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「これ……俺の本じゃない」

 膝の上にあったからてっきり自分の本だと思って持ってきたが、今手にしているのは、古びた革装丁の本。

 分厚く、重く、どこか禍々しい雰囲気さえある。

 俺が読んでいた新書版の文庫本とは全く違う。


 でも、確かにこれは俺のリュックから落ちた。

 そして――この本を持った瞬間、妙な感覚があった。

 まるで昔から俺の物だったかのように、手に吸い付く。


 表紙には装飾はなく、ただ、中央に金の文字でひと言だけ刻まれている。


『手放すなかれ』


 日本語だ。

 馴染みのある文字。

 けれど、この異世界で、唯一の日本語。

 

 その時、ホームに怒声が響いた。

 見ると、目が四つある巨大なサイのような四足獣と、触手だらけのタコ男がケンカをしていた。

「だいじょうぶかぁ~? 顔、真っ赤だぞ~」

 タコ男が呂律の回らない声でサイ男の肩に触手を絡める。

「触んな! 酔ってんのはお前だろうが!」

 サイ男が苛立たし気に触手を払いのけると、タコ男がムキになって言い返す。

「なんだとぉ~! おれはしらふだぞぉ~。心配してやってんのにぃ~!」

「うるせぇ! 酒臭ぇんだよ!」


 どう見ても二人とも相当酔っている。

 単純に酔っ払い同士のケンカのようだけど、俺が知る酔っ払いのケンカとはスケールが違った。

 サイ男の体が膨れ上がった。

「え、マジかよ……!」

 二メートル、三メートルと見る見る巨大化していく。

「うおおおお!」

 巨大な手がタコ男の頭を掴み、ホームに叩きつけた。

 ドカァン! と地面が揺れる。

 

 「この野郎!」

 タコ男の触手が、鞭のようにしなってサイ男をぶん殴った。

 触手が空気を切り裂く音が、ホームの中に響く。


 サイ男はさらに巨大化し、近くの自動販売機をなぎ倒した。

 ガシャァン!

 缶が転がり、液体が飛び散る。


 負けじとタコ男が何本もの触手を振り回す。

 ベンチが、ゴミ箱が、看板が――。

 そこらじゅうの物が飛散した。


「うわっ!」

 

 飛んできたゴミ箱を避けようとして、バランスを崩した。

「――痛ってぇ~」

 尻もちをつき、ホームのコンクリートに容赦なく尻を打った。

 

 ここにいたら、死ぬ。

 酔っ払いのケンカに巻き込まれて、訳の分からない異世界で死ぬのか? 俺。

 そう思った時――。


 「君は観光客かい?」

 

 落ち着いた声が降ってきた。


 見上げると、銀髪の長い髪を後ろで束ねた男性が立っていた。

 瓦礫が飛び交う中、まるで散歩でもしているかのような余裕の表情。

 耳元のピアスがきらりと光る。


「ここにいたら危険だよ」


 すっ、と差し伸べられた手。

 その手には、黒い革の手袋がはめられていた。


 男性の言う通り、あれこれ考えている場合じゃない。

「あ、ありがとうございます」

 俺は差し伸べられた手を掴んで、立ち上がった。

 立ち上がった俺の横にベンチが降ってきた。

「うわっ、危ねぇ!」

「グズグズしている暇はないね。とりあえず逃げようか」

 駅の警備員たちが駆け付け、酔っ払いの二人を取り押さえようとしているが、収まる気配がない。


「こっちだよ」

 俺は言われるがまま、手招きする男性の後を追う。

 男性はひらりひらりと、まるでダンスを踊っているかのように瓦礫をよける。

 俺はその後を必死に追う。


 右から看板、左から缶、上からベンチ。

 あちこちから飛んでくる瓦礫を、転びそうになりながら避ける。


「急いで」


 男性が振り返り、手招きする。

 その表情には、どこか楽しんでいるような笑みさえ浮かんでいた。


 なんとかホームから脱出した時、俺の息は上がりきっていた。

 膝に手をつき、荒い呼吸を整える。

 なのに、男性は息ひとつ乱れていない。

 むしろ楽しそうに笑っている。

 なんなんだ、この人……。


「酔っ払いのケンカに巻き込まれるなんて災難だったね」

 まるでよくあることだ、というような軽い口調だ。

 確かに、さっきのホームで騒いでいる人は誰もいなかった。

 けれど、俺は災害級のケンカになんて遭遇したことがない。


 どう返事をすべきか迷ったが、それでも助けてもらったお礼は言わなきゃ。

「ありがとうございました。おかげで助かりました」

 頭を下げた俺の腕を、いきなり男性が軽く掴んだ。

「君、ケガしているじゃないか。近くに僕の家があるから、そこで手当てをしよう」

 見れば、腕に擦り傷がありうっすらと血がにじんでいた。


 尻餅をついた時に擦りむいたのだろう。

 単なるかすり傷だ。

 手当を施されるほどの傷ではない。

「え、でも」

 見ず知らずの人の家について行くのにはさすがに抵抗がある。

『知らない人にはついて行くな』というのは幼いころから言い聞かせられてきた言葉だ。

 今会ったばかりの人の家にいくなんて、かなり危険な行為で最悪の場合、命に係わる。

 ただでさえ、とんでもなく変な世界なのに。

 信頼していいかもわからない。


 でも、二十代半ばの男を拉致監禁したところで、なんの得があるんだ?

 ……いや、この世界では俺の常識は通じないかもしれない。

 俺の常識は通じるのか?

 考え込んでいる俺の顔を、男性が不思議そうにのぞき込む。

「急ぐ用事でもあるの?」

 少し拗ねたような口調で、首を傾げる。


 急ぐ用事どころか、帰る場所さえわからない。

「いいえ、そういうわけでは……」

 さすがに、あなたの家に行くのは不安です、なんて言えるわけがない。

 でも、顔に出ていたのか、男性はクスリと笑った。

「君の安全は必ず保証する。ただ、本音を言うと……」

 男性は俺が手にしている本に視線を落とした。

「君、その本を持っていて何ともないの?」

 男性の質問の意味が分からなかった。

 首を傾げる俺に、男性は慌てて首を振る。

「いや、何ともないならいいんだ。気にしないでくれ。僕は――」

 男性は再び本に視線を向ける。

「君が持っているその本に興味があるんだ」

「あ、もしかしてこれ、あなたの本ですか?」

 男性は残念そうに首を振った。

「いいや、それに似た本を見たことがあってね……。実は僕、本屋を営んでいてね、その本は一冊しか存在しないと思っていたから、君が持っていることに驚いているんだ。傷の手当てをしながら少し話をしたいって言うのが僕の本音」

 素直に本音を言ってくれた男性に、少し申し訳なく思う。

 疑ってしまって、ごめん。


 本屋であれば客の目もあるだろう。

 それほど警戒しなくてもいいかもしれない。

 そもそも行く当てもない。

 どこかゆっくりできる場所でこの状況を考える必要もある。

 本屋ならそれもできるだろう。

 ありがたく男性の申し出を受けることにする。

「あの、えっと、お言葉に甘えても?」

「喜んで!」

 彼の瞳が輝いた。

 銀髪に似合う、透き通った緑色だった。



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