86 遅くなった告白
そうか、早紀はわたしの知らないところで兄と付き合っていたんだ――事実を早紀に確認することなく、わたしは父を信じてしまいました。早紀がわたしと親しくしてくれたのは恋人の弟だったから、そう思い込んでしまったのです。優秀な兄に引け目を感じていたのも後押ししたかもしれません。しかし、だからと言ってそう簡単に、早紀への思いを断ち切れるはずもなく、その後のわたしの早紀への態度は冷たいものに変わりました。
「わたしは覚醒の日を含め三日、早紀はその週一杯、学校を休みました――登下校の時間をずらし、早紀が話しかけようとしてもさり気なく避け、クラスメイト達に誘われても早紀がメンバーに入っているときは何かと理由をつけて不参加、思いつめた顔で早紀が涙ぐむこともあり、周囲はわたしが早紀をフッたのだと噂していました」
早紀の涙の原因は急変したわたしだというのは間違いではなかったでしょう。わたしは勝手に『婚約を祝福してくれると思っていたのに、そうではなかったから悲しんでいるのだ』と受け止めていました。
「わたしと早紀は恋愛関係にあったわけではないのだから、フッたフラれたの話ではないのですが、わたし的にはフラれたのはこっちだと思っていました。それを口にすることもできず、受験を終え、卒業式を迎えます」
大学も同じところへ、早紀との約束を早紀には黙ってわたしは反故にしました。早紀の希望で兄との結婚は早紀が大学を卒業してからと聞いていましたから、その四年でわたしも二人を祝福する気持ちになれるかもしれない、そんな期待もありました。わたしだって、早紀にも兄にも幸せになって欲しいと願っています。すぐには無理だった、そう簡単に恋心を消せなかった、きっとわたしと同じ立場なら、誰もがそうなのではないでしょうか?
「卒業式……わたしと早紀は二人揃って遅刻することになります。早紀がわたしを待ち伏せし、わたしをとうとう捕まえてしまったのです」
早紀に気が付いたわたしは、もちろんその日も逃げようとしました。そんなわたしの足を早紀の『助けて』という声が止めたのです。早紀は助けを求めてわたしを待っていたのでした。
「始発から待っていたそうです……何度も待ち伏せしたけど今まで見つけられなかった。今日が最後のチャンスだと思った。だから、どうしても話がしたかったと言っていました。今まで遭遇がなかったのはわたしが毎日時間を変えていたからでしょう。何度も、何時間も待たせたことを申し訳なく思いながら、『兄貴と喧嘩でもしたのかい?』と尋ねたわたし、早紀の瞳は見る見る涙でいっぱいになっていきました。『アキラは関係ない』そう言って早紀は泣きながら、怒っていたようにも思います――アキラというのはわたしの兄です」
いったいどうした? 慌てるわたしに、他人に聞かれるわけにはいかないと早紀は言いました。陽が関係すると察したわたしは駅を離れ、シクシク泣き続ける早紀を連れてカラオケボックスに逃げ込みました。そこでわたしは父から聞いた話とは微妙に違う話を早紀から聞くことになります。
「陽であることを理由に父が早紀の父親を脅し、早紀に兄との婚約を迫ったこと、兄とは婚約が決まってから一度会ったが、それきりずっと会ってないこと――」
脅したなんて聞いていない、早紀も望んでの婚約だと思っていた、わたしの言葉にますます早紀は泣くばかり、兄と結婚したくないという事? そう尋ねたわたしに早紀の答えは『当り前じゃないの』でした。
「そりゃそうだろうな、と思いました。脅されて結婚相手を決められたんだ、そんなのイヤに決まっている。でも早紀が兄を嫌っているとも思えない……あぁ、そうか、相手が兄だろうが誰だろうが、イヤなものはイヤだ、そういう事か――」
それにしてもなぜ、父は脅すまでして早紀と兄とを結婚させたいのだろう? その時はまだ父の企みを知らなかったわたしはその事に気を取られ、考え込んでしまいました。黙り込んだわたしに早紀は兄と会った時のことを話し始めました。
「兄は早紀にこう言ったそうです。早紀が僕を好きでいてくれたなんて、夢を見ているのかと思った。父から聞いた時は、聞き間違えかと思ったよ。でもね、僕も子どものころからずっと早紀が好きだった。残念なのは自分で思いを伝えられなかったことと、早紀から言わせてしまったことだ――どうやら父は随分と作り話が好きなようです。相手によって微妙に違う作り話……父はまさか、兄が早紀に惹かれているとは思ってもみなかった。だから兄が早紀に会いに行くとも、父がした話を早紀にしてしまうとも、予想していなかった」
兄から話を聞いたとき、早紀は一瞬、『それは違う』と言いかけたそうです。でもできなかった。父が脅したことも、兄が聞いた話が作り話だという事も、兄は全く気が付いていない。純粋に、早紀への思いを告げる兄を、傷つけることができなかったのです。
「兄は穏やかで優しい人です。弟のわたしでさえ、兄が怒ったところを見たことがありません。我儘なわたしを窘めることはあってもたいてい笑って許してくれる、そんな兄です――だったら、兄が早紀を好きだというのなら、弟であるわたしは早紀が兄を受け入れてくれるよう心を砕くのが正しいのではないか、そんな思いがわたしの胸を過ります」
兄さんを傷つけたくないなら、結婚するしかないんじゃないのか? 心に切り傷ができるような感覚を味わいながら早紀にそう言うと、『それができるなら悩まない』と言われました。
「結婚は同情でするものじゃない、そう言われればその通り、けれどわたしは『四年で気持ちが変わるかもしれないじゃないか』と言っていました。早紀は『変わって欲しいという事?』と答え、わたしを見詰めました」
変わって欲しくない、いや、そうじゃない、兄を好きになって欲しくない……そんな本心を見抜かれたような気がしました。早紀は一言もそんなこと、言っていません。でも、わたしはそう感じたのです。
「その時、早紀の携帯が着信音を響かせました。卒業式に現れない早紀を心配した担任教師からです――とにかく学校に行こう、卒業式が終わったら必ず話を聞くと早紀に約束させられて、わたしたちは学校に向かいました。途中、わたしの携帯にも担任からの着信がありましたが雑音にかき消されてしまい、学校に着くまで気づきませんでした」
学校に着いた時はとっくに卒業式は終わっていて、教室に入ってきたわたしたちを担任さえもが揃って冷やかしました。それで、仲直りはできたのか、とね――気まずく顔を背け合うわたしと早紀、冷やかしたのは藪蛇だったかと教室は静まり返り、担任が何か冗談を言って場を濁しました。
「ホームルームが終わり、教室の中では級友たちが、あちこちに集まっては別れを惜しんでいました。そこでわたしと早紀は、二人して遅れたのは偶然だと言い、誰もがそれを信じたようです。いろいろ誘いはありましたが、すべて断りました。友人の数人は最後のチャンスだぞ、とわたしに耳打ちしていきました」
最後のチャンス――朝、同じ言葉を早紀から聞いた。そうか、学校に来るだけで早紀に会える、それは今日が最後……早紀との待ち合わせに行く間、その事だけをわたしは考えていました。そしてこうも思ったのです。
「わたしが早紀に自分の気持ちを打ち明けられるのも、今日が最後のチャンスなんじゃないのか? もし四年後、早紀が兄と結婚することになったとしても今なら、そんなこともあったねと、笑い話になるんじゃないのか? このまま何も告げずに別れたら、思いきれるものも思いきれずに引きずってしまうんじゃないのか?」
そうだ、誕生日を一緒に祝う約束も果たせていない。随分と遅れたけれど、捨てることもできず、いつも持ち歩いていたプレゼントを渡そう。そして言うんだ、早紀が好きだと、誕生日に言おうと思っていた言葉、陽であったがために伝えられていない想い――それで自分の中でけじめがつくはずだ、そう思いました。




