89 会わない約束
早紀の父親の都合を確認して、前回と同じシティホテルに部屋を取りました。そしてわたしは兄と、早紀は父親とホテルに向かいました。
早紀の父親は兄の話に最初こそ顔色を変えたものの、最後まで黙って聞いてくれました。
「兄が話したのは父の計画だけでした――わたしと早紀のことは自分たちで言うように、もちろん応援すると兄に言われていました」
父の計画の、その時点で判っている限りを兄はすべて話したのだと思います。それはわたしと早紀に話してくれたこととほぼ同じ内容でした。ただ兄は、早紀との婚約を、拒否するものではなかったけれど、望んだものでもないと言いました。このあとに控えている、わたしと早紀の問題、それを複雑にしないためにそう言ってくれたのだと思います。
「一通り話を終えた兄は、早紀の父親に意見を求めました。そして、どうなさいますかと意思を尋ねました」
静かな生活を望んでいるのです――早紀の父親はわたしたちの父の計画に協力する気はないし、妨害する気もない、関わりたくないと言いました。なんでそんなことを考えるようになったのか、理解できないとも言いました。
「世の中は表面上平和だ。少なくとも日本は、大勢が殺しあわなくてはならない状況ではない。陽と影の能力を殺りくに悪用しようとする動きも感じられない……早紀の父の陽としての能力はさして強いものではありませんでしたが、社会情勢の見極めに特化されていることを、兄もその時知ったようです」
覚醒したばかりの雷雅は気が付いているかどうか――陽も影と同様、特化された能力を持つ者が現れることがあります。他の同族が持たない能力です。父の早紀の父親への評価は低くいものでしたが、それは早紀の父親の特殊能力に気が付いていなかったからだと思います。もし知られていたら、そのあと行方不明になった早紀たち一家をなんとしてでも探し出していたことでしょう。
「父から逃げたいとは思いませんか? 兄は早紀の父親にそう言いました。逃げるという事は今の生活を捨てるということになりますね、早紀の父親はそう言ってから、『逃げなくても、今の生活を続けることは無理でしょうね』と苦笑しました」
父に知られていない別荘があるから、そこに暫く隠れようと早紀の父親は言いました。父に知られる前、早いほうがいいと、帰宅したら支度して別荘に移ると言う早紀の父親、それに早紀が戸惑い、兄が腕を組み不服を示しました。兄の不服は早紀の父親ではなく、わたしに向けたものだと思いました。
「わたしの番が回ってきたわけです――なんと言うのか色々考えてきたものがすべて飛んでしまい、心臓はバクバク音を立てていました。一番の心配は反対されることでした」
いきなり床に手をつき頭を下げたわたし、どうした? と驚く早紀の父親、あとから早紀に聞いたところによると、この時は兄も優しく微笑んでいたそうです。
「早紀さんと結婚させてください、わたしの言葉に早紀の父親は絶句しました。それはそうかと思います。たった今、兄との婚約を事実上解消した、そこへその弟から結婚を申し込まれる、悪い冗談かと思いたくもなります」
黙り込んでわたしを睨みつける早紀の父親、兄はわたしが結婚を申し込むとは思っていなかったようで、驚いて少し顔を曇らせました。早紀は慌ててわたしの隣に並んで、お願いしますと同じように頭を下げました。
「早紀の父親は、二人は付き合っていたんだね、と呟きました。二人の仲を裂こうとは思わない、とも言いました。でも、わたしの父に知られずにこれから先も付き合っていけるか疑問を持ち、それに何も急いで結婚することもないだろうとわたしと早紀を諭そうとしました」
早紀さんのお腹には僕の子どもがいます……叫び声になっていました。二人で育てたいんです、お願です、そんなことを繰り返し訴えたように覚えています。実のところ、はっきりとは覚えていません。必死だった、それだけは言えます。
「憤りで早紀の父親が真っ赤になったことも覚えています。そして早紀の、『ママは許してくれた』という一言で真っ青に変わったのも覚えています」
早紀の母親は早紀の変化に気が付き、早紀を問い詰めたそうです。悪阻が始まっていました――泣きじゃくりながら打ち明けた早紀の肩を抱いて、大丈夫、味方するからと早紀の母親は言ったそうです。安心して産みなさい、と。
「結婚するかしないかは別の話、それはよく話し合って決めるといい――赤ちゃんを産む産まないは、本当なら親になる二人で話し合って決めること。だけど、もしもパパが反対し、赤ちゃんの父親が了承しなかったとしても、どうしても早紀が産みたいのなら、ママは応援するから……早紀の母親はそう言ったそうです」
それを聞いた早紀の父は反対しても無駄だと思ったのでしょう。力なくソファーに凭れました。そしてわたしではなく早紀に、後悔は許さないと言いました。その覚悟があるのか、と訊いたのだとわたしは思いました。『ありがとう』と早紀が言うと、フンといったん目を逸らしてから、早紀の父はわたしを見ました。『いつかこうなると思っていた』と、今度はわたしに言いました。
「わたしの父が早紀の相手に兄をと言った時、一番に思ったのは、なぜキミではないのかという事だった。幼いころからキミたち兄弟を知っている。早紀の気性を考えると、いつかキミに恋をするかもしれないと思っていた。キミが早紀の気持ちに応えてくれたらいいとも思っていた。キミが息子になるのも悪くないと思っていたんだ。アキラくんじゃダメだという事じゃない。早紀ならそうだろうってことだ。だが早紀を泣かせたら許さない――早紀の父親の声からは、泣き笑いの中に怒りのようなものも混ざっていたと思います」
見守っていた兄が結婚は待ったほうがいいと言ったのはこの時でした。
「結婚すれば戸籍を動かすことになり、父にこちらの動きを知られてしまう。認知も同じ理由で出来ない。父を説得できるまで結婚も認知も待って欲しい――兄の言葉に愕然とするわたし、早紀はそれでもいいと言い切り、早紀の父親は考え込んでしましました」
早紀の妊娠・出産、これは父が改心するまで決して知られてはいけない――父が兄と早紀を結婚させたかったのは陽と陽の間に生まれる子の能力を欲しがったからだ。例え父親が兄でなくても陽であるわたしの血を享け、早紀が産んだ子ならば父は必ず手に入れようと動く……兄の意見はもっともなものでした。
「改心させる自信はあるのかい? 早紀の父親が兄に尋ねます。兄はそれに正直に答えます。判りません、でも全力を尽くします。父の計画は許容できるものではありません。なんとしてでも阻止します」
早紀の父親はそんな兄をしばらく見詰め、そしてわたしを見詰め、最後に早紀を見詰めました。
「愛し合い、子どもが生まれ、結婚したい、共に暮らしたいと互いに望み、けれどそれが叶わないこともある。生涯かけても、だ。それに早紀は堪えられるのか?」
その問いに早紀は自分の父親から目を逸らすことなく、『後悔しないと約束します』と答えました。
「その時わたしが感じたのは、もちろん責任もありますがそれ以上に、責任を負わされる喜びだったと言ったら、雷雅、キミは軽蔑するかもしれないね。間違いなく愛されている、その愛に応える責任が自分にはある。それはこの上もなく幸せを感じさせるものだったんだ」
早紀、そして生まれてくる子と一緒にいられないのは苦痛だった。けれどそれが二人を守るのなら辛くはなかった――早紀の父親は早紀の返事に頷くと、わたしに微笑んでから兄に向かいました。
「今からスマホを買いに行きましょう――今使っているものはそのままに、連絡用に父の知らない番号を持つ。費用を兄やわたしが支払えば父に気付かれる心配があると、費用も名義も早紀の父にしよう。費用は振り込むという兄に、振り込みの痕跡も残さないほうがいいと、聞き入れては貰えませんでした。その代わり、父を改心させられるまでは早紀たち家族には会わないと約束して貰いたい」




