2頁
「これ……俺の本じゃない」
膝の上にあったからてっきり自分の本だと思って持ってきたが、今手にしているのは、古びた革装丁の本。
分厚く、重く、どこか禍々しい雰囲気さえある。
俺が読んでいた新書版の文庫本とは全く違う。
でも、確かにこれは俺のリュックから落ちた。
そして――この本を持った瞬間、妙な感覚があった。
まるで昔から俺の物だったかのように、手に吸い付く。
表紙には装飾はなく、ただ、中央に金の文字でひと言だけ刻まれている。
『手放すなかれ』
日本語だ。
馴染みのある文字。
けれど、この異世界で、唯一の日本語。
その時、ホームに怒声が響いた。
見ると、目が四つある巨大なサイのような四足獣と、触手だらけのタコ男がケンカをしていた。
「だいじょうぶかぁ~? 顔、真っ赤だぞ~」
タコ男が呂律の回らない声でサイ男の肩に触手を絡める。
「触んな! 酔ってんのはお前だろうが!」
サイ男が苛立たし気に触手を払いのけると、タコ男がムキになって言い返す。
「なんだとぉ~! おれはしらふだぞぉ~。心配してやってんのにぃ~!」
「うるせぇ! 酒臭ぇんだよ!」
どう見ても二人とも相当酔っている。
単純に酔っ払い同士のケンカのようだけど、俺が知る酔っ払いのケンカとはスケールが違った。
サイ男の体が膨れ上がった。
「え、マジかよ……!」
二メートル、三メートルと見る見る巨大化していく。
「うおおおお!」
巨大な手がタコ男の頭を掴み、ホームに叩きつけた。
ドカァン! と地面が揺れる。
「この野郎!」
タコ男の触手が、鞭のようにしなってサイ男をぶん殴った。
触手が空気を切り裂く音が、ホームの中に響く。
サイ男はさらに巨大化し、近くの自動販売機をなぎ倒した。
ガシャァン!
缶が転がり、液体が飛び散る。
負けじとタコ男が何本もの触手を振り回す。
ベンチが、ゴミ箱が、看板が――。
そこらじゅうの物が飛散した。
「うわっ!」
飛んできたゴミ箱を避けようとして、バランスを崩した。
「――痛ってぇ~」
尻もちをつき、ホームのコンクリートに容赦なく尻を打った。
ここにいたら、死ぬ。
酔っ払いのケンカに巻き込まれて、訳の分からない異世界で死ぬのか? 俺。
そう思った時――。
「君は観光客かい?」
落ち着いた声が降ってきた。
見上げると、銀髪の長い髪を後ろで束ねた男性が立っていた。
瓦礫が飛び交う中、まるで散歩でもしているかのような余裕の表情。
耳元のピアスがきらりと光る。
「ここにいたら危険だよ」
すっ、と差し伸べられた手。
その手には、黒い革の手袋がはめられていた。
男性の言う通り、あれこれ考えている場合じゃない。
「あ、ありがとうございます」
俺は差し伸べられた手を掴んで、立ち上がった。
立ち上がった俺の横にベンチが降ってきた。
「うわっ、危ねぇ!」
「グズグズしている暇はないね。とりあえず逃げようか」
駅の警備員たちが駆け付け、酔っ払いの二人を取り押さえようとしているが、収まる気配がない。
「こっちだよ」
俺は言われるがまま、手招きする男性の後を追う。
男性はひらりひらりと、まるでダンスを踊っているかのように瓦礫をよける。
俺はその後を必死に追う。
右から看板、左から缶、上からベンチ。
あちこちから飛んでくる瓦礫を、転びそうになりながら避ける。
「急いで」
男性が振り返り、手招きする。
その表情には、どこか楽しんでいるような笑みさえ浮かんでいた。
なんとかホームから脱出した時、俺の息は上がりきっていた。
膝に手をつき、荒い呼吸を整える。
なのに、男性は息ひとつ乱れていない。
むしろ楽しそうに笑っている。
なんなんだ、この人……。
「酔っ払いのケンカに巻き込まれるなんて災難だったね」
まるでよくあることだ、というような軽い口調だ。
確かに、さっきのホームで騒いでいる人は誰もいなかった。
けれど、俺は災害級のケンカになんて遭遇したことがない。
どう返事をすべきか迷ったが、それでも助けてもらったお礼は言わなきゃ。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
頭を下げた俺の腕を、いきなり男性が軽く掴んだ。
「君、ケガしているじゃないか。近くに僕の家があるから、そこで手当てをしよう」
見れば、腕に擦り傷がありうっすらと血がにじんでいた。
尻餅をついた時に擦りむいたのだろう。
単なるかすり傷だ。
手当を施されるほどの傷ではない。
「え、でも」
見ず知らずの人の家について行くのにはさすがに抵抗がある。
『知らない人にはついて行くな』というのは幼いころから言い聞かせられてきた言葉だ。
今会ったばかりの人の家にいくなんて、かなり危険な行為で最悪の場合、命に係わる。
ただでさえ、とんでもなく変な世界なのに。
信頼していいかもわからない。
でも、二十代半ばの男を拉致監禁したところで、なんの得があるんだ?
……いや、この世界では俺の常識は通じないかもしれない。
俺の常識は通じるのか?
考え込んでいる俺の顔を、男性が不思議そうにのぞき込む。
「急ぐ用事でもあるの?」
少し拗ねたような口調で、首を傾げる。
急ぐ用事どころか、帰る場所さえわからない。
「いいえ、そういうわけでは……」
さすがに、あなたの家に行くのは不安です、なんて言えるわけがない。
でも、顔に出ていたのか、男性はクスリと笑った。
「君の安全は必ず保証する。ただ、本音を言うと……」
男性は俺が手にしている本に視線を落とした。
「君、その本を持っていて何ともないの?」
男性の質問の意味が分からなかった。
首を傾げる俺に、男性は慌てて首を振る。
「いや、何ともないならいいんだ。気にしないでくれ。僕は――」
男性は再び本に視線を向ける。
「君が持っているその本に興味があるんだ」
「あ、もしかしてこれ、あなたの本ですか?」
男性は残念そうに首を振った。
「いいや、それに似た本を見たことがあってね……。実は僕、本屋を営んでいてね、その本は一冊しか存在しないと思っていたから、君が持っていることに驚いているんだ。傷の手当てをしながら少し話をしたいって言うのが僕の本音」
素直に本音を言ってくれた男性に、少し申し訳なく思う。
疑ってしまって、ごめん。
本屋であれば客の目もあるだろう。
それほど警戒しなくてもいいかもしれない。
そもそも行く当てもない。
どこかゆっくりできる場所でこの状況を考える必要もある。
本屋ならそれもできるだろう。
ありがたく男性の申し出を受けることにする。
「あの、えっと、お言葉に甘えても?」
「喜んで!」
彼の瞳が輝いた。
銀髪に似合う、透き通った緑色だった。




