81 神代文字に籠めた想い
すかさず雷雅が煌一とマスターに命じる。
(静かにしろ、何も言うな!)
もちろん意識に、だ。煌一は舌打ちし、マスターは呆然とこちらを見ている。
(神影さやかって?)
意識内で龍弥に問う。
(神影の……大奥さまだ)
思わず龍弥の顔を見ると、龍弥も真っ青な顔で雷雅を見た。
「神影の……大奥さま?」
自分の血の気が引くのを感じる雷雅だ。大奥さまが影を裏切る? あり得ない――
「さやかさんはわたしの父に騙されたのです」
男の声に雷雅が男を見る。僕はこの人を信じたい。でも、本当に信じていいのか?
「いや、ちょっと待って。あなたは焔ではないと言った。そして総本部を襲った犯人は自分の敵と言った。僕の思い違いですか?」
「いや、そう考えてくれていい。わたしは、わたしの父の企てを阻止したい。影の総本部を襲った犯人を雷雅が敵と考えるなら、間違いなく父はわたしの敵だ。わたしは雷雅の味方につく」
「あなたのお父さんは、あなたのその考えを知らない?」
「いや、知っている。ずいぶん昔に決別している。雷雅、キミが生まれる前だ」
「それならなぜ、お父さんの内情をそんなに知っているのでしょうか?」
「兄から聞いた――兄は父に逆らえず焔になった、今ではわたしのスパイみたいなもんだ」
「お兄さんとは連絡を取っているという事?」
「うん、兄はわたしと同じ考えだ。雷雅を守りたいと思っている」
「でも父親に逆らえない――逆らえない父親に逆らっている? 矛盾だ」
男は、雷雅を見詰めたまま考え込んだ……コイツを信じたいと思った僕は馬鹿なのか? 男から目を離さず雷雅も考える。言葉遣いが変わってきている。この男は動揺している。その動揺はどこから来る?
「兄は父に隠れてずっと早紀さんを気に掛けていた。早紀さんの両親を事故に見せかけて父が殺した時からだ」
「えっ?」
「早紀さんの両親を父が殺めたと知った時、兄は酷く後悔した――早紀には手を出さないことを条件に、父に従うことを兄は了承した。そして妊娠中の早紀とその両親を、父に判らないように隠した。だが、父は約束を違え早紀を見つけ出し、早紀の両親の命を奪った……早紀とその息子に会わない誓いを立てていた兄は、わたしに早紀と雷雅を隠せと連絡を寄こした」
「会わない誓い?」
書付の裏にあった神代文字、かの人と我が子、影を絶滅させる準備……でも、こいつの兄は僕の父親じゃないと言った。かの人は母さんではなく、我が子は僕ではないのか? いや、いや、話が奇怪しい。コイツは嘘を言っている?
「そう、会わない誓い。陽と影が共に手を取り合い、焔を亡ぼす準備、それが整うまで早紀と雷雅に会わないと兄は誓った。その誓いが成就するか破られない限り、雷雅の存在は焔に知られない。そんな誓いだ。わたしたちの父は早紀の妊娠を知らなかったからね――雷雅は知らないかもしれないが、早紀はその書付を持っていたはずだ。早紀に会いに兄は病院に行った。だから早紀は誓いが成就したと知った。キミはその時すでに影に守られていたこともあり、早紀はもう不要と処分してしまったかもしれない」
「ちょっと待って……」
話が違う。その書付なら読んだ。誓願は影の絶滅だったはずだ。
「その書付は、影の絶滅を願ったものじゃなくて?」
隣で龍弥が躊ぐのが判った。手の内を見せてしまった雷雅を止め損ねたと思ったのだろう。ここで初めて男が龍弥を見る。
「神代文字の書付を影に読んで貰ったんだね――あれは真意が伝わらないように書かれている。そう呪いが掛けられている」
龍弥が動揺し、奥では煌一が反応したのも雷雅には判った。二人にはその呪いが検知できなかった。
「もっとも、影に文字使いはいないはず、影には判らない方法を取って書かれたものだ。真意を読み解けなくても無理はない」
「では、書いた人――あなたのお兄さんの願いは影を亡ぼすことではなく、焔を亡ぼすこと? そしてその準備が整った?」
「うん、母は月影に入り込み、兄は炎影に入り込んだ。父が命じたことだ。だが、兄と母の真意は違う。それを父は知らない」
「お母さんも焔を消したいと?」
「母は父に命じられ、影を手に掛けたことがある。若い女性だったそうだ。母が狙ったのはその女性ではなくもう一人の影、その影を庇って、女性は母の術の前に身を投げ出した――影を庇う影がいる。そのことが母に、父の考えを改めさせる決意をさせた。が、父を変えるのは無理だった」
カウンターからカラーンと音がした。マスターがアイスピックを落としてしまったようだ。失礼しましたと言うマスターの声が震えている。
「早紀が逝ってしまったことは悲しいが、準備が整っているうえ、兄が父に逆らえない理由もなくなった――どこまで話したんだったか……そうだ、早紀の両親が事故死した後、早紀と雷雅を隠したところまでか」
男が冷めたコーヒーを飲み干す。雷雅もカップに手を伸ばし、同じように飲み干した。
「陽でも影でも、もちろん焔でもない人々に紛れて隠れろと、早紀に言った。わたしが動けば、父に気付かれてしまうかもしれない。ただの人と一緒にいるほうが安全だと思った」
龍弥が席を立ち、カウンターに向かう。コーヒーのお替りを持ってくるつもりだろう。マスターが気になったのかもしれない。
「人を探すとなると日本は広い。どこから手を付ければいいか父も見当が付かなかった。早紀を探すことを諦めたように見えた。ところが今度は肝心の早紀がどこかに消えてしまった――見つけ出した時は知らない男と結婚し、離婚していた」
「お兄さんは母の結婚を恨みませんでしたか?」
龍弥が戻り、カップにコーヒーを注ぐ。ありがとう、と男が龍弥を見上げた。龍弥は会釈を返しただけで、コーヒーサーバーをカウンターに戻しに行った。
「いや……見つけ出した早紀は病院にいた――病院にいて、もう長くはないと知った兄は随分と荒れたそうだ。わたしにまで八つ当たりした。そうだ、闇に包まれて災厄魂を操った時、キミに遭遇したと言っていた」
「あれは、あなたのお兄さんだったんですね」
「うん。キミを見て平静に戻った。早紀を失っても、守るべきキミがまだいる――ついキミを連れて行こうとしたが、あの時点で連れて行ったとしてもキミを守り切れないと、兄はキミを置いて逃げることにした。神影の狩人から逃げきるのに苦労したと言っていたよ」
雷雅に覆い被さって守るひなたの上から聞こえた舌打ちはこの人の兄のもの、そしてその意味は雷雅を連れて行けないジレンマ――
「早紀の結婚・離婚について、兄が語ることはなかった。あの人は早紀が幸せならばそれでいい、そう思っていただろうからね。キミの父親のことも許している、今更なのかもしれない」
「でも、あなたのお兄さんは僕の母親を愛しているから、あの書付を書いたのでしょう? そうだ、あの書付があなたのお兄さんによるものなら、僕の名前を付けたのも?」
「いや、兄ではないよ」
男が少し微笑んだように雷雅は感じる。
「表と裏を書いたのが同一人物とは厳密には言い難い。だが、まるきり別人とは言えない。表を書いたのは一人、さっきは言い損ねたが裏面は二人の書き手、裏には二人分の思いが籠められている。ただでさえ、当事者にしか判らない暗号めいた言葉や呪いが含まれるのに、文の途中で書き手が替わり、話の筋もくるくる変わる。真意が伝わらないよう工夫して、言いたいことや願いを込めた。表は――」
言うのを躊躇ったのか、男の言葉が止まる。
黙ってしまった男を待つ意味を感じられず、雷雅が問う。
「裏は二人の人物。一人はあなたのお兄さん。だとしたら、もう一人は僕の父なのでしょう? あなたのお兄さんは婚約者を奪った相手を許したと、さっき聞きました。友人だったとか? 仲が良かったんですね」
今度は否定しないだろう。
「うん、キミの父親なのだからと、表を書く権利を主張し、裏は兄と二人で取り合って書いた。俺が書く、いいや俺が書く、と、紙が破れやしないかと、冷や冷やしたのを覚えているよ」
「それじゃ、表を書いたのは間違いなく僕の父親なんですね」
やはりそうかと思いながら、何か見落としていると思う雷雅だ。俺が書く、いいや俺が書く……男の言葉が引っかかる。でも、なんだろう、雷雅が考え込む。
「うん、そうだ、キミの父親だ」
そんな雷雅を見詰めながら男が答える。
「裏は僕の父親とあなたのお兄さん、二人で書いた……」
「そうだね、神代文字では書き手が変わっても、筆跡を見たところで気が付かないだろう?」
そうか、だから神代文字を選んだんだ。二人の思いを込めて書くために――あれ? 兄と二人で? 兄弟ということ?
ハッと雷雅が男を見つめる。そんな雷雅に男が頷く。
「そう、表を書いたのはわたしだ。キミの名を決めたのはわたしだ――雷雅」




