84 もう一つの恋
雷雅の対面に座る男が、ふとテーブルのチョコレートに目を止め、手を伸ばす。一粒口に入れ、うっすらと微笑んだ。
「雷雅、キミは大事にされているんだね」
微笑みを消すことなく男が言う。
「わたしが歓迎されているとは思えない。なのに、こんな高級チョコレートを出してくれた……キミに食べさせるためだね」
龍弥が雷雅の意識に向けて、有名な高級チョコレートブランドを伝えてくる。知ってはいるが、雷雅なら絶対買わない高価な物だ。さっき食べた時、こんな状況なのに凄くおいしいと感じた。それはチョコレートの品質が良かったからなんだ――
男はチョコレートを味わうことで、雷雅の日常を夢想しているようだった。大事にされているんだね、そこに感じたのは安堵と後悔が入り混じった複雑なものだ。
自分の子が大事にされていると安心し、手放してしまったことを悔やむ。そうだとしたら、そうだとしたら――
急に男が顔を上げ雷雅を見、慌てて雷雅が顔を背ける。男が雷雅を見たのは口の中の物が消え、話を続けるためだった。
「父から話を聞いた父の母――わたしの祖母は慌てて祖父に連絡を取りました。自分の息子が何を言い出したのか判らなかったのです。祖母は陽でもなければ影でもありませんでした」
祖母から連絡を受けた祖父は大慌てで帰ってきたそうです。祖父は社会に紛れ、平凡な職に就いていました。職場には息子の一大事だと言って帰ったので、交通事故にあったと誤解され、後日、修正に苦労したと父に零したそうです。
「受験のプレッシャーが原因で一時的に錯乱しただけだと、祖父は祖母を誤魔化しました。よく祖母が納得したなと呆れますが、そんな性質だったからこそ、祖父は祖母を選んだのかもしれません」
父は覚醒の前日、祖父から陽の一族のことを聞かされていて、自分の父親は気が触れたのではないかと心配したそうです。ところが翌日には聞かされていたことが現実になった。陽として生まれた者が誰でもそうであるように、父は陽として生きるしかないのだと悟ります――祖父は父に、自分の妻が陽でも影でもないこと、陽と影のことを母親さえも言ってはならないことを父に言い忘れていたようです。
「父から話を聞いた祖父は、大至急でさやかさんの身元を調べました。影は陽を知らなくとも、陽は影を知っています。どんな方法で影が一族を存続させ、一般には知られずにいるか、陽はそのことも知っているのです」
神影家の跡取りだという事はすぐに判ったそうです。そして同じ流派から婿を取ると決まったこともすぐに判りました。妹もいましたが、その娘は事前に養女に出されていて、さやかさんが神影を継ぐことは決定していました。さやかさんの能力がずば抜けていたからです。
「影であれば陽の力を与え、陽として生きて貰うこともできる。ただの狩人だったなら、なんとかできただろう。陽の能力で影から隠すこともできる。だが相手は神影さやか、許すことはできないと祖父は父に言ったそうです。影の一族はなんとしてでも彼女を奪還する。すべての影を敵に回すのは、いくら優位性のある陽であろうが無謀だ。彼女の影としての能力は強力過ぎる」
祖父は療養させる名目で父を隠しました。転居し、高校は休学、神影家が父を探し出せないよう手を尽くしたうえ、陽の能力を使ったのです。神影家やさやかさんが父を探したのかどうか、そのあたりは判りません。
「泣く泣くさやかさんを諦めた父でしたが、再びその思いが呼び起こされる出来事が起きました。わたしたちの母親との出会いです」
高校はそのまま休学したのですが、幸い出席日数が足りていて、普段から成績もトップクラスだった父は特別に自宅で考査を受けることを許され無事卒業、受験は一浪しましたが有名大学に入学し、そこを卒業したあとは一流と言われる商社に勤めました。税理士の資格を取得して自由時間を作るため独立しますが、それはまだ先のことです。
「勤め先の近くにあったファミリーレストラン、母はそこでウエイトレスとして働いていたそうです――父はひと目で母が影だと気が付きました。もちろん母は父が陽だとは気が付きません」
その頃、父のさやかさんへの思いは、陽と影への恨みに変わっていたようです。その恨みは目の前に現れた影……父がそう自覚していたわけではないようですが、母へと向けられました。父は母を誘惑し、やがて二人は深い仲となります。弄んで捨てるつもりだった、父はそう言いますが、本心だったのか……現実としてそうはなりませんでした。
「影の能力の弱い母にしてみれば、一般にエリートと呼ばれる父との恋は、影ではなく、普通の人間として生きる決意をさせ、幸せな将来を予感させるものでした」
自分に夢中になった母に父は躊躇いを感じ始めます。母はどんな時も父に逆らうことがありませんでした。命じたわけでもないのになぜ? それに、想像していた影とはずいぶん違う。影はいったいどんな生活を送っているのだろう? 父は影の暮らしに興味を持つようになりました。だが、自分が陽だとは告げるわけにはいかない――
「そうこうするうち母は身籠ります。もちろん父の子です。妊娠は母に自分が影であることを父に打ち明け、結婚を望んでいることを告げようと決心させました」
影が影以外と婚姻するとなれば、天涯孤独の身の上と相手に思わせなければなりません。戸籍の偽造をすることにもなります。影でないものを影の親戚にするわけにはいかないのです。影の秘密が公になる危険があるからです。親に捨てられ孤児院で育った、そんな話にするのが多いようです。ところが母は父に聞かれるまま、家族のことを話してしまっていました。そしてその時の母の能力では、父の影を操って記憶を書き換えることなどできませんでした。
「父を普通の人間と思っている母は、信じて貰えるかどうかさえ判らないまま、影の一族の存在を父に告げ、家族を捨ててでも一緒に居たい、能力の弱い影は、影として生きても惨めなだけ――そんな母を父は黙って見詰めるだけでした」
けれど母の懇願に、父の心も揺れたようです。中でも『能力の弱い影は惨め』という言葉に大きく動揺したと聞いています。さやかさんがその惨めな影だったら自分との将来もあったはず、目の前で泣きじゃくる母を見詰めながらそう思ったそうです。
「そしてその時です、父が『陽も影も亡ぼす』、そう決意したのは――」
男が深く息を吐いた。自分の両親のなれそめが幸せとは言い切れないことへの溜息だろうか?
「父は自分が陽であることを母に明かし、母に陽の力を与えるから一緒に影を亡ぼそうと提案します。影の一族などという現実離れした話を信じて貰えたことに安堵し、父が陽であることに驚き、母の混乱はかなりのものだったと思います。そんな母を抱き寄せ、父は『子は大事に育てよう』と囁きました。父にとっては陽として生まれてくる自分の子は戦力になると考えてのことだったようですが、母にとっては愛の言葉に他ならない。父の提案を受け入れ、影の一族から自分の存在を消してしまいます。陽の能力を手に入れた母には簡単な事でした」
傍目には仲の良い夫婦に見えたようです。事実、両親が言い争う姿をわたしも兄も見たことがありません。兄が生まれ、三年後にはわたしが生まれ、それを機に父は税理士として独立し事務所を構え、一見平和な日々が続きます。
「その裏で、母は父が命じるまま、災厄魂の仕業に見せかけて影の狩人の仕事を何度も妨害したようです。陽になったことで、影の能力も強化された母にはそれができたようです」
ただの憂さ晴らしです。そんなことで影を消滅できるなど父も思ってはいませんでした。自ら影と対立できない陽である父は焦燥を募らせたようです。父が陽として動けば痕跡が残る、影に存在を知られたくなかったのです。
「その反面、父は自分のしていることの無意味さにも悩んでいたようです。時には母に、もうこれで終わりにしようか、と言ったこともあったようです」




