第十一話 温かさと不満
シオンは、自分の執務室がここ数週間で劇的に改善されたことを実感していた。
書類の山は常に整理され、必要な資料はすぐに手の届く場所にある。ペン先の摩耗具合まで考慮され、常に最適な筆記具が用意されている。そして何よりも、手の届くところに甘いキャンディが常備され、手元には疲労度に応じたハーブティーが置かれている。
全て、アメリー・セレーネの仕業だ。
彼女は、一週間ごとに「情報交換」という名で定期的に訪問している。訪問時間は日を重ねるごとに延びている。そこで行われるのは、情報交換のような格式ばったものではなく、恋人が会うような甘いものでもない。まるで、王都で一人暮らしを始めた子どもの家を訪れて甲斐甲斐しく世話を行う母親のような行動だ。
「シオン様。本の整理をさせていただきましたが、こちらの古文書の保存状態が少し悪いように思えます。湿度管理が必要です。この簡易的な乾燥剤を、置かせていただきますね」
「シオン様。恐れながら、その騎士団への報奨金配分に関する書類は、もっと効率的に書くことができると思います。こちら、前世のビジネス効率の知恵です!」
彼女の行動は、献身的で、性格で、そして恐ろしく効率的だった。彼女が持ち込む「前世の知識」は騎士団の業務改善にまで及び、シオンはもはや、彼女の助けなしでは、以前のように効率的に仕事ができないであろうことに気づき始めていた。
(私はこの数週間で、彼女なしでは成立しない、弱い人間になってしまったのか?)
シオンの心には、複雑な感情が渦巻いていた。
彼は王国の英雄であり、全てを一人で背負うべき存在だ。だが今は、一人の娘の世話焼きにまるで子どものように甘えている。その事実は、彼の騎士としてのプライドを強く刺激した。
一方、彼女の行動は、彼にとって初めて体験する無償の愛だった。彼女は彼をほめたたえるが、それは『騎士団長』としての肩書を持つシオンにではなく、『ただ一人の人間』シオンに対して向けられている。その愛情は、まるで親鳥がひな鳥を庇護するかのように温かい。
「シオン様。外も暗くなっています。照明を明るくしますね」
「シオン様。今日はずっと書類を見ていらっしゃる! 目を休ませてください。……はい、キャンディです」
アメリーはそう言って、琥珀色のキャンディを有無を言わさずシオンの口元に差し出した。まるで、彼を手のかかる末っ子のように扱っている。
シオンは反射的にキャンディを受け取り、口の中で溶かした。甘さが広がり、頭の鈍痛が和らぐ。
(まるで、母親だ)
彼は、幼い頃に亡くした母親の温もりを、彼女の中に感じていた。それは、彼が最も渇望し、そして最も得られなかった感情だ。
「君は、なぜそれほど優しいのだ? 君が私に求めているものは、何だ? 報奨か、それともアルカス家嫡男の寵愛か?」
彼は、あえて試すような質問を投げかけた。彼女がもし、普通の令嬢であれば、ここで必ず寵愛を望むはずだ。
アメリーはシオンの質問に一瞬手を止め、目を丸くした。
「ち、違います! そんな、とんでもない!」
彼女は慌てて首を振る。その顔は真っ赤だ。
「私は、あなた様から何かをもらうためにしているわけではありません! 私の目的は、推しの健康と幸福、それだけです!」
彼女は持っていた片付け途中の本を胸に抱き、熱弁をふるった。
「私は、シオン様の幸せな未来の物語を見るために、この世界にいるんです! シオン様が疲れて落ち込んでいる姿なんて、誰が見たいのですか。私はあなた様に尽くせることを光栄に思い、今ではそれを生きがいとしているのです! ですから、シオン様が幸せになってくださることを私は望みます!」
シオンは、彼女の熱すぎる言葉に、苦笑を禁じ得なかった。
「君の言う物語では、私は別の女性と結ばれるのだったか?」
「そうです。シオン様はその方と幸せになるのです!」
彼女は真剣だった。その純粋な、どこまでも献身的で、そして一切の私欲がない愛に、シオンの心は深く深く揺さぶられた。
彼が冗談のように言った言葉を彼女が迷いなく肯定してきて、彼は複雑な気持ちを抱く。彼女にとって、これは恋愛のような甘い感情ではなく、至福なのだろう。
(彼女は私を一人の人間として見ていても、決して一人の男としては見ようとしない。私に魅力がないというわけではないだろうが、どうしたら彼女の気を引けるのだろうか)
そのうち、彼の胸の中では別の感情が生まれていた。彼女の無償の愛は嬉しいが、それ以外の愛も求めてしまっている。
彼女は、シオンには決まった相手がいて、その相手と結ばれることで幸せな人生を送ると語っている。しかし彼にとって、それは別の世界の話だ。現実ではない。
(君は、私の世界に干渉しておいて、物語の結末が変わることを想定していないのか?)
このように優しくされたら、男など簡単に堕ちてしまう。まして彼にとって彼女は、唯一心を明かせる落ち着いた存在なのだ。手放せるはずが、ない。
「アメリー」
彼女を呼んで、少し髪を触らせてほしいと頼む。すると彼女は顔を赤らめながらも、それを受け入れる。まるで恋人のような一時だが、彼女は恐らく内心で「シオン様は人肌を求めていらっしゃるのだわ!」とか考えているのだろう。
シオンは彼女の緋色の髪を一房持ち上げて、唇を寄せた。
「し、シオン様!」
彼は目だけを上げ、彼女の表情を観察する。林檎のように顔が真っ赤だ。少しは意識してくれているのだろうか。
「こんなこと、他の方にしてはいけませんよ! 自分が特別な存在だって勘違いしちゃいますから!」
「その通りだが?」
「ご冗談を! 私を練習相手にするのもほどほどにしてくださいね! 心臓がもちませんから」
彼女が頬を赤らめて笑みを浮かべるのを見て、シオンは小さくため息をついた。




