういうのは苦手でよく分からないんですよ」
僕は権力とか人間関係のどーのこーのには、自分でも驚くほど興味がない。そう僕が言うのを聞くと、イイノ先輩は今日一番の笑顔を見せた。そして、「バンッ」と僕の背中を思い切り叩くと、
「ハハハ。いいな、お前。見込んだ通りの人材だ!」
と、そう言ったのだった。僕には何の事だか訳が分からない。そしてそれから、イイノ先輩はある一冊の本を僕に手渡してきた。
「これを読んどけ。急ぎじゃないが、一週間以内に頼む」
手渡した後でそう言った。それは“傷はぜったい消毒するな”というタイトルの新書だった。
「それから、オクムラの事をあまり悪く思わないでくれ。アイツは体育会系で、その世界に染まってしまっただけなんだよ。その文化が悪いんだ」
そして、去り際にそう言った。
そう言われてふと僕は気が付いた。何故か、僕にオクムラ先輩を憎いと思う気持ちが全くない事に。
どうしてなのだろう?
疑問に思ってしまったら、考えない訳にはいかなかった。
もしかしたら僕は、イイノ先輩と同じ様に文化が悪いと思っているのかもしれない。個人は悪くない。そういう風に個人を染めた文化が悪い。いや、僕は案外単純なところがあるから、最後に握手をされて悪意が吹き飛んだだけかもしれない。
そこで更に僕は気が付いた。
これは“文化相対主義”に反する考え方だ、と。いつの間にかにそこに至っていたものだから、少し驚いてしまった。
文化相対主義というのは、文化には優劣がないという思考だ。文化は、相対的に価値が決定される。それぞれの文化にはそれぞれの価値観があり、それらのどれもが認められるべきもの。西洋文化には西洋文化の価値観があり、東洋には東洋文化の価値観が。当然、どの文化を基準にするかで、“正しさ”も変わってくる。
今回の場合にこれを適応させるのなら、オクムラ先輩の体育会系文化の価値観も、それはそれで正しいとしなくてはいけない訳だ。もっともそれは、その場にいる全員が、同じ価値観を共有していなければいけないのだけど。異なった価値観を持つ人間に、自分の価値観を強要した時点で、文化相対主義の観点からも非難されるべきものになる。
ただ僕は、それを踏まえて、もし仮に同じ価値観を共有していたとしても、それでも、オクムラ先輩の考え方は否定されるべきだと思っているのだけど。
理由は簡単だ。その価値観の“正しさ”を採用すると、人が不幸になるからだ。
酒が苦手な人というのはいる。そういった人間に無理に“いっき飲み”をやらせて急性アルコール中毒にしてしまうような事件が頻発するような事があった。これは、明らかに間違った考え方、文化だ。
もちろん、文化相対主義の考え方は基本的には有用なものだと思う。社会に広く普及させるべきものだ。しかしそれには自ずから限界があるんだ。文化相対主義だけでは、どうにもならない問題が。
その一番、分かり易い典型例は“名誉の殺人”じゃないかと思う。
“名誉の殺人”とは、女性が行った結婚前の性交渉などを、家族の恥とし、その女性を殺害してしまう“風習”の事を言う。イスラム教圏内の文化で多く行われているが、実際にはイスラム教とは関係がなく、似たような風習は世界中にあるらしい(例え“名誉の殺人”でなくても、問題のある風習は世界中に存在する、とも付け加えておこう)。
この“名誉の殺人”も、文化の一つではある。だけど、考えるまでもなく認められるべきものではない。つまり、文化相対主義の適応範囲外だ。
これは僕の考えなのだけど、文化の是非を問う場合には、その外から判断を行うしかないのじゃないかと思う。
“外から”と言っても、何も他の文化から判断を行う、と言っているのじゃない。もっと大きな範囲、例えば“人間”という生物を考えた上での“仕合せ”を、基準にしてその文化の是非を問うんだ。
生物としての“人間”の性質を考え、それが好ましくないものであるのなら、文化相対主義の適応範囲外と判断し、否定する。
この考えを先の“名誉の殺人”に適応させるのであれば、結婚前の性交渉程度でその女性を“殺害する”あるいは“肉体的懲罰を加える”のは、明らかに生物学的観点からの人間にとって好ましくない。だから否定されるべきものだと判断できる。
つまり、文化の外に、もっと大きな判断基準を生物学的観点から作り上げるんだ(それだって、一つの文化に過ぎない、という議論はもちろんあるだろうけど、ここではそこまでを考えるのは止めようと思う。長くなり過ぎるし、筋も混乱する)。そして、機能的に文化を分析し、その是非を決める。
もちろん、これを公平に行うのは大変に難しい作業だろうから、できるだけ明確に分かる判断基準を設けなくてはいけない(“名誉の殺人”くらい分かり易ければ、判断も容易なのだけど……)し、明確に判断ができない場合は、判断を下してはいけないだろう。
実はこの考えは、そのまま科学にも当て嵌める事ができる。科学というのも、ある信念を共有した一つの文化である事は古くから指摘されているんだ。そして、科学という文化はその外に“情報”という判断基準を設定する事で、発展をし続けてきた。
実験や調査によって新たな正しい情報が得られれば、その情報を基に今までの考え方が否定されて、進歩していく。科学はだからこそ発展し続ける事が可能だった、いや、そもそもこの情報の重視……、帰納的思考というのだけど、帰納的思考が積極的に利用されなければ、科学は誕生しなかったとすら言われている(と言っても、これは飽くまで理想論であって、実際は色々と難しい問題がそこら中に転がっているのだけど)から、この“自分の考えを否定する”システムがなければ、それは科学でないとすら言える(反証主義という考え方にも、これは関わってくる)。
進歩するシステムを手に入れたからこそ、その学問は“科学”として確立され、発展してきたと表現する事が可能かもしれない。
……さて。
どうして僕がこんな事を長々と書いてきたかというと、それにはちゃんと理由がある。イイノ先輩が僕に読めと渡してきた“傷はぜったい消毒するな”という本の内容が、これに関係して来るからだ。
この本は、夏井睦という医者の手によって書かれていて、皮膚の構成と仕組みを簡単に分かり易く説明した上で、傷の効果的な治療方法やスキンケアについて臨床的な体験をまじえて述べてあるものだ。こう聞くと、どうして文化の進歩の話と関係があるのか分からないかもしれないけど、実はこれが大有りなんだ。何故なら、この人は今までの医学の“傷の治療に関わる文化”を否定しているからだ。
“傷の治療”に関して、医学会には間違った常識が定着しているというのだ。そしてその常識を頑なに護っている。その点を、この人はかなり厳しく非難していた。
僕はこの本を読み進める内に、どうしてイイノ先輩が僕にこの本を読めと言って来たのか分かった気になった。“文化”を進歩させるには、今までの“文化”を否定する必要が出てくる。そして、もしかしたら僕らのいる業界は、今それを迫られているのかもしれないんだ。しかも、他ならぬ、この本の著者の手によって。
何故なら、僕の今勤めている会社は、“肌に関わる全てを扱う”という、肌の専門会社だからだ。医薬品から、石鹸、シャンプー、化粧品類。それらの企画・製造から販売までを手がけていて、直営店も2、3店舗持っている。僕は企画部門に在籍していて、主にバンソウコウや湿布なんかを担当している。
イイノ先輩に、僕が本を読み終えた事を伝えると、先輩は早速感想を求めてきた。仕事帰りに軽食に誘われて、そこで尋ねられたんだ。
「どう思う?」
「良書だと思います」
僕は素直にそう答えた。イイノ先輩の意図が何であれ、僕は自分の思ったままに答えようとそう決めていたからだ。イイノ先輩に気に入られる返答をしようだとか、そういう考えは恐らく今回は邪魔になる。多分、先輩は僕をそういう人間だと思って、本を読ませたのだろうし。
「“傷は消毒も乾燥もさせてはいけない”
湿潤治療の発想は衝撃でしたね。説得力もあるし、臨床的にも充分に実績があると判断して申し分ないでしょう」
それを聞くとイイノ先輩は、面白そうに笑った。
「ふーん。よく直ぐに受け入れられたな」
と、続けてそう言う。僕はそれに少し照れながらこう応えた。
「実は、自分でも思い当たる節がありましてね。どうしてこんな職業に就いたのに気が付いてこなかったのかと、少し恥ずかしいのですけども。
学生時代の頃の話なんですが、突然に肌が荒れ始めたんですよ。首辺りの皮が剥け始めて、しかもとても痒い。どうしようかと思ったのですが、その時にワセリンを塗ってみろと薦められまして。
でも、ワセリンって、ただ皮膚に無害なだけで他に効果はないはずでしょう? 僕は意味ないのじゃないかと思っていたのですが、試しに塗ってみると、これがテキメンに効いてしまったんです。
狐につままれたような思いで、どうしてなのだろう?と不思議に思っていたのですが、この本で疑問が解消しました。この本にも書いてある通り、ワセリンは乾燥を防ぐ事ができます。それで、湿潤治療と同じ効果で治っていたのですね」
イイノ先輩はそれを聞くと軽く頷いた。
「まぁ、臨床で既にかなりの数が実践されている以上、もし間違っていたら、患者から訴えられてこんな本は出ていないだろうしな。
恐らく、湿潤治療は正しいのだろう」
「はい。それに、原理もシンプルで納得ができます。傷を治療するのには、人体の細胞を保護してやらなくちゃいけない。その為には、細胞を殺す“消毒”も必要最低限の水洗いでとどめ、同じ様に細胞を殺す乾燥も防がなくちゃいけない。後は、人体に本来備わっている治癒能力に任せておけば、それだけで傷は治っていく。
乾燥を防ぐことによる湿疹などには充分に気を付けなくちゃいけませんが」
僕は多少、興奮気味にそう言った。しかし、その後でこう続ける。
「ただし、一部には気になる点もありました。充分な証拠が集まっていないままで書かれている箇所もあります。よく注意して読めば分かるようにしてはありますが、気付かない人は気付かないかと。石鹸や化粧品への記述で、傷の治療に直接は関係がありませんが」
それにイイノ先輩は数度軽く頷いた。
「化粧品で肌が荒れるっていうのは、よく知られている話だから、恐らく事実だろうがな。ま、どちらにしても、大筋では認めざるを得ない話である訳だ、この本に書かれてある事は。そしてこれを認めると、今までの傷に対する治療方針を大幅に変えなくちゃいけない」
「その通りだと思います」
「お前、のん気だな。それは、自分の会社の商品を、大幅に入れ替えなくちゃいけないって事でもあるんだぞ」
「分かっていますよ」
僕はできるだけ、平静を装ってそう言った。自分の言葉の意味するところを理解していなかった訳じゃない。商品の入れ替えを行う、これは大きな“賭け”になる。もし、他社を出し抜ければ、会社は大成功を収めるだろう。しかし失敗すれば、会社はほぼ確実に倒産する。
「お前、ちゃんと分かっているのか?
消費者ってのは、案外保守的なものなんだよ。傷を消毒しなくて良いって発想を受け入れてくれるとは限らないぞ。それに、大手メーカーの反発だって考えられる。今までの在庫だって無駄になるし、開発費だってかかるんだ」
僕はそれに淡々とこう返した。
「しかし、成功すれば大躍進ですよ。他の会社は、それと同じ理由で商品の入れ替えに手を出そうとはしないでしょう。そして、この傾向は大手になればなるほど強くなる。
市場ってのは、先にシェアしたものが圧倒的に有利になるのは先輩も知っているでしょう? わが社のような、中小企業が勢力を逆転できるチャンスなんてほとんどない。この傷の治療に関する“文化”の改革は、その数少ないチャンスの一つです。逃す手はないでしょう」
実を言うのなら、イイノ先輩はこの“改革”に乗るつもりなのだと僕は考えていた。だからこそ、僕にこれを読ませたのだと。しかし、イイノ先輩の表情は曇ったままだった。それで僕は不安になった。が、自分の主張を変えるつもりはない。先にも書いたけど、僕は自分の思った事をそのまま言うだけだ。
「それだけか?」
先輩は僕の返答に対して、一言だけそう返した。もちろん、それだけじゃない。
「それに、改革を行わない事にも危険はあります。もし、他の会社が傷の治療改革キャンペーンを行って、それが成功したら、その時は不良在庫を大量に抱えます。しかも、それから改革を行っても、圧倒的に不利になるのは明白です」
そう僕が言い終えても、イイノ先輩は何も応えなかった。無表情で、黙って僕を見続けている。だけど、そのイイノ先輩の目は僕にこう訴えかけているように思えた。
それだけか?
正直、これを言うのには抵抗があった。だけど先輩は、恐らく僕のこの返答を待っている。それに。
「それに……」
と、僕は続ける。
「それに、間違った治療法が普及している事で、たくさんの人達が苦しんでいるのでしょう? この本によると、原理は分からないみたいですが、難治療のアトピー性皮膚炎にも効果があった事例が報告されている。治療できなかったケースもあるみたいですが、どうして効果があったのか、それで研究が進めば、苦しむ人が減るんだ。他にも、火傷治療は大幅に改善するらしい」
そこで僕は一度、言葉を切った。できるだけ感情を抑えていたはずなのに、興奮してしまっている自分に気が付いたからだ。でも、その興奮は抑えられなかった。
「だけどにも拘らず、医学会は、この事実を認めようとはしていないとこの本には書かれています。権威、保守性、それらの理由によって。
もちろん、慎重に進める必要があるのは事実でしょうが、それと全く受け入れないのとでは話が違います。医療技術の発展は、そのまま社会の発展に結び付く。医療財政が危機的状況下の今は、少しでもコストを減らしたい。この治療は絶対に、普及させる必要があります!
僕らが取り上げて、一般にも普及させる事ができたなら、恐らくは、医学会だって動かせるでしょう!」
先にも書いたけど、帰納的思考。つまり、情報を集めて、そこから得られた結論で今までの考え方を改める。それができる事が、科学の肝なんだ(思想的に、理想的なスタイルという事だけど)。ところが、医学会はこれをやっていない。これでは科学とは言えない。権威や、これまでの考え方を護ってしまう、自分達の誤りを認められない事こそを恥と考えなければいけないのに。
そう語り終えた時に、僕は自分の顔が熱を帯びている事に気が付いた。少し、汗までかいている。そして、そこでイイノ先輩は突然に笑い始めたのだった。
「アハハハ。お前は、本当に面白い性格をしているよな。熱いんだか、冷めているんだか分からない」
機嫌良さそうにしている。
そのイイノ先輩の様子を見て、僕は自分が嵌められた事を悟った。
「卑怯ですよ、先輩」
だから、そう言った。すると先輩は、「まぁ、そう怒るな」と言ってからこう続けた。
「オレとしては、お前がどれくらい本気なのかを知りたかったんだよ。重大な決断だからな」
「と言うと、先輩はやはり商品に“湿潤治療”の発想を取り入れる事に、前向きなんですね?」
「いや、実を言うと迷っている。正直、味方ゼロじゃ難しいだろうと思ってたんだ。それでお前に読ませた。この前の飲み会で、オレと同じ様に株を上げたお前に」
僕はそれを聞いて思い出した。あの発言の意図には、そんな事もあったのかと思いつつ。
「だが、お前は一人でもこれを進めるつもりでいるんだな?」
「そうですね。少なくとも、会議で取り上げるつもりではいますよ。
ところで、どうして先輩はこれをもっと他の皆に読むよう薦めていないのです? 多分、反応してくれる人はいると思いますよ」
それを聞くとイイノ先輩は溜息を漏らした。
「お前は、頭が悪いのか良いのか分からないな。そんな事をすれば、保守的な方向に話が流れる可能性が大きい。何しろ、今までの商品を捨てなくちゃいけない可能性が大きいんだからな。
一度、そういう流れができたら、その方向で固まるぞ。覆すのはかなり難しい。まぁ、お前やオレ、数少ない賛同者だけで地道に活動すれば、打開はできるかもしれないが、オレはそういう泥臭いのは大嫌いなんだよ」
僕はそれを聞いて、戸惑った。
「それじゃ、どうするんですか? 諦めちゃうとか?」
「そうは言ってないだろう。少しずつ賛同者を集めて、ある程度のところで、それを大きな流れにすれば良いんだ。
まぁ、水面下で活動するって事だな」
それを聞くと、僕はこう言った。
「うわぁ、いかにも政治的で嫌な感じですね。権謀術数渦めく世界」
先輩はそれに嫌な顔をする。
「それじゃ、どうするんだよ? お前に、何か良い案があるってのか?」
僕は首を横に振った。こういう類の話は弱い。だけど、少し思い付いた点がない訳でもなかった。
「基本的には、イイノ先輩の考え方に賛成です。ただ、もっと効率良いやり方を試してみても良いかな?とは思います」
先輩は、僕の言葉に不思議そうな顔をしていた。
直営店。
その場所。僕の狙いは、“お客さん”だった。2、3店舗ある内の一つ。そこには、自社の商品に対する感想を求める、”お客様の声“コーナーが設置されているんだ。
得られた情報により、間違った考えを否定し、新たな考えを生み出し採用する事で科学は発展し続けてきた、と書いたけど、これは一般企業にも当て嵌められる。お客さんのクレームを受け入れ、商品をより良くする事で、企業は発展する。それをしないで生き残れるのはよほど運が良い企業か、国やなんかに護られている場合だけだ。もちろん、そういう企業のサービスの質は悪い。
その“お客様の声”コーナーに、最近、湿潤治療に関する問い合わせが多く寄せられるようになった。湿潤治療用の商品は、置いていないのですか?と。湿潤治療の方が、傷は簡単に治りました、とか。……もちろん、これは僕の仕込みだ。たまたま、地元だったから、十数人の知り合いに頼んだのだ。ネットで湿潤治療を紹介したり、本を読んでもらって、納得してもらった上でだけど。
僕とイイノ先輩は、この“お客様の声”を会社の人間達に広めた。そして、湿潤治療とは何なのかを説明する。ネットで検索してそれを見ながら話したり、実際に本を貸してみたり。できるだけ説得し易そうな人達から始め、徐々に他の人にも話していった。そしてそれは、ある種の流行のようなものになっていった。
全面的に支持する人から半信半疑の人、あるいは全否定する人まで様々だったけど、とにかく、その活動で、社内での“湿潤治療”の認知度は急速に高くなっていった。僕らの狙い通りに。そして、
「確かに全面的に商品を入れ替えるというのは、危険が大き過ぎます。が、一部にこの“湿潤治療”を取り入れた商品を置いてみても良いのではないでしょうか?」
ある日の企画会議で、イイノ先輩はそう提案したのだった。もうその頃には、その場に出席していた人達は全員、湿潤治療を知っていた。それに対して、どう考えているかは別問題として。
ただし、それでも反応は固かった。誰も口を開かない。皆、避けて通れない議題だと分かってはいるのだろうが、矢面に立つ気は全くないのだろう。判断に迷っているのかもしれない。
そのうちに、渋々といった感じで、予算にまで口を出せる権限を持った“おえらいさん”の一人が口を開いた。
「しかし、研究開発費はどうする? 湿潤治療を取り入れるのは良いが、それほどの予算はかけられないぞ」
それを聞くと、イイノ先輩は数度頷くと僕を見た。僕はその視線に了解の合図を送る。
「その点は心配いりません」
イイノ先輩はそう言う。
その発言を受けて、僕は席を立ち用意していた資料を皆に配る。
「傷の洗浄剤、洗浄器具。創面塗布剤、塗布器具。そして、創面被覆材。
この湿潤治療に関しての商品として成立するのは、以上のものが考えられます。しかし、どれも材質としては存在しています。つまり、直ぐにでも商品としての売出しが可能なのです。
もちろん、当社オリジナルの発想を盛り込む必要は出てくるでしょうが」
イイノ先輩は僕が資料を配り終えるとそう言った。それを受けると、“おえらいさん”は訝しげな顔になった。
「それでは、開発しても、直ぐに他社に追いつかれてしまうではないか」
「その通りですが、少し違います。だからこそ、スタートダッシュが大切なのです。先に市場をシェアした商品が、圧倒的な優位に立つ。市場戦略の基本です。また逆を言えば、だからこそ速く手を出さなければいけないという事でもあります」
そのイイノ先輩の言葉は説得力になったようだった。「ふーむ」というような声が、会議室に響き渡る。上々の反応。そのタイミングで僕は手を上げた。
「商品開発の体制に関して、僕にアイデアがあります」
皆の視線が集まる。それに、僕は少し緊張する。いつまで経っても、注目をされるのには慣れない。
「湿潤治療に関するデータを集めてみたところ、僕はある点に気が付きました。一人の患者に的を絞って、傷の治癒過程やスピードを比較したものは多数ありましたが、それを統計的に整理したデータがない」
まずは僕はそこまでを語った。周囲の様子を窺ってみる。緊張していて、少し声は高くなってしまっているが、どうやら上手く喋れているようだった。
「そういったデータがあれば、説得力も増すでしょうし、他にも様々な点が分かるようになるはずです。
例えば、湿潤治療はサランラップでも可能ですが、その他の被覆材を使用した場合とで治癒速度はどう違ってくるのか。また、傷の部位や形状状態の差、塗布剤の比較、これらを多人数に対して行ってデータを整理すれば、その組み合わせからより効果のある“湿潤治療”を導き出していけるはずです。もちろん、手軽さや使い易さの比較も可能でしょう」
そこまでを僕が話すと、それに反論の声が上がった。
「言っている事は分かるが、それでは費用がかかり過ぎるのではないか?」
当然の質問。もちろん僕は、そういった疑問が上がるのを予想していた。
「はい。しかし、やり方によっては低予算に抑える事が可能です。
この医療技術の優れた点の一つは、危険が少ないことです。副作用の心配もなければ、重大な健康被害もない。そしてだからこそ、特別な資格は何も必要がないのです。となれば、これを試すのは誰でも良い。つまり、学生でもそれは可能だって事です」
そこでまた疑問の声が上がる。
「学生?」
「はい。具体的には大学生です。卒業論文で、湿潤治療を扱ってもらう。彼らにとっては、研究内容が決まるし、研究費の一部を負担してもらえるというメリットがある。我々としては、研究開発費が安く上がる。利用しない手はないでしょう」
「しかし、どうやって協力してくれる学生を集めるつもりだ? 宣伝に頼れば、また費用がかかるぞ」
「それも問題ありません。今は、インターネットという便利なものがありますから。実は、ツイッターやその他のソーシャル・ネットワーキング・サービスを利用して、個人的にそういった学生にコンタクトを取ってみたのですが、良好な反応がありました」
「なるほど。しかし、湿潤治療は医学会からは快く思われていないのだろう? なら、企業として、医大生に頼むのは何らかのトラブルの原因になるのではないか?」
それに対し、僕は首を横に振った。
「いえ、医大生に頼むつもりは、今のところはありません。むしろ、スポーツが盛んな体育系の大学に焦点を絞ろうかと」
「何故だ?」
「一つには、人工的につくった傷ではなく、実際に負った傷で試して欲しいからです。スポーツが盛んな大学なら、擦過傷などを負うケースは多いでしょう。また、医療を行う人間の立場ではなく、使う側の、つまり消費者の側のデータが集められる。一般の消費者に対して売るのですから、その方が良いのは当然の話です。妙な偏見を持たず、使ってもらえるでしょうし」
そこまでを僕が話し終えると、こんな声が上がった。
「火傷だったら、火を扱っている大学を探す必要があるな。料理を盛んに行っている大学が良いかもしれない」
本人は妨害目的で茶化すつもりで言ったのかもしれないが、僕はそれに真面目に答えてみた。いかにも、“ご意見、感謝します”といった声色にしつつ。
「そうですね。他にも学生が、火傷を負う可能性のある大学を探してみるべきかもしれません」
こういう言葉に怒りで返すと、雰囲気は悪くなってしまう。黙ってもいけない。周囲の人間は、それに悪い印象を受ける。ならば、発言の質そのものを変えてやれば良い。こちらがどう返すかで、それはある程度は可能だ。こちらがそれを真面目な意見として受け止めている振りをすれば、それは本当に真面目な意見になる場合がある。少なくとも、何割かの人間はそう受け止める。最悪でも傷口は広がらない。もちろん、それからも相手が妨害をし続けなければだが。そして今は、うまい具合に、それに対しては何の返しもなかった。会議の雰囲気も悪くない。イイノ先輩は、その僕の対応に満足そうな顔をしていた。僕は説明を続ける。
「学生に頼むのには、まだ別の効果もあります。その行為自体が、ネットによる口コミ効果での宣伝に繋がるのです。
彼らは積極的に、コミュニケーション・ツールとしてインターネットを用いている。そして、その宣伝効果は今や一つの産業に成長してもいます。話題獲得と商品開発を同時に行える。これは上手い手だと思いますが」
そのタイミングで、始めに予算を気にしていた“おえらいさん”が口を開いた。
「話は分かった。学生に頼むという案は面白いかもしれない。だが、それを判断するのには具体的なコスト計算が必要だ。見積もりは、出せるか?」
僕はそれを聞くと、思わず口元で笑ってしまった。上手くいった。
「はい。学生とのコンタクトを通して、どういった研究方法が妥当か、それにはどれくらい予算がかかるのか、既に検討してありますから、一週間以内に出せます」
そう返すと、
「その作業で、他の業務に支障をきたすのは許さないぞ」
と、そうイイノ先輩が言った。恐らく、会議を締める為だろう。
「もちろんです」
と、僕はそう返す。
いつの間にかに“湿潤治療”を取り入れた商品開発を行うのが決定された事になっている。その事実に、皆は気が付いていないようだった。僕がその前提での、学生に商品開発の協力を求める議論を開始し、そこに意識が集中した為だろう。実は僕はこれを狙って話し始めたんだ。皆は、そもそも商品開発を行うかどうかを決めていなかった事を忘れている。
そして、そのまま無事に会議は終わった。もしかしたら、終わった後で、いつの間にかに商品開発を行うと決まっていた事実に、誰かが気付くかもしれない。しかし、今更それを蒸し返そうとまでは思わないだろう。
「上手くいったな」
終わった後で、イイノ先輩がそう言って来た。僕は無言で頷く。
「しかし、本当に大変なのはむしろこれからだぞ」
その言葉にまた僕は頷いた。
「まずは、研究開発を成功させなくちゃいけないですからね。それに、今まで商品にしていた消毒液なんかの在庫を徐々に減らしていく手続きも必要です」
「そうだな。しかし、そこはこちらで上手く手配しておく。お前は、商品開発に意識を集中していろ」
「分かっています」
と僕はそう応えた。
商品開発は思った以上に順調に進んだ。湿潤治療は発想がシンプルなだけに、商品の工夫の幅が限られてくる。が、実際に試行錯誤していくと、それなりに発見があった。傷口を洗う液体は、浸透圧を近づけた方が良いだろうことや、少ない量の液体で、その場で直ぐに傷口を洗える簡易器具の開発。取り敢えず血を止める為の塗り薬。塗り薬を二重にすることで、被覆材を当て難い部位でも問題なくする工夫。
その過程で結果的に、この商品郡は大学生の間で広まっていった。実際に自分達が開発に関わったという意識があるからだろうが、悪評はほとんど聞かなかった。もちろん、それは他の一般客にも伝わる。徐々にそれは話題になり始めていた。
そしてそれと同時進行で、“皮膚の傷治療改革キャンペーン”の準備も整っていった。直営店では、大幅に商品を入れ替える戦略を取ることが決定されていたのだ。もちろん、これにはイイノ先輩が大きく関わっている。イイノ先輩によれば、
「学生の間で、予想以上に反響があったお陰で進められたんだよ。まぁ、半分はお前のお陰だ」
と、そういう事だったらしいけど、どんなに状況が整っていても能力がなければそれを利用するのは不可能だろう。やはり、先輩の功績だと思う。
商品の開発には、一年ほどかかった。個人的感覚では、満足いく出来になったと思う。使い易さも充分に工夫できたし、データと共にその効果を示す事もできた。
――そして、全ての準備が整い、いよいよ商品の売り出しが始まったのだ。
その反響は、僕らの予想を超えていた。ネットでの口コミ宣伝の効果で、遠い場所に住むお客さんを呼び寄せる事にも成功したからだ。 ……しかし、それによって僕らは思いも寄らぬ逆風に曝される事になってしまったのだった。
「小売店が、わが社の製品を仕入れの中止を通告してきました」
その時、僕はまだ“皮膚の傷治療改革キャンペーン”の成功に酔っていて、だからその報告に心底驚いた。
「どういう事?」
思わずそう呟いてから、何が起こったのかその意味を察した。実はこれは半ば予想していた事態でもあったんだ。この“皮膚の傷治療改革キャンペーン”は、他のメーカーにとってみれば、面白くない。成功されれば、自分のところの商品が売れなくなる。だから、何としても潰さなくちゃならない。それで、この改革を潰す為に権力のある大手メーカーが、小売店に圧力をかけたのだろう。うちの会社の商品を仕入れるな、と。
「それは、湿潤治療を取り入れた商品のみが対象か?」
横から冷静にイイノ先輩がそう尋ねた。
「いえ、全商品です」
それを聞くと、顔を少し歪めてから、イイノ先輩はこう言った。
「そうか。少し、成功し過ぎたな。話題が大きくなり過ぎた」
当然のように、それから緊急会議が開かれる事態となった。
「一体、どうするつもりだ?!」
と、そう僕らは怒鳴られた。他の出席者が見守る中、イイノ先輩と僕だけが立たされて。これじゃ会議じゃなくて、ただの拷問だ。
重役達は顔を真っ赤にしていた。少し前までは、僕らの成功を賞賛していた“おえらいさん”方がえらい変わりようだ。
ただ僕らはそんなに堪えなかった。これくらいのことは覚悟していたからだ。改革というのは、簡単にはいかない。
「今まで取引のあった三割の小売店が、わが社の製品を仕入れないと言ってきています。現状はこれだけですが、これからまだ増える可能性があります」
社員の一人が、淡々とそう説明する。それを受けて、重役の一人がこう言った。
「直売店の売り上げは伸びているが、それだけじゃとてもじゃないが、これだけの損失は賄えないぞ。これ以上、広がればわが社は潰れかねない」
僕はその時、イイノ先輩を見てみた。先にも述べたけど、僕らはこういった事態を予想してもいたんだ。だから当然、対策も考えてある。もっとも、僕らの予想よりも大手メーカーの対応は早かったし、内容もずっと過激なものだったけど。恐らく、随分前から大手メーカーは“湿潤治療”の存在を警戒していたのだろう。だから今回の僕の会社の動きにも敏感に反応したんだ。僕の視線を受けると先輩は“お前が言え”と目配せしてきた。仕方ない、とそれで僕は口を開いた。嫌な役回りを押し付けてくるんだから、と内心で文句を言いつつだけど。
「正直、予想よりも対応が早かったし、ここまで大胆な対策を取るとは思っていませんでしたが、こういった事態は想定していました」
僕がそう言うと、重役の表情が変わった。
「予想できていた、だと?」
「はい。他のメーカーにとってみれば、この企画の成功は、大打撃でしょうからね。当然、妨害はあるだろうと思っていました。しかし、それはこの企画を、他社がそれだけ恐れているという事でもあります。つまり、正しい戦略だったとも言えるでしょう。大きな利益が見込めます」
その僕の発言に、重役は怒った。
「会社がそれで潰れたら、いくら企画が当たっても意味がない! 何を考えているんだ、お前らは!」
“お前ら”。そう重役が言った事に、僕は気を良くした。“よし、イイノ先輩もちゃんと勘定に入っている”と、そう思ったのだ。そして多分、それで先輩は口を開いた。
「安心してください。会社は潰しません」
そのイイノ先輩の言葉に、会議に参加していた全員が反応した。
「どういう事かな?」
静かな口調で、この会議の議長に当たる人間がそう言った。
「ノトが述べた通り、予想よりも大手メーカーの対応は早かったですし、これほど形振り構わない戦略を執るとも思っていませんでしたが、それでも対策は考えてありますし、準備も整っています」
それで少しの間ができた。場の空気の質が変わったのが分かる。重役達はまだ怒っていたが、そこから焦りの色は消えていた。僕らの態度、様子が落ち着いている事が良かったのかもしれない。多少は、安心したんだ。もっとも、僕らの落ち着きは半分はハッタリなのだけど。事態が危険である点は全く変わりない。
「説明を聞こう」
議長がそう言った。それを受けて、イイノ先輩は説明を始めた。
「薬事法改正はご存知ですよね? これにより、コンビニエンスストアなどでも、一般医薬品の販売が可能となりました。そして、今回売り出した“皮膚の傷治療改革キャンペーン”に関わるわが社の製品は全てが、一般医薬品かまたはそもそも、普通の小売店でも販売が可能な商品です」
そこでイイノ先輩は間を作る。合いの手のように、「それがどうした?」と、議長が言うとそれに返すように、先輩は言った。
「ドラッグストアや薬局以外にはもちろん、大手メーカーは圧力をかけられません。そして私達は、その大手メーカーには圧力がかけられない小売店への販売網拡大を狙っているのです」
「ドラッグストア以外? コンビニエンスストアか?」
「いえ、本屋です」
「本屋ぁ?!」
そのイイノ先輩の回答に、会場がざわめいた。
「はい。本屋の出店数は多い。そして、電子書籍やインターネットの台頭で、これまでの販売戦略の見直しを迫られています。本が売れない時代に突入している。そこで我々は出版社にも掛け合い、その協力の下で大手本屋に医薬品の販売の話を持ちかけたのです。ノトが今企画を進行中です」
その言葉を引き受けて、僕は説明をし始めた。
「具体的には“湿潤治療”を特集した雑誌や書籍と一緒に、今回の新商品を置いてもらいます。
これにより、大幅な売り上げの拡大が期待できる見込みです。もちろん、先に説明した通り、大手メーカーの妨害が思ったよりも早かったので、出遅れてはいますが、事情を説明して本屋にもっと早く始めてもらえるよう交渉している最中です。
また、これは今回に限った話で終わらせるつもりはありません。湿潤治療で培ったノウハウを利用すれば、化粧品や石鹸などでも同じ様な試みが可能になります。これが成功すれば、今度はドラッグストアや薬局が慌てる番です。売り上げを大きく落としてしまう。そうなれば、大手メーカーの圧力に逆らって、わが社の製品の仕入れを再開するでしょう」
会議はその僕の説明で引けた。僕らの対策に説得力があったかどうかは分からない。何しろ、事態がこうなってしまった以上、この方向で推し進めるしか手はないからだ。もちろん、これが失敗すれば僕はクビを覚悟しなくちゃならないだろう。ただ、この点はあまり怖くはない。何といっても、僕はこれまでの経緯で貴重なノウハウを手に入れた。学生達とのコネクションも、基本的には僕個人の繋がりだ。これを武器にしていけば、再就職は比較的楽に行えるだろう。
「言っておくが、まだ諦めるなよ」
が、そんな事を思っていたら、イイノ先輩からそう釘を刺されてしまった。恐らく、イイノ先輩は僕の考えている事に気付いている。もちろん僕は今回の仕事に全力を尽くすつもりでいる。なんと言っても、大手メーカーのやり方の汚さは気に食わないし、それに諾々と従ってしまう小売店にも腹が立つ。それに、これは湿潤治療がどれだけの速度で伝わるか、それに影響して来る話でもある。社会の進歩があると仮定して言わせてもらうのなら、ここでの敗北はその停滞を意味する。
「本屋さんから、返事が来ました。事情に納得してもらえたみたいで、雑誌の発行よりも早くに湿潤治療関連の商品を並べてもらえるようになりました」
会議が終わってから直ぐに、僕はその報告を聞いた。
「よし!」
と、僕はそう返す。そうしてもらえるだろうと予想はしていていたけど、いい感じだ。
「それと、今回の商品のうち、肌を保護する為に二重で塗る薬ですが、化粧品が原因の肌荒れ予防にも効果があると、女性職員から結果が返ってきました。もちろん、データとして実績があるのはわが社の化粧品だけです。これも、今回のラインナップに乗せるよう提案してはどうでしょうか?」
僕はその言葉に驚いた。自主的に、女性職員達の一部が、そんな行動を執っているという話は聞いていたけど、まさかそこまで話が進んでいるとは思っていなかったからだ。
「ちょっと資料を見せて」
慌ててそう言う。資料は既に用意してあり、僕はそれにざっと目を通してみた。「面白い」。その後で、思わずそう呟いた。
これなら、いけるかもしれない。会社存続に必要な利益を叩きだせる。
僕は徐々にこの状況を楽しんでいる自分に気が付いていた。自主的に、他の職員が協力してくれている事が、嬉しかったのかもしれないし、いつもはチキンな影に隠れている反骨精神に火がついたのかもしれない。とにかく、興奮していた。改革、革命ってのはこうでなくちゃいけない。暴力でそれを行って、同じ事を繰り返すようなものじゃなく、本当に社会を進歩させる、“考え方”からの革命。
まだ、まだ、これからだ!
その僕の戦いは、始まったばかりだった。
もちろん、この作品はフィクションです。
が、作中で紹介した本は実際に存在しますし、湿潤治療(療法)も本当です。
更に同書には、医学会が湿潤治療(療法)を受け入れようとしていないと書かれていました(もっとも、この本が出たのは2009年の事なので、今の現状がどうなのかは分かりません)。ただし、メーカーから反発があるとは書かれていません。ここの部分は僕の創作で、実際のところがどうなのかは不明です。
また、既に、湿潤治療の発想を取り入れた商品は存在しています。
「悪役の描き方」ってな小説の後書きで、書く予定だと書いていた(ああ、ややこしい)小説がこれです。当初は、メタ小説にするつもりだったのですが、二回もやるのはつまらないな、って思っていたところに、”傷はぜったい消毒するな”を読んで、使えると思ったもので、こんなビジネス小説もどきな内容にしてみました。
因みに、書きたかったテーマは「文化相対主義の限界」です。
自分が提案している経済理論にも重なるのですがねー… この話。