96 事はいつ起きる?
ひなたは笑みを浮かべたまま、さらに続けた。
「朱方さんの意見を求めてはいません――影の中にも現状を良しとしない者もいると知っていていただきたいだけです」
ひなたがコーヒーを手に取る。男は何を言ったらいいのか判らなくなっているようだ。
カップを置いてから、再びひなたが男を見た。
「あともう一つ、確認しておきたいことがあります。これは陽とか影とか、そんな事とは別の話です。話しの順番が多少違っているのですが――実はわたし、裁判所が認めた暁月雷雅さんの未成年後見人です」
「えっ? あ、いや、そうですか」
男が一瞬、ひなたを見つめ、チラリと雷雅を見た。
「で、確認しておきたいことですが、雷雅さんをどうするおつもりか、お聞かせください」
「どうするって?」
たじたじと、男がひなたを見る。
するとひなたが少し笑った。
「どうやら、なにもお考えではないようですね――雷雅さんはお母さまを亡くされて一人になってしまいました。朱方さんが希望されるなら、監護権を主張することも可能です」
「ちょっと、なに言いだすんだ?」
慌てたのは雷雅だ。龍弥も驚いてひなたと雷雅を見比べる。男は意味がすぐには飲み込めないようだ。
いきり立つ雷雅に宥めるような笑みをひなたが見せる。
「だってライガ、キミのお父さんだ」
「なに言ってる? 血の繋がりなんかで縛られるもんか」
「あ……」
ここでやっと男も気付いたようで、打たれたような顔で雷雅を見た。
「あ、いや……」
戸惑う男を雷雅もチラリと見、そしてひなたに向かう。
「向こうだってそんな自覚はこれっぽっちもない――あ、それともひなたさん?」
さっきとはまた別の嘆きが雷雅を襲う。どうしようもなく心が揺れて、途轍もなく胸が苦しい。
「もう、僕の面倒は見たくなくなった? イヤになった? そりゃそうだよね、なんで他人の面倒見なきゃって思うよね?」
「ライ――」
ポロポロと零れる涙を隠そうともしない雷雅、その肩を龍弥がゆっくりと抱き寄せる。
「ライ、落ち着いて。ひなたさんはそんなこと、一言も言ってない」
「だって……」
龍弥の胸に顔を埋めて泣く雷雅の背にひなたがそっと触れる。
その様子に男が小さく息を漏らす。
「わたしはともかく、本人が『うん』とは言わないようです」
「わたしは朱方さん、あなたの意思をお尋ねしたのですよ」
ひなたの言葉は疑問ではなかった。そして少しばかり怒気を含んでいる。
「まぁ、よくお考えください。どのみち焔の件が片付かない限り、雷雅さんをお渡しするわけにはいきません」
そしてひなたは雷雅に向かい、その背をゆっくりと撫で始めた。
「ごめんね、ライガ、驚かせたね。でも、考えなければいけないことなんだ――心情は別として、父親であるという事実は動かせない。朱方さんにはライガとの親子関係を回復させたいと望む権利がある。雷雅と暮らしたいと言われれば考えなくてはならない。いいか、考えなきゃならないんであって、そうしろとは言ってない。それにわたしとしてはライガを渡す気はこれっぽっちもない。要求されたら対抗する」
「本当に?」
これじゃあ小さな子どもみたいだ。自分でもそう思うのに、どうにもできずに泣きじゃくる。母さんが亡くなった時でさえも、これほど心細くならなかった。あの時はひなたがいた。龍弥がいた。ここから放り出されたら、僕はどうしたらいい?
「本当だよ――でも、この人が自分の父親だってことは判っているんだろう? それがどういうことなのか、雷雅はじっくり考えなくちゃね。今すぐ答えを出せとは言わない。じっくり考えればいいんだ」
「でも……」
どんなに考えたって答えは変わらないように思える。昨日今日出てきたヤツが父親だって? 僕と母さんがどんな暮らしてきたか、コイツは少しも知りやしないのに――
雷雅の気持ちを読み取ったわけではないだろうが、ひなたがぽつりと言った。
「早紀さんの気持ちも少し考えてみようね」
――母さんの気持ち……雷雅の涙が急に止まる。
ひなたが龍弥に頷いて、雷雅の背から手を放す。龍弥が雷雅に寄り添い直す。それを見てひなたは煌一にも頷いた。
「さて、朱方さん。あなたの父上を止める算段はあるのですか?」
煌一が男に言った。
男は煌一を気にしながらも雷雅が気になるようで落ち着かない。が、雷雅が龍弥から顔を上げ、ごしごしと顔を擦ってから居並ぶ影たちと同じく自分を見ると、複雑な表情を浮かべた。それから表情を引き締め、煌一に向き直った。
「兄は炎影照晃氏、母は月影静流氏と、それぞれ連絡を取り合っています。まずはそれぞれにどんな話をしているのかを聞いていただきましょう」
炎影氏に対しては影の一族内の政治について、能力を重視し過ぎではないか、もっと人間性や知識、統率力、そういったものを考慮してもいいはずだ、と持ち掛けています。
「照晃氏は影の能力に関してコンプレックスがある。神影煌一氏、月影静流氏に比べると数段劣ると自覚している。公的な職業に医師を選び、指揮官としても温情派と言われる振る舞いをし、炎影流の隆盛に力を注ぐのは、そのコンプレックスの裏返しです。だがそれはまた、彼の自己顕示欲の表れと言えなくもない」
影の能力による支配に別れを告げ、それ以外にも注目する仕組み、それが実現できれば影の一族を率いていけるのは照晃氏をおいて他にいない――兄はそう照晃氏に吹き込んでいます。
「静流氏は自由を求める気持ちが強い。高校・大学と普通に進学したのもその現れです。それと同時に自分が持つ影としての能力にも自信がある。また、月影流が他の影の前に出ることなく、いつも後ろに控えていることにも不満を持っています。ただ、彼の場合、月影を前にというのではなく、能力のある者は流派を問わず活躍できる場を与えたほうがいいというものです。現状、影がチームを作る場合は流派ごと、それを撤廃したいと考えています」
それには神影・炎影に月影が劣るものではないと見せつけるのが一番、まずは神影煌一を倒し、ひなたさんを開放してあげたらどうだろう? 母はそう静流氏に囁きました。煌一さんとひなたさんの結婚が神影流の圧力によるものと思い込んでいた静流氏は母の提案に頷きました。
「炎影にしても月影にしても根底は影の一族の、よりよい未来を願う心です。幸せを求めています。ここに兄は注目しています。影の結束が破れることはないと信じているのです」
ここで煌一が少し皮肉な笑いを見せる。
「静流を俺にけしかけておいて、結束が破れることはないだと? 随分矛盾しているんじゃないのか?」
「静流氏は聡明ですが、まだ若い。また、次期当主と言われてはいても、まだ当主の責任があるわけではない。その若さや身軽さがあるからこそ、静流氏は母の言葉を受け入れたのです。けれど事が起きれば自分がするべきことを間違わない。聡明さを発揮するはずです――勝手な言い分ですが、どうぞ静流氏の挑発に乗らないようにしてください。異変は今すぐにでも起こりえる状況です」
「異変ね――朱方さん、あんたの親父が動くのはいつだ?」
煌一が男を睨みつけた。




