55 影には可能
「訊けなかったんだよ」
ひなたがぽつりと言った。ギョッと煌一がひなたを見る。
「訊きたくても訊けなかったんだよ――うん、そうだね、狩人だから訊けなかったんだ」
そう言って立ち上がるひなた、煌一はそれを見上げ、それから腕を組んで目を閉じてしまった。ひなたはうっすら笑むとカウンターに向う。残された雷雅と龍弥はチラチラと目を見合わせるが、この雰囲気では何も言えない。ひなたはカウンターの中に入り、何やら作り始めたようだ。
煌一が三本目に火を点け、紫煙が漂う。落ち着かない様子で店を見渡した龍弥が思いついたように立ち上がり、店の隅にあった空気清浄機を雷雅の近くに運んでくる。煌一が苦笑してタバコを消した。
「ひなたの言う通りかもしれない」
煌一の声は穏やかだ。カウンターの中でジュっと音がして、オムレツかなと雷雅が思う。バターの香りも届いていた。
「もしマスターがさつきの安否に拘っていたら、それはそれで俺はやっぱりあいつを責めただろう――俺はマスターに八つ当たりしただけなのかもしれない」
掌を広げて顔に当て、掴むようにコメカミのあたりを抑える。
「俺は優しかった祖母さんなんか知らない。いつでも怖い顔で、言うのは小言と厭味だ。時には猛烈に叱責された――たまに、本当にたまに、二ヶ月か三ヶ月に一度くらい部屋に呼ばれて、ミツマメをご馳走してくれた」
「ミツマメ?」
「うん、寒天に塩エンドウ、それに黒蜜を掛けただけ。呼ばれていくと、食べなさいって言われて、祖母さんはどこかに行ってしまう。食べ終わったらさっさと自分のいるべきところへ戻れって」
「一緒に食べるんじゃなくって?」
「うん……あれはなんだったんだろうな」
俯いていた龍弥が静かに言った。
「あのミツマメは大奥さまのお手製だそうです」
「うん?」
「俺も神影にいた時……まだ子どものころ、同じように呼ばれてそのミツマメをご馳走になりました」
「そうか、祖母さんは子どもにはミツマメとでも思い込んでたのかな?」
「さつきさんに聞きました。大奥さまの好物なんだそうです」
「祖母さんの? って、いつ、さつきと話した?」
「子どものころですよ。さつきさん、もう食べ終わっただろうって片付けに来て、でも俺、その時は寒天、苦手で――大奥さまは自分が好きだから、みんな好きだと思っているみたいって笑って、無理して食べなくていいって、さつきさんは言ってくれたけど、大奥さまの好物なら、頑張って食べたら強くなれるんじゃないかって思っちゃったんです。で、食べ終わるのを待って貰いました。寒天が食べられるようになれば強くなれるなんてないんだけど、なにしろ子どもの発想ですから」
照れ笑いしようとしたのだろうけれど、龍弥の顔は少し引きつっただけだった。
沈黙が場を支配し、カウンターの中で立働くひなたの気配だけが、時は止まっていないのだと教えてくれる。それがなければ時流の隙間に落ちたと錯覚しそうだ。目まぐるしい出来事の数々に、時間の感覚がマヒしている気がする。だから、静寂を時間が止まったと感じたのかもしれない。雷雅も目を瞑る。母さんが死んで、今日で何日目だ?――
ひなたが運んできた皿にはサンドイッチが乗せられていた。甘いオムレツとレタスを挟んだマヨネーズ味のものとハムとチーズのホットサンドの二種類、添えられた飲み物は冷たい紅茶だ。
「夕飯、まだだよね?」
雷雅と龍弥の前にも皿が置かれる。
「煌一さんに言われて、もう食べたんです」
気まずそうに龍弥が言い、
「そろそろまた、お腹減ったんじゃ?」
いいから食べろと、ひなたが笑う。
「夕飯、マスターが作った?」
「いいえ、ライと二人で作りました。焼きソバです」
「そっか……美味しかった?」
「それが――」
言い淀む龍弥、
「味わってる気分じゃなかったか」
ひなたが助け舟を出した。
ホットサンドを齧るとサクッと音がした。ハムとチーズって定番だけど、だからこそ美味しい。美味しいから定番なんだとぼんやり雷雅が思っていると、煌一のスマホが鳴った。煌一が画面を確認する。
「親父からだ」
そう言うと立ち上がり、席を離れた。そしてぼそぼそ話し始める。
オムレツはほんのり温かく、シャキシャキのレタスとマヨネーズが味を引き締めていた。美味しい――焼きそばの時は判らなかった味が、今はちゃんと判る。なぜだろう? 鎮火したから? それとも?
煌一が電話を終えて席に戻り、中断していた食事を再開する。ひなたが何か訊きかけたが何も言わず、代わりにサンドイッチを口に放り込んだ――
食べ終わった皿を雷雅と龍弥が片付ける。洗い物を済ませて戻ると、慌てて煌一がタバコを消した。
「内緒話ですか?」
なんとなく言った雷雅の言葉にひなたが慌て、煌一が苦笑する。
「ライガ、キミの能力はどんどん開花しているようだね」
「自分じゃ判りません」
「タツはどう思う?」
「さっき意識に、影を使わずダイレクトに話しかけてきたんで驚きました」
「なにそれ?」
雷雅が驚いて龍弥を見る。龍弥が雷雅に向き直り、
「自分じゃ気付いてなかったんだ?――影じゃなく、俺の意識に話しかけてきた。俺もライに同じように答えたよ」
「あ……陽の炎って? って訊いた時?」
「うん、それ」
「あれ、タツヤの答えが頭の中で聞こえて、そんなに言い難いことなんだって思ってた」
「ライがそうしたから、同じようにしただけだ」
自分では気が付いていなかった……いったいこの先、僕はどんなことができるようになるんだろう。だけど、やっぱり不安は感じない。なるようになっていっている。知識が追い付かないだけだ。
「遠隔視、意識レベルでのコンタクト……ほかに何かあるか?」
煌一の問いは、雷雅に向けたものか、龍弥に向けたものなのか?
意識レベルでのコンタクトと聞いて、雷雅はあの男を思い出している。一方的にあの男は雷雅に向けて意識レベルのコンタクトを取ってきた。あの、耳ではなく頭の中で聞こえた声はきっとそうだ。
今度あの男と遭遇し、また話しかけてきたとき、僕からあの男に話しかけることができるようになったという事か? それはできないような気がした。いや、しちゃいけない気がした。久々に感じる恐怖がそこにはあった。
「どうした、ライガ?」
黙り込んだ雷雅をひなたが覗き込む。
「いや――なんの内緒話かな、って」
ひなたが煌一と目を見かわす。
「うん……ちょっと厄介なことになった」
「厄介なこと?」
「さっきの電話、面白くない話だった」
ひなたの言葉に、今の状況で面白い話があるわけないと雷雅が思う。
「何かあったんですか?」
龍弥が煌一に尋ねた。うん、と煌一が考え込む。話していいものか、迷っているのだろう。
ややあって、重い口を煌一が開く。
「失火扱いにするか、放火とするか――」
失火なら、神影もしくは影の一族の責任を問わなくてはならなくなる。現場検証を考えたら、放火にはできない。燃え方に斑があり過ぎる。さらに、火元は焼死体だが不自然な焼け方をしている。なぜそんな事になっているのか、論理的に説明するのは無理だ。そう考えると失火とするしかないように思える。
「火災による損害は保険で補償できるとしても、五人もの死者を出したことを考えると、その責任をどう取るのかってことになる」
代表取締役の責任を問う声が世間的にあがるだろう。
「煌一さんのお父さんが困るってこと?」
雷雅の質問に、煌一が顔を顰める。
「辞任しなくてはならなくなるかもしれない」
「コネで揉み消すことはできない?」
「権力者は黙らせられても、大衆までは黙らせられない」
ふう、と雷雅が息を吐く。
「放火ってことにすればいい――論理的な説明? そんなのでっち上げれば済む。それが影にはできるはずだ」
雷雅がニヤリと笑い、龍弥が目を丸くする。煌一はひなたと見かわして苦笑し、ひなたは面白そうにクスッと笑った。




