第十五話 騎士の焦燥
若き騎士団長は今、極度の不機嫌の中にあった。
アメリーのお陰で改善された執務室は以前よりも遥かに居心地が良い。それにもかかわらず、シオンの集中力は散漫になっていた。
「団長、失礼します。次の王宮会議の資料ですが、こちらでよろしいでしょうか?」
ハンスが丁寧な動きで分厚い書類の束を差し出した。シオンはその表紙に目だけを向け、端的に答える。
「ああ、問題ない」
すぐに彼は別の書類に目を戻す。ハンスは心配そうな表情で彼を見つめた。
「アメリー嬢、最近こちらにいらしていませんね。体調不良やご家族との用で……。団長、彼女がいないとはいえ、ちゃんと休憩をなさってください」
シオンは鋭い視線を彼に向ける。
「無用な口出しだ。私は忙しい。彼女が残しておいた特製のハーブティーの予備を全て確認しておけ。まだ残っていたか?」
「大変申し上げづらいのですが……ハーブティーの在庫はもう底を尽きかけています。ブレンドが分かれば再現できますけど、いかがなさいますか?」
「……彼女の茶でないと飲む気が起こらない」
彼は小さく呟いて、書類に目を戻す。ハンスが心配そうに彼を見つめているが、彼はそれに気づかないふりをした。
(なぜだ。なぜ、アメリーがいないだけで、私はこんなにも苛立っている?)
シオンは、自分の感情を以前のようにコントロールできないことに、酷く苛立っていた。
彼は今まで、ずっと感情を制御してきた。ずっとそのように生きてきたのだが、アメリーという娘と出会ってから、彼は変わった。ずっと一人で何事にも取り組んできた彼だが、世話好きな彼女の好意に甘えるようになった。
職務の重圧を和らげる存在として彼女を安定剤にしていたのだろう。そのため、彼女が姿を消した今、こんなにも喪失感を感じているのかもしれない。
まるで、胸に穴が空いたような、耐えがたい虚無感。
書類を見ても、以前のような集中力は得られない。彼女が「シオン様! 少し休憩をなさってください!」と怒るからこそ、早く仕事を終わらせようというモチベーションにもなっていた。むしろ、彼女の怒った顔が見たいという欲もあった。彼女が淹れてくれるハーブティーの温かさが彼の心を温め、今では彼女が淹れる紅茶以外では満足できなくなってしまったほどだ。
この前、アメリーが「婚活」とやらに参加した時。彼は目の前が真っ赤になるほどの激しい怒りを覚えた。彼女が他の男の隣で、彼にしていたことと同じような行為をすると考えるだけで、怒りが沸々と湧き上がってくる。彼女の献身的な愛が別の男に奪われしまうことに、強い拒絶反応を感じてしまう。
(……私は、彼女に依存しているのか?)
シオンは、机の上に置かれたままの、アメリーが残していったメモを手に取った。『睡眠不足は肌と健康の大敵ですよ!』と可愛い文字で書かれている。それを見るだけで、彼の目元が和らいだ。
アメリーは、彼を「推し」という不思議な言葉で、手の届かない偶像のような存在として崇めていた。周囲の人間のように彼を「英雄」という形として見ていることはないのだが、彼を別世界の「シオン・アルカス」と重ねて見ていることは確かだ。
彼はそれが気に食わなかった。彼女が自分を見ているのに、自分を通して別の誰かを見ているように思えて仕方がなかったのだ。そのため、彼女の愛を、目の前にいる男に向けさせようと試みた。
これは、ただの執着ではない。一人の男が、一人の女を求めている、ありふれた感情。
(……私は、アメリーが好きなのか)
シオンは、そっと目を閉じた。騎士としての彼の人生において、恋愛というものは最も遠い、無用の感情であった。王国の未来を背負う彼にとって、私的な感情は彼の剣を鈍らせるものだと考えていたのだ。
しかし、この胸の痛みは言い訳のしようもない。彼は、彼女が自分を彼女の中の「推し」として扱えば扱うほど、彼女を独占したいと願う、一人の男に変貌してしまったのだ。
(私をこんな風にしておいて、勝手に逃げるなど許さない)
彼は人差し指を机に打ち付けながら、小さく笑みを浮かべた。
(君はもう、私のものだ)




