73 父への思慕
奥の席に戻ると、煌一がひなたのパソコンの画面をこちらに向けてくる。
「これって……」
そこに映し出されているのはもちろん、今、スキャンしたばかりの書付だ。二枚あるのは表裏を並べたのだ。
一枚は白紙、煌一の予測通り神代文字で書かれた裏面は読み取れなかった。そしてもう一枚、『命名 雷雅』と書かれた表、問題はこちらだった。
雷雅の名の横、やや下方に同じ筆跡で、『すまない』と書かれている。
なぜ謝罪? 何に対する謝罪? 誰に対する謝罪? その文字を見た瞬間、雷雅の中に沸き起こる疑問、そしてじわじわと締め付けてくる胸の痛み……
「タツ、ライガを連れて行ってやれ。明日は六時だ、遅れず二人で降りて来いよ」
俯いてしまった雷雅の肩に手を添えて、行こうと龍弥が促してくる。声を出すことができないまま頷いて、龍弥に従った。
内階段に消える雷雅たちを見送ってから奥に行ったマスターの気配を感じる。龍弥は『行こう』と言ったきり何も言わない。そして……雷雅は溢れる涙を止められない。
すまない――たった一言、それが父の精一杯の謝罪なのだと思った。名を付けることしかできなかったと謝ったのか? 離れていくことを謝ったのか? それは判らない。けれど父に雷雅への気持ちがあったことだけは判った。裏面に書かれた神代文字の書付よりも、このたった四文字に強い思いがある。だから掌を翳した時、重く熱く感じたんだ。
部屋に着くとやっと龍弥が口を開いた。
「どうする? すぐ寝ちゃう? 疲れているよね」
わざわざスキャナーが読み取った文字のことを口にしない。
「ううん――熱いお茶が飲みたい。淹れて貰っていい?」
もちろんさ、微笑んで龍弥は湯を沸かし始めた。
龍弥がマグカップに入れてくれたお茶は濃くて少し渋かった。熱くて少しずつしか飲めなかったけれど、却って身体に染み渡り、心を落ち着かせた。
「あのさ」
ポツリと雷雅が呟く。
「あの書付を書いた人――命名と書いた人、この人が僕の父親なんだって、初めて実感した」
書付の内容から、きっとそうだと考えていた。でも、どこかでそれを認めたくない自分がいた。『書付を書いた人』と呼び、父とは言わなかった。言いたくなかった。
それがあの『すまない』の四文字で、心に浮かんだ言葉は『父さん』だった。この人が僕の父さんだ――
龍弥は黙って傍にいて、そんな雷雅を見守っている。言える言葉などなかった。きっと雷雅も龍弥の言葉を待っていない。
しばらく沈黙が続いたが、やがて雷雅が小さく溜息を吐いていった。
「ありがとう、落ち着いた――そろそろ寝ようか?」
「そうだな。明日は早いしね」
「それにしても驚いた、まさかスキャナーでしか読めないようにしてあるなんて思わなかった」
「陽と影の性質をよく知ってるってことかもね」
「普通の人だって、あんな紙をスキャンで読み込もうとは思わないさ――ひなたさんに感謝しなきゃかな?」
「どうだろう? お礼を言ってもあの人は、何を言ってるの? って、きっと惚けるぞ」
龍弥がクスッと笑う。
「そう言えばタツヤはどうして僕の護衛に就くことになったの? 齢が近くって優秀だからって聞いてるけど」
「あぁ、煌一さんがリストアップした名簿の中からひなたさんが選んだんだって」
「へぇ。それじゃ、その点でもひなたさんに感謝だな。タツヤでよかった」
雷雅の言葉に龍弥が気恥ずかし気に微笑んだ。
「それにしてもひなたさんは不思議な人だ」
雷雅がしみじみと言う。
「なんかさ、なんにも考えていなように見えて、いや、きっと深くは考えてない」
「ひなたさんが聞いたら怒りそうだ――でも、確かにそんな感じがする」
「でもさ、そのくせなんか、なんでもお見通し? 僕にはタツヤが合うって見抜いてたんだと思うんだよね」
「直感? まさか野生の勘?」
「あ、それを言うなら天然の勘だ、ひなたさんは」
プッと龍弥が吹き出し、二人して一頻り笑う。
「あれは天然なのかねぇ?」
「たぶん天然、でもよく判らない――煌一さんなら判るんだろうけど、怖いから訊けない」
「だね、煌一さんにひなたさん、ダブルで怖いや」
それじゃ、オヤスミ――就寝前に笑ったからだろう。その日の雷雅はすんなりと眠りに落ちて行った。
ぐっすり眠れたからか、翌朝の目覚めは早かった。洗面所に行くと先に起きていた龍弥が、おやっという顔をした。いつもは龍弥に起こして貰う雷雅だ。
六時には少しあったけれどマスターを手伝おうと、二人して店に降りていく。
「おや、お早いですね。雷雅さまは起きられないんじゃないかと心配してました」
僕だけ? と雷雅が拗ねて、マスターと龍弥が失笑する。
焼鮭、ピーマンとニンジンの白和え、焼きナス、ダイコンと茹で鶏のサラダ、白粥と、今朝のメニューは和風だ。カウンター前、店のドアを入ってすぐの客席に食卓が出来上がるころ、煌一とひなたが揃って顔を見せた。
「うん、うちの若い子たちは働き者で助かるね、マスター」
明るいひなたの声、
「タツヤはおまえの二つ下なだけだ」
ぼそっと指摘する煌一、
「それじゃ、わたしも若い子だね」
さらりと言ってのけるひなたに、雷雅と龍弥が顔を見合わせて笑った。
食べ始める前にひなたが近くの席でパソコンを開く。
「データ、来てるか?」
「んー、来てるけど全部かな? ちょっと集計させてみる」
煌一にそう答えてから少しパソコンを操作して、ひなたも食卓に着いた。
「集計するアプリとかあるんですか?」
雷雅の質問に、白和えを口に運びながらひなたが答える。
「うんにゃ、そういうことを専門にしてるところに依頼を出したんよ。わたしが面倒なことするわけないじゃん」
ケラケラと、ひなたが笑う。『ピーマンのシャキシャキ感が堪らないねぇ』と、いつも通りに絶賛する。
「それにしても、スキャナーで出現した文字には驚きました」
これは龍弥だ。雷雅からは言い出しずらいと思ってのことかもしれない。
「スキャナーって要は光学機器だからね。陽の一族に連なる者ならそんな術も使えそうだ」
答えたのは煌一だ。
「はいはい、今は食べるのに集中しよう」
これはもちろんひなた、そんなみんなを眺めてマスターはニコニコしている。
まるで家族みたいだな、と雷雅が思う。
僕の家族は母さんだけだった。その母さんはもういないけれど、僕には新しい家族ができた。この家族が僕はどんどん好きになり、大切に感じ、信頼は日増しに強くなっていく。
(父さん――)
それなのに、昨日ポッと出てきた父親の存在に僕は大きく揺れている。父さんは敵対する立場の人間なのかもしれない。もしそうだったら僕はどうするのだろう?
理性は答えを弾き出している。僕は僕の影を守る。彼らが僕を守るように。でも感情は?
果たして理性は、感情に勝てるのだろうか?




