54 逆らった影
思い出したようにひなたが立ち上がり、急ぎ足でトイレに向かった。苦笑いした煌一が、ひなたが出てくると入れ替わりにトイレに行った。あの苦笑いは先を越されたと思ったんだ。きっとそんな感じだ――五時間近くだ。何も飲んでいなくたって、尿意は起きるだろう。だけど、それどころじゃなかった。そんなの感じる暇もなかったんだ。夏でよかった……
煌一が戻るころには龍弥もアイスコーヒーを配り終わって座っていた。煌一とひなただけでなく、雷雅とマスター、そして自分にも用意している。話しが長くなると察してか? 龍弥は煌一のため、灰皿も用意していた。
迷ったようだが結局、誘惑に勝てなかったようで、煌一はその場でタバコを燻らせ始める。するとマスターが、
「頂戴してよろしいでしょうか?」
と呟き、煌一が黙ってマスターの前にタバコとライターを置いた。ひなたが何か言いだすかと思ったが、何も言わず 俯いている。龍弥が立ち上がり、雷雅のほうにはなるべく煙が来ないようエアコンの風向きを調整した。
総本部は全焼だ――やっと煌一が重い口を開く。
「焼け跡から遺体が全部で五体……丸焦げで警察は身元確認すると言っている」
「誰だか判らない?」
マスターが答えを急くように訊く。
「いや、判ってる。二人は狩人、もう一人は総本部長、狩人は本部長を守っていたようだ」
「本部長を守って?」
「うん、二人の後ろに本部長の遺体、そして二人は本部長より酷く焼けていた――死因は焼死と発表されるだろう。そして間違いなく焼死だ。だけど、火事の火によるものじゃない」
「まさか、陽の炎?」
蒼褪めるマスター、煌一がグラスを取りストローを使わずにコーヒーをゴクゴクと飲み干した。これで三杯目だ。すかさず立ち上がろうとした龍弥に手を振って、もういいと合図する。
「誰も陽の炎を見たことがない。その場に居合わせたわけでもない。だから断定できない――遺体は異常なほどに焼けていて、それなのに見つかった場所の焼失具合はそれほどでもなかった。ピンポイントで人だけ焼いた、そんな感じだ」
陽の炎って? そっと雷雅が龍弥に尋ねる。陽の一族の怒りが燃え立たせる炎って言われてる、龍弥の声が頭の中で聞こえた。
「それで? それであと二人は? 大奥さまは?」
マスターがさらに煌一に詰め寄った。
煌一がそんなマスターからいったん目を逸らし、溜息を吐いてから思い直したようにマスターを怖い顔で見る。
「さつきは祖母さんを守った。間違いない――祖母さんの前に倒れていて、祖母さんよりずっと黒くなっていた」
「それで、大奥さまは?」
「裏家!」
煌一が怒鳴り、それをひなたが制する。自分の肩に手を置いたひなたを、振り返った煌一が見る。ひなたが煌一を見て首を振った。
「……」
マスターを見てから、今度は俯いて煌一が言った。
「さつきの後ろに祖母さんはいた。さつきよりは焼かれなかったようだ。まだ綺麗な皮膚が少しだけ残っていた。さつきのお陰で焼かれずに済んだようだ」
「それで大奥さまは?」
「上半身は丸焦げだ――それを見届けてから敵は立ち去ったんだろう」
「……それで大奥さまは?」
うんざりだ、そんな顔で煌一がマスターを見た。
「頭部は炭化していた――」
「炭化……」
マスターがマジマジと煌一を見る。
「つまりお亡くなりに? さつきは大奥さまを守り切れなかった?」
「部屋に帰れ、裏家。さつきを責める言葉を俺の前で口にするな」
「煌一さま――」
マスターの身体から力が抜ける。
「いいえ、申し訳ありません――あれほど大奥さまをお守りするよう言い聞かせていたのに。そのために育てたのに」
「裏家! 俺が何に腹を立てているか、おまえ、判っていないなっ!?」
マスターが煌一の顔を食い入るように見つめる。
「マスター……」
ひなたが声をかけてもマスターは煌一を見詰めたままだ。
「マスター、一度、部屋へ戻りなさい。明日の昼まで休んで」
普段からは考えられないほど優しくひなたが言う。龍弥が立ち上がり、マスターの腕を取って立ち上がるように促した。マスターが龍弥を見あげる。そしてスクッと立ちあがった。
「いいえ、大丈夫です、龍弥さま」
一礼してマスターは、一人で内階段へ向かった。
マスターが退出し、煌一が再び大きな溜息を吐く。
「コーちゃん、マスターは混乱しているんだ」
いつも通りの口調でひなたが言う。
「混乱? マスターは違うと思っていたのに、あいつもただの狩人だった」
「ただの狩人ねぇ」
ひなたが苦笑する。そして立ったままだった龍弥に『ソーダ水、飲みたくない?』と訊く。頷いて龍弥がカウンターの中へ行った。
「マスター、どうしたんですか?」
恐る恐る雷雅がひなたに訊いた。煌一がチッと舌打ちをする。
「うん――マスターもね、神影で育てられた狩人なんだよ。育てたのは祖母さんだ」
カチッとライターの音がして、煌一がタバコに火を点けた。
「祖母さん、昔は優しい人だったらしい。何もかも押さえつける影のやり方に疑問を抱いていたって話だ」
煙を吐き出してから煌一が言った。
「祖母さんが育てた狩人は二人。裏家と、裏家より二つ下の女性。二人を祖母さんは可愛がり、二人も祖母さんを慕った。我が子――つまり俺の親父だな、と同じ態度で接していたらしい」
戻ってきた龍弥が、煌一には熱いコーヒーを、ひなたと雷雅の前にソーダ水を配り、自分の分はトレイに乗せたままにテーブルに置いて雷雅の隣に座った。煌一が話を続ける。
「この女性、実は裏家の実妹なんだ。このことを裏家は今でも知らない。でも、妹は裏家を兄と知っていた。そして密かに裏家を慕っていた――それが悲劇を生むことになる。あるミッションで裏家の妹は判断を誤り、命を落としてしまう。裏家を庇った結果だ。それ以来、祖母さんはやはり影の狩人に感情はいらない、余計な感情を持つのは危険だと方針を変えた」
コーヒーに砂糖とミルクを入れて煌一が掻き混ぜる。少し考え込んでから、話を再開した。
「それでもまだ、今ほど厭味ったらしくはなかった。祖母さんが徹底的に変わったのは裏家を引退させてからだ――って、俺も実はよく判らない。全部、親父に聞いた話だ」
マスターが引退したのはひなたが生まれた頃だと聞いている。行き先がなくって困っているところをひなたの家から執事に誘われた。
「裏家の引退理由は規律違反だそうだ。我を張り過ぎた……最初は勧められた結婚話を裏家が頑なに拒否したことから始まった。妻を娶る暇があるなら、その暇を狩人として費やしたい。それを祖母さんから『子を生して影に仕えさせろ。影を絶やすな』と言われて漸く飲んだ。二度目は生まれた子を、自分で教育すると言い張った。狩人候補の子は親元を離れ、しかるべき師匠に預けられる――裏家は優秀だった。その裏家が必ず優秀な影に育てると誓った。この我儘を祖母さんは許したが、その時言った。次はない、とね」
煌一がカップに手を伸ばし、口元に持っていく。味わっているように見えるが、次の言葉を考えているのかもしれない。
「三度目……その育て上げた子を祖母さんの近くに置けと言った。誰をどこに配置するかを口出しできる立場にない裏家が、だ。祖母さんを守るために育てあげたとも言ったそうだ。祖母さんは裏家の引退と引き換えにそれを許した――命令に素直に従えない狩人は不要ってことだ」
嫌な予感が雷雅を襲う。
「まさかその、マスターの子どもって……さつきさん?」
煌一が目をつぶる。
「俺が許せないのは裏家が、一度もさつきの安否を訊かなかったことだ。訊こうともしなかったことだ」
吐き捨てるように煌一が言った。




