9 闇という名の魔物
エレベーターの塔屋と電気室、屋上にはそれしかなかった。あとは全面駐車スペースだ。そしてひなたが言っていたように、駐車されているのは自分たちが乗ってきた車だけだ。
その広々とした空間の中央が投光器で取り巻かれ、明々と照らされている。投光器は全部で八台、その近くにはそれぞれの後ろに人が立っている。それが全部で八人、中央寄りに投光器の光に照らされて立つ影が九人――いや、九体か。本体の一人はここに居ないんだ、ひなたに教えられたわけでもないのにそう思った。
雷雅が急いで自分の影を見る。すると、ひなたの本体から伸びた影が雷雅の影をすっぽり覆っていた。僕の影はひなたの影に守られている、漠然とそう思う。そしてひなたの本体は、場の中央、照らされた場所を見つめている。
「あそこにいるんですね?」
雷雅の呟きに、ひなたが頷いた。
見えるわけじゃない。だけど、あそこには確実に何かいる。靄? 霞? 違う、もっと違う何か――投光器とソイツの間に立ちふさがる影の影がそこまで伸びてぷっつり消えている。ソイツがいるから消えるんだ、きっとそうだ……
影の一人が振り向いた。凹凸のない影なのだから、顔どころか前も後ろも判らない。でも、振り向いたと思った。その影はこちらに近づき、投光器の光から出てきた。
「ひなた、お子ちゃまのお守は任せたぞ」
煌一の声だ。あれ以来聞いていないが、この横柄で偉そうな声は煌一に間違いない。お子ちゃまと呼ばれるのは心外だが、雰囲気に呑まれて抗議もできない。
ひなたが中央部から目を離さずに頷き、煌一の影に訊いた。
「どんな様子なの?」
「災厄魂の中に何かがいる。人か、それとも別の何かか……炙り出そうとしてるんだが、巧く行かない。表面の災厄魂をこれから引き裂くところだ。分裂して災厄魂の数が増えるが仕方ない。弱体化するからどうせ同じ労力だ」
「中に人? 能力者?」
「はっきりしないが、災厄魂に憑りつかれているわけじゃなさそうだ。飲み込まれているだけか、最悪、災厄魂を操っているのか。何しろ正体を見極めるのが先だ」
「災厄魂を操る?」
「うん……」
煌一がちらりと自分を見たと、雷雅が感じる。
「まぁ、明らかになってからだな――お子ちゃまに呪文は教えたか?」
「うん、教えた。試せないのが辛いね」
「まぁな――どうしても中にいるヤツを引っ張り出せない場合は、災厄魂を吹き飛ばす。今回のミッションの最終手段だ。合図するまで動くなよ」
「判った」
煌一の影が元の位置に戻っていく。
ひなたが雷雅の手を握った。ハッと雷雅がひなたを見る。ひなたが雷雅に頷きかける。
「いいか、ライガ。この手を離すなよ」
雷雅は黙って頷き返した。
光の中で影が跳躍する。見えない何かが藻掻き始める。影が何か言っている。耳に聞こえない声、静けさに紛れ込み、街の雑踏が遠くに追いやられ、胸の奥深くで共鳴する。
知っている――雷雅の意識が音の正体を思い出そうと沈んでいく。祝詞?……判らない、けれど祝詞に似ている。遥か昔に聞いたことがある。あれはいつだ? どこでだった?
ズンと空気が振動した。災厄魂が一回り大きくなっている。違う、災厄魂は影たちに取り囲まれ引っ張られ、裂けそうなのを堪えている。八体の影から伸びた手が災厄魂を掴み、八方に広げようと力を込めている。
ズズッ! 続く振動、雷雅の手を握ったひなたの手に、さらに力が籠められる。見詰める先の災厄魂が徐々に千切れていくのが判る。その裂け目の奥で、何かが蠢いているのが見える。どす黒い? 暗い? あれは――
「闇だ! 伏せろ!!!」
煌一が叫んだ。
ドン! 耳をつんざく大音響、押し倒された身体の上に感じる誰かの重さ、ミシミシと大気が軋む。何が起きた? 落雷? あの大きな音は雷鳴か?
頭を上げようとした雷雅の目の前にはひなたの顎、雷雅の額がひなたの頬に触れている。動揺する雷雅からひなたの顎が遠ざかり、身体にかかっていた重さも消えていく。
「起きろ、ライガ、帰るぞ」
「えっ?」
慌てて身体を起こし、周囲を見る。
「投光器は? ほかの人は?」
「災厄魂を追っていった」
「取り逃がしたってこと?」
不機嫌な顔のひなたがチラリと雷雅を見た。
「イヤな言い方をしてくれる――とりあえずわたしたちは『陽だまり』に帰る。話は帰ってからだ」
停めていた車に戻る途中でひなたが振り返る。
「そう言えばライガ、車酔いはもういいのか?」
吐き気はどこかに消えた……そう思った途端、激しい吐き気に見舞われた――
テーブルに突っ伏した雷雅の隣でひなたがショートケーキを食べている。降りるときもグルグルと振り回され、街中は信号無視でぶっちぎり、ますます激しく酔った。おぼつかない足取りでやっとのことで店に入り、いつもの席に座るとそのまま倒れ込むようにテーブルに頭を投げ出して目を閉じた。
ひなたは例によって空腹を訴え、ショートケーキのほかにパンケーキをリクエストし、キッチンでマスターが今、焼き始めたところだ。コーヒーの匂いでさえ気持ち悪いのに、パンケーキの焼ける匂いが雷雅の吐き気に拍車をかける。
「トイレに行って戻してきたら? そのほうが楽になるよ、きっと」
ケーキを食べながら、よく言えるもんだと雷雅が呆れる。
「煌一さまが『闇』だと仰ったのですね?」
パンケーキの皿をテーブルに置きながらマスターがひなたに問う。
「うん……想像以上に厄介なことになったね」
「こうなると、お嬢さまが雷雅さまと巡り合ったのも偶然とは思えなくなってまいりました」
「やっぱりライガと関係してるかな?」
「どういうこと?」
テーブルに伏したまま、やっとのことで雷雅が言う。
「僕に関係してるって?」
ひなたとマスターが顔を見かわしたが、テーブルに伏せたままの雷雅には見えなかっただろう。
「お嬢さま、アイスコーヒーのお替り、お持ちしますか?」
「うん、お願い」
「ねぇ、なんで僕を無視するんだよっ?」
マスターが遠ざかる気配がし、ひなたがクスリと笑った気がした。
「ライガ、おまえ、割といい身体しているな」
「はぁ?」
「さっき、おまえに覆いかぶさった時、服の上からでもよく判った。残念ながら、上半身だけだがな。今度は下半身――」
「なに言ってんだよ?」
「おまえもわたしの身体を感じただろう? 特に胸の――」
「馬鹿言うなっ! それどこ……」
ろじゃなかった、そう怒鳴ろうとして急に身体を起こした雷雅を、強烈な吐き気が襲う。
「汚したら綺麗にしとくんだぞ」
慌ててトイレに駆け込む雷雅に、ひなたの笑い声が追い打ちをかけた。
やっと治まった雷雅が戻るとすぐに、マスターが熱いおしぼりと日本茶を出してくれた。
「少ししたら空腹を感じるでしょうから、仰ってください。お粥の準備ができていますからね」
「お粥、いいね。わたしも一緒に食べる」
雷雅の返事より先にひなたが答え、本当によく食べると雷雅がしみじみ思う。
そんな雷雅にひなたがいつになく優しい笑みを向けた。
「あの災厄魂は闇を内包したまま日光方面に逃げたそうだ――煌一たちが後を追っている」
「日光?」
「うん。だが、日光を拠点としているわけじゃないと煌一は見ている。多分、煌一たちはどこかで見失う。何かの影に紛れ込んだ闇を見つけるのは、いくら影の一族でも難しすぎる。放っておけないから追っているだけだ」
「どういうこと?」
「国に見せる建前ってやつだ。もっと綿密に調査して作戦を立てなければ、この災厄魂――闇はつぶせない」
「そこまで大物なんだ?」
「大物……そんな可愛いモンじゃない――ライガ、戦争が始まるかもしれない」
「へっ?」
「人間界の戦争ってわけじゃない。ま、人間界の戦争に発展する可能性もなくはないけどな――陽と影バーサス闇……災厄魂の何倍、何十倍、いいや、何百倍も面倒な闇が出現した」
陽と影は言わば表裏一体。陽がなければ影は存在できず、影があってこそ陽は輝ける。だが、闇は異質だ。闇の中に陽が入れば、それはもう闇ではなく、影だ。陽と影は共存できても、闇は共存できない。
「だから闇は太古から、陽を憎み、影を妬んだ」
「闇って……普段言ってる『闇』とは違うの?」
「そうだね、普段言っている闇は本来の闇じゃない。昼は陽で満たされ、夜であろうと月や星の光が存在する、それが我らの世界だ。そこに闇は存在しない。日常会話に出てくる闇は、闇に似た影に過ぎない」
常に陽と影は人――生命と共に存在している。生命にとってなくてはならないものだ。陽の届かない深海であっても、厳密には闇ではない。上昇すればそこは陽と影が存在する一続きの世界だ。だが闇は違う。闇は生命を存続させることができない。
「闇は陽と影を憎み、そして生命を憎んでいる。闇が災厄魂を手中にするのは、憎き相手を滅ぼし世界を闇で包み込むためだ」
「でも、そんなことをして闇に何の得があるんだ?」
「ライガ、やっぱりおまえ馬鹿だな――自分たちが存在するために、己を消滅させた相手を滅ぼすんだ。その事に、なんの理由が必要だ?」
「って、闇は消滅させられた存在ってこと? 消滅させたのになんでまた出てきたのさ?」
「闇は日々生み出されては昇華され、滅多に実体を伴うことがない……だが稀に今回みたいに実体化し、災厄魂を巻き込みんで、攻撃を始めることがある」
「実体化するとどうなるの?」
「実体を伴うことで仲間を集めることが可能となり、いずれ大きな塊となる。その前に消滅させる」
「そっか……生産されれば消滅させる、そういう事なんだね。でも、それじゃ、いつまで経っても鼬ごっこだ、日々生産されるなんて。どこで生産されるんだ? そこを叩くことは無理なの?」
「うん、無理――闇を生み出すのは我々、人間の心だからね」
悲しそうな顔でひなたが雷雅を見た。




