53 マスターの動揺
いつも通りのマスターの穏やかさ、さっき、いつもと違うと感じたのは思い違いかもしれない――メロンジュースを飲み干して雷雅が思う。
とっくに飲み終わっていた龍弥の物と併せ、マスターがグラスを下げにカウンターに戻った時だった。
テレビからニュース速報を知らせる独特の音が流れ、マスターの足が止まる。吸い寄せられるようにマスターの視線が、雷雅と龍弥の席からは見えない画面に向かう。そして――ガッシャン! マスターがグラスを落とした。
「マスター?」
慌てて龍弥がマスターに駆け寄り、雷雅は横に滑るようにテレビの画面が見える席に移動して、速報の内容を確認する。マスターが動揺するようなことって?
雷雅が画面を目にしたときは既に番組が切り替わっていて、ヘリコプターのプロペラ音とともに、レポーターの声も聞こえてきた。画面の上のほうにテロップ、そこには『都内の研修施設から出火』とある。
食い入るように画面を見ながら立ち尽くすマスター、ちらりと見たきり、テレビに視線を向けるのを避けてグラスを片付ける龍弥、モップを持ち出して床を拭く気だ。
画面では木立に囲まれたお屋敷が炎と黒煙を吐き出している。消防車がそれを取り囲み、さらに敷地内に集結しつつあるのが判る。胡麻粒のような小ささで、蠢いているのは人だろうか? 植栽も少し燃えている。
『現場は都内の広い敷地で、燃えている建物は、高さはさほどないようですが……二階建てですかね? 見る限り相当大きな建物のようです』
床を拭き終わり、モップを片付けた龍弥がいきなりプツリとテレビを切った。途端にマスターが崩れるように緊張を解いた。そのマスターを龍弥が支え、雷雅の隣の席に座らせる。
「マスター、どうしたの?」
雷雅が龍弥に尋ねるが、龍弥はそれに答えず、
「テレビの情報なんか、なんの役にも立たない。煌一さんたちを待とう」
と言った。雷雅ではなく、マスターに言ったんだ……
マスターがそんな龍弥を見て、
「都内の火事、死傷者多数か? と、最初に出たんです」
と呟いた。きっと雷雅が見る前に消えたテロップだろう。
意識がここにないはずのひなたが悲しげに溜息を吐き、元の無表情に戻る。煌一は全く反応しない。
マスターの、この動揺はなんだ? 神影家の応接室で、マスターは大奥さまと懇意そうだった。大奥さまを心配しているのだろうか? それにしても少し動揺し過ぎなんじゃないか? そう感じる僕は冷たいんだろうか? 雷雅がマスターの顔を盗み見る。それに……龍弥は何か知っている? テレビを切ったのは多分マスターのためだ。
マスターを座らせた後、カウンターに行った龍弥は熱いお茶を淹れてきた。ありがとう、と受け取りながら、龍弥に訊こうかと雷雅が迷う。だが、マスターの前では訊けない、訊いちゃいけないと、別のことを口にする。
「空から見ると、やっぱり神影のお屋敷、ものすごく大きいね」
「うん?」
不意を突かれたような顔で龍弥が雷雅を見、うん、と頷く。
「焼けているのは総本部のほうだから――神影家の住居はもっとずっと小さいよ」
それでもきっとかなり大きいはずだ。
「研修所って?」
「煌一さんのお父さん――神影家の現当主を代表取締役にして、株式会社にしてあるんだ。株主は影の一族で独占。で、総本部はその会社の研修所って名目になってる」
「そっか……何をしている会社にしてあるの?」
「表向きは教育図書の出版と印刷とか製本とか。自社で本が作れるようにしてる。まぁ、実際、辞書とか図鑑とか古文書の複製とかを出版することもある。購入条件を付けて、市場には流通させてないから誰でも買えるって代物じゃないし、値段も目玉が飛び出しそうなほど高い」
「なるほど、センセイって呼ばれる人しか買わない?」
雷雅の冗談に龍弥は、答える代わりに少しだけ笑みを見せた。
話すことを思いつかず、雷雅も黙り込む。関心事はマスターが言った『多数の死傷者』という報道の事実がどうなのかだけになり、本当は別にもあるはずなのにと感じるのに、それが何かは思いつけない。マスターだけでなく龍弥も黙り込めば、話しかけるのも憚られる。
座ったままの煌一とひなたの目が時折ギョロリと動くのにギョッとするが、すぐまた動かなくなり、こっちの様子を見に来ただけなんだなと思う。
そうこうするうちに時が経ち、そろそろ二十一時になる頃、いきなり煌一が『先に飯、食っとけ』と言った。だがそれだけで、また向こうに行ってしまったらしく動かなくなる。
宙を見つめたまま動かないマスター、龍弥が立ち上がり冷蔵庫を覗き込む。
「焼きソバならできる」
「うん、手伝うよ」
雷雅もカウンターに入った――
火事が起きたのは日没直後、そろそろ鎮火するんじゃないか、そんなことを考えながら食べる焼きソバは、美味しいはずなのに味がしない。ソースの香りも青海苔の風味も、感じているはずなのに判らない。マスターの前に置かれた皿は手付かずで、マスターがちゃんと認識しているのかさえ怪しい。あぁ、そうか、僕もマスターと同じで上の空なんだ、だから味が判らないんだ――龍弥を見ると、龍弥も食べながら、やっぱり時どき考え込んでいる。
「美味しくない?」
どうでもいいことをなんで僕は訊くんだろう、そう思いながら雷雅が尋ねる。味付けをしたのは雷雅だ。味付けと言っても少しのケチャップとウスターソースを絡めただけ、よっぽど量が違わない限り、そこそこの味のはずだ。
「いや、それなりに美味しいよ」
苦笑して龍弥が答えた。
「心配?」
雷雅がマスターに訊けないことを龍弥に訊く。でも、心配って誰のこと? なんのこと? 質問した雷雅にさえ判らない。龍弥はチラリと雷雅を見ただけで答えなかった。
食べ終わった皿を下げ、マスターの分にはラップをかけた。コーヒーかな、と龍弥が呟き、湯を沸かし始める。雷雅が洗った皿を龍弥が拭いて棚に入れ、雷雅がミルを使い、龍弥がドリッパーを用意する。挽いた豆をドリッパーに入れたタイミングでちょうど湯が沸き、龍弥がケトルに手を伸ばす。
「僕が淹れようか?」
龍弥の手が震えているような気がした。棚に食器を淹れるときもカチカチと小さな音が聞こえていた。雷雅の顔を龍弥が見て、少し考えてから頷いた。
そのあと再び沈黙の時間が訪れる。居心地は悪いが、ここに居たい。相反する思いが同居しているのに、矛盾は感じない。神影がどうなったのか、大奥さまがどうなったのか、それにひなたが『メイドのさつきの行方も判らない』と言っていた、
昼間、初めて顔を見ただけなのに、やっぱり気になる。二人ともに無事でいて欲しい。もちろん、ほかの誰か、知らない誰かがどうなったっていいってわけじゃないけれど、見知った顔には執着みたいなもんがある。親しみってヤツだろうか?
日付が変わるころ、煌一が大きな溜息を吐き、
「疲れた……」
と呟いた。俯いていたマスターがハッと顔を上げ、雷雅と龍弥も煌一に注目する。
「タツ、コーヒーくれ。冷たいのでいい。咽喉がカラカラだ――ガムシロップ二つとミルクポーション」
はい、と龍弥が立ち上がる。
「ひょっとして、ずっとなにも飲まずに?」
雷雅の問いに、
「影は飲み食いしないさ。ここにいた俺が何も飲んでなきゃ、飲んでないさね――タツ、ひなたも帰ってくる。アイツにもアイスコーヒー、ブラックでいい」
煌一が言い終わらないうちにひなたも溜息を吐いて、目が覚めたような顔をした。どうやら焦点があった先にいたのがマスターだったようで、慌てて視線を逸らせていた。
「龍弥がコーヒーいれてくれてるよ」
そんなひなたに煌一が言った。
やっぱりマスターには何かある。それを煌一もひなたも知っている。きっと龍弥もだ。
神影の家にマスターの大事な知り合いでもいたのだろうか……そっとマスターの横顔を見た。




