99 必要なもの
戻ってきた龍弥が雷雅に渡したのは小さな紙袋だ。雷雅の母親・早紀が雷雅の臍の緒の箱に隠して雷雅に託した、あの指輪が入っている袋だ。男が『あっ』と声をあげる。
「それは……十八の誕生日に用意したシュシュが入っていた袋です」
男の言葉を無視し、雷雅は袋の口を広げて中からリングを一つ取り出しテーブルに置いた。
男からのプレゼントが入っていた袋まで、早紀は大事にとっておいた……そう思うのは、なんだか気持ちが重い。たまたま手持ちにあった適当な大きさの袋を使っただけだと思いたかった。その証拠にシュシュなんかないじゃないか――
テーブルに置かれたリングに男が懐かしそうな顔をする。
「あなたが母に贈ったリングですね?」
「えぇ、間違いないです。わたしの精一杯でした」
手に取ろうと伸ばされた男の手からサッと雷雅がリングを遠ざけ、自分の手元に置いた。
雷雅は袋の中からもう一つのリングを取り出し、同じようにテーブルに置いた。
「このリングはご存知ですか?」
「わたしが早紀に贈ったものとよく似ていますが、初めて見るものです」
「どうぞ、手に取ってよくご覧ください」
複雑な表情を見せた男が恐る恐る手を伸ばしリングを手に取る。
「これは……早紀がわたしに?」
刻印に気が付いた男が雷雅の顔を見る。
「いつか渡そうと思っていたのだと思います。あいにくそのチャンスは訪れなかったようです」
「嵌めてみても?」
「サイズが合うかどうかは判りませんが――お好きになさってください。それはあなたに差し上げます」
好きにしてくれなんて本心じゃない。触られるのもイヤだ。でもきっと、このリングを母さんはコイツに持っていて欲しいと思っている。自分をそう納得させる雷雅だ。あげてしまえば僕はもう触らなくていいし、見なくて済む。だからこれでいいんだ。
嬉しそうで照れくさそうで、そのくせ苦しげな男の顔、リングは指にぴったりだった。それを見ながら雷雅が問う。
「その指輪と、僕にはあなたが母に贈った指輪、これが形代になりませんか?」
「うん、試してみる価値はある」
気は進まないが仕方がない……口にはしないがそう思いながら、雷雅はテーブルに置き去りにしていたリングを手に取った。なんだか今日はすごく熱い。火傷しそうなほどだ。そう思った時――
「えっ?」
「なに?」
雷雅と男が同時に小さな叫び声を上げ、食い入るように互いに相手の顔を見た。二人とも緊張で身体が強張る。
「ライ!」
慌てて龍弥が雷雅を守ろうと手を伸ばすが、何かに弾かれて触れない。
「てめぇ、何をした!?」
いきり立つ煌一が男に掴みかかろうとする。が、やはり拒まれ、反動で後ろにひっくり返る。
「煌一さま!」
異変に立ち上がっていたマスターが煌一に駆け寄り、立ち上がる手助けをした。
ひなただけは少し驚いただけで、身動きせず、声も出さず、雷雅と男を見比べている。雷雅も男も見つめ合ったまま、表情を動かすこともなく、もちろん身体も動かさない。
立ち上がった煌一がひなたに尋ねた。
「何が起きているのか判るか?」
チラリと煌一を見たひなたが
「うーーん、たぶん、早紀さんが掛けた術が発動したんじゃないかな? しばらく待つしかないみたい。リングに残された早紀さんの思いが、二人に流れ込んでいるように感じる――二人に危険はない。陽としての雷雅が凄いのは早紀さん譲り、いや、それだけじゃない、か……」
と、最後は独り言になったが、『マスター、アイスコーヒーちょうだい』と、いつもの調子でマスターに甘える。
はい、ただいま、と、おどおどしながらマスターは答え、カウンターに向かう。煌一は呆気に取られて雷雅と男を見ていたが、龍弥が座り直したのを見て、自分も椅子に腰かけた。
ふと思い出したのか、
「話は変わるけど、災厄魂の集計の件、複数の支部から待ってくれって言って来てて……なんかさ、もう要らないって言うか、急がなくて良さそうだよね?」
呟くようにひなたが言った。
「本部長が決まって、全体の体制が整ってからでいいって、変更しようかな?」
腕を組んで目を閉じていた煌一がそのままの格好で答えた。
「そうだな、落ち着いたらでいい……一年分を集計することにしたと言って、一月から十二月までを月ごとに集計、来年三月末までに提出とでもしたらどうだ? いまさら『要らない』とは言えない。おまえが言っていたシステム作りの参考になるだろう?」
うん、そうする――ひなたがキーボードを叩き始めたのは変更を知らせるメールを作成するためだろう。
マスターが運んでくれたアイスコーヒーにガムシロップを落としながら、煌一がポツンと言った。
「あの指輪、嵌められなかったんだよな?」
クスッとひなたが笑って答える。送信作業は終わったようだ。
「雷雅とあの人以外には、ってことだよね」
「そう言えば、おまえに結婚指輪もまだやってない」
「やってくれなくて結構、贈りたいって言うなら受け取る」
「揚げ足とるなよ――結婚指輪は夫婦で交換するんじゃなかったっけ?」
苦笑する煌一に、ひなたが畳みかける。
「結婚式もまだだし、新婚旅行も行ってない」
「結納だけか、ちゃんとしたのは」
「お義祖母ちゃんのお陰。婚約が決まった時に、そういうのはきちんとしなさいって言ってくれたから」
煌一が黙り、ミルクポーションも入れてストローでかき混ぜた。
黙ってしまった煌一をクスッと笑ってから、ひなたが視線を雷雅たちに戻す。
「あの二つのリング、朱方さんが受け取り、同時に雷雅が早紀さんのリングを持ったら、それは二人が出会ったってことだと早紀さんは考えたんだ。同時にってのが大事……朱方さんに言おうと思っていたこと、雷雅に言おうと思っていたこと、それを早紀さんはあのリングに秘めた。その時、自分はきっと一緒にいない、そう知ったから――多分、こんなことが起きるのはこれっきり」
ひなたの声は最後にため息に変わった。
静かな時間が過ぎていく。今日の陽だまりにはいつものBGMもない。そう言えばここのところずっとない。それを龍弥が思い出す。習慣を変えず、仕事に抜かりのないマスターらしくない。
(ライ……)
意識に呼び掛けても応えない。陽が、雷雅の母親が掛けた術が俺を拒んでいる。一抹の不安、このままライは俺から離れていきはしないか? いや、そんなはずはない。ライには俺が必要だし、俺にはライが必要だ。そう、互いに必要なはずだ――そうだよね? ライ……
龍弥が雷雅をぼんやりと見る。
「ライ!?」
龍弥が小さな叫びをあげる。驚いた煌一やひなたも雷雅を見る。マスターが腰を浮かせた。
「ライ……なんで泣くんだよ? おまえ、今日は泣き虫だな」
身動きせず、表情も変えず、見開かれたままの雷雅の目から、湧きだすように涙が頬に零れ落ちる。拭ってやりたい龍弥の手が雷雅に届かず、宙を彷徨ってから自分の顔に向かう。龍弥の手は雷雅ではなく龍弥の涙を拭った。ひなたがそっと龍弥の肩に手を置いた。
「朱方さんも泣いているね」
ポツリとひなたが言った。
見ると朱方も雷雅と同じように、表情のない見開かれた目からポロポロ涙が溢れては流れている。
「辛くても、最後に幸せが残る涙だといいね。多分そうなるよ、早紀さんが雷雅を思わないはずがないもん」
ひなたに答える者はいない。同じ事を祈るしかなかった。
時は止まることを知らず、不安の中を過ぎていく。思い出したようにマスターが立ち上がり、
「そろそろ夕飯の支度を――その……お客様の分もご用意いたしますか?」
と言ったのは、十九時になろうという頃だった。
チラリと煌一を見るひなたから顔を背ける煌一、ひなたがマスターに
「ライガが戻らなきゃ判らない。どちらにでも対応できるようにして」
と答えた。煌一が顔を背けたのは好きにしろという事と受け取ったのだ。
「では、カレーにいたしますか――シーフードにして、夏野菜と茹で卵をトッピングいたしましょう」
「夏野菜、なにがあるの?」
不安げなひなたに
「ご安心ください、お嬢さまにズッキーニはお入れしません。そうそう、龍弥さまはピーマン抜きでしたね――それと、そうですね、タラモサラダを添えたグリーンサラダ……うーーん、わたしも自覚がないまま、かなり疲れているようです、次が思い浮かびません」
「それだけで充分だよ。いつも贅沢し過ぎなんだ。いや、もちろんマスターに感謝してる。でも今日はマスターも頑張らなくっていい。明日はもっと大変だから」
煌一の静かな声がした。
「それじゃ、デザートはアイスクリーム系にして」
遠慮のないひなたの声、こんな時でも食欲旺盛だな、呆れる煌一をまるきり無視するひなただ。
それを雷雅がクスッと笑った。
「食欲がないひなたさんじゃ、心配でしょ? 煌一さん」
「ライガ!」
雷雅の影たちが、一斉に雷雅の名を呼んだ――




