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神影ひなた の シャドウ・ビジネス  作者: 寄賀あける
第3部 愛と憎しみに導かれて

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87/120

87  ホテルへの呼び出し

 待ち合わせたのは早紀(さき)が住むマンションの非常階段でした。二十階建てのそのマンションの外階段、ドアはもしもに備えて施錠されることがなく、かと言って風防から開け放しはない。開閉時には(きし)んだ音がし、誰かが来ればすぐに判る……まさにわたしたちに打って付けの場所でした――早紀は一足先にエレベーターで十九階に、わたしは十八階に、そして人目を気にしながら軋むドアをできるだけ音を殺して開けると階段に出ました。待ち合わせは中間の踊り場です。


「階段に座れば外部からも見られることはありません。雨が降っていなくてよかったと思いました。先に来て座っていた彼女より、一つ上の段に座ったわたしに『少しくらい足が長いからって見せびらかすつもり?』と、早紀は冗談を言って笑いました。並んで座りたかったのかもしれません。でも、狭い階段で、隣に座れば触れてしまいそうでした。一段ずらしてさえもわたしの心臓は音を立てていたんです」


 冗談に笑いもせず難しい顔をしたままのわたしに、早紀の顔も曇ります。彼女にしてみれば以前のように打ち解けて話したかったのでしょう――そんな彼女に何も言わず、わたしは小さな包みを差し出しました。


「わたしが早紀に選んだのはシュシュ、その頃の早紀はいつもポニーテールにしていたからです。買った店が入れてくれた小さな紙の袋、リボンも何もなし、しかも値札がついたまま――中を見た早紀が、なにこれ? と不思議そうに問いました。早紀がシュシュを知らないはずもなく、趣味に合わないか、わたしからは受け取りたくないんだと思ったわたしは、返せと早紀から取り上げようとしましたが、返してくれません」


 返せ、返さない、と言い争ううち、早紀が訊きたかったのは、どんな理由でわたしが早紀にシュシュを渡したかだと気づきました。


「誕生日、まだだったから、そう答えたわたしに早紀は、誕生日なんて忘れてた、と少し寂しそうな顔をします。なにも用意してない、とも言いました。気にしなくていい、そう答えながら、ここに来る間に考えていた、早紀への告白のタイミングを失くしていることに気が付きます。シュシュに喜んでくれたら、気持ちを打ち明けようと思っていたんです」


 早紀は兄と結ばれる運命なんだ、だから告白が巧くいかない――誕生日はあんなことになったし、今日だって、もうきっと言えずに終わる。泣きたい気分のわたしに、早紀はシュシュを見ながらこんなことを言い出したのです。


『ねぇ、知ってる? 男の子が女の子にシュシュをあげるってね、いつかこのシュシュを僕が外すって意味があるんだって』


 えっ? 驚いたわたしはつい早紀を見つめてしまいます。そんなわたしを見つめ返し、早紀は続けました。


『男の子に貰ったシュシュを付けるってね、いつかこのシュシュを外してくれるのを待ってるね、ってことなの』


 何かを懐かしむような男の眼差し、自分でそれに気付き、ハッとしたように雷雅に向かう。


「いや……早紀がその時、思いついたことを言っただけで、そんな意味なんかないんです。でもすっかり騙されてしまってね――と言うより、なんか、話し過ぎてしまったようです。わたしのことはともかく、母親のこんな話なんか、聞きたくないですよね?」


 顔を赤く染めた男を見て、あんたが恥ずかしいだけだろう、と思ったが、雷雅(らいが)は何も言わずにいた。雷雅自身、判断つかなかった。聞きたいのか、それとも聞きたくないのか――男は直後の出来事を聞かなくても判るだろうと言わんばかりに大きく端折(はしょ)った。相思相愛だった、話の流れはその方向だ。惚気(のろけ)になりそうなそんな話は、雷雅にとっては確かに面白くなさそうだ。


「結局、互いの思いを確認しただけでその日は別れました。もちろん、SNSを使って連絡を取り合う約束は交わしたし、なるべく早いうちに兄に打ち明けようとも話しています」


 兄に打ち明けるチャンスはなかなかやってきませんでした。兄は大学進学と同時に家を出て一人暮らしを始め、滅多に顔を合わせることがなかったからです。兄の大学は家から通える距離、部屋を借りる必要もなかったのですが、どうしても一人暮らしがしたいという兄に父が折れたのだと聞いています。でも本当は別の理由があったのですが、そのあたりは後程お話ししましょう。


「わたしたちの父は税理士として開業していて、自宅とは少し離れた場所に事務所を構えていました。兄は経済学部、税理士を目指し、大学卒業後は父の事務所で働くものだとわたしは疑いもしませんでした。表面上は父も兄もそう言っていましたが、実際は少し違ったようです。特に父は、わたしが大学を卒業するのを待って事務所をたたむつもりでいたようです。それを知ったのは、借りていた部屋を引き払った兄が、実家に戻ってきて暫くしてからのことでした。もうすぐ夏休みが終わるころでした」


 早紀とのことを打ち明けていないわたしは合わす顔がなく、どことなく兄を避けていました。兄のほうも戻っては来たもののバイトだなんだと理由をつけて外出ばかり、帰りはたいてい深夜、避けるまでもなく、顔を合わせる機会は少ないものでした。


「わたしと早紀の仲は、卒業式のあの日以来、親密さを増す一方でした。大学は別でしたが、バイト先はすぐ近くを選び、毎日のように会っていました。同じバイト先にしなかったのは、家族に知られることが怖かったからです。秘密の恋、兄を裏切っている後ろめたさ、そして若さ――情熱はわたしたちを翻弄し、この恋を失うくらいなら死んでもいいとまで思い詰めるようになっていきました。それほど……そう思えるほど、二人で過ごす時間は甘く切なく、そして苦しく、幸せに満ちていたのです。苦しささえも二人で味わうものならば幸福に感じていたのです」


 どうしても会いたい、会って話がしたいと兄からメッセージが来た、一緒に行って欲しいと早紀に言われた時、わたしもやっと覚悟を決め、兄に打ち明けることにしました。場合によっては二人で逃げようと早紀とは話していました。


「兄が早紀を呼び出したのは婚約してからこれで二度目、一度目は既にお話ししたように、父から早紀が兄を慕っていると言われたことと、早紀への思いを兄が告げたとき。そののち兄から連絡が来ることはなかったと早紀は言いました。でも、わたしは早紀がわたしに気を使っているのではないかと思っていました。思う相手と婚約したのだ、会いたがるものじゃないか? 会っていないというのは真実だとしても、会いたいという兄のメッセージは初めてではないんじゃないか?」


 どうしても会いたい……メッセージの遣り取りはしても会ってくれない早紀に、兄が(ごう)を煮やしたのではないかと思いました。焦らされた兄の思いも熱くなっている。そんな兄が、わたしと早紀を果たして許してくれるだろうか? かと言って、さらに時間をかける意味はない。むしろ、やっぱり最初に考えたように早ければ早いほうが良かったんだ――


「指定されたのはシティホテルの一室でした。どんな思惑を持って、兄はそんな場所を選んだのか、早紀と一緒にわたしが現れたら、必要以上に兄に恥を掻かせることになりはしないか?……緊張と不安は、きっと早紀も同じだったと思います。ところが部屋で待っていた兄は、わたしを見ると少し驚きはしましたが、来てくれてよかったとわたしを抱き寄せました。兄はわたしがいることで、大きく安心したのです」


 いくら婚約しているとはいえ、そして昼間とは言え、女の子をホテルに呼び出すなんて非常識だし、だいたい二人きりで話す緊張に潰されそうだった……兄の言葉は泣き笑いを帯びていました。そして、ちょうどよかった、とも言いました。早紀に話そうと思っていたことをわたしにも話すつもりだった、これで一度で済む――


 ホテルに呼び出したのは()の話がしたいからだ。他人(ひと)に聞かれるわけにはいかない話をするからだ……

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