43 物言わぬ母
神式でいいかと訊かれ『お任せします』と答えた。仏式との違いがよく判らなかったこともあるけれど、どこかで陽の一族に相応しいと感じていた――
煌一が車を陽だまりの正面に回している間に、雷雅のスマホや財布を取りに龍弥が自室へ行った。龍弥が戻ると同時に車が到着し、マスターを留守番に四人で病院へ向かった。茫然自失の雷雅を支えて、車に乗り込ませてくれたのは龍弥だった。
母の容態が急変し危篤――嘘だ、と思った。すでに母はこの世を去った。きっとそうだ。でも、いや、だからこそ、一刻も早く母さんの所へ行きたい。母さんを一人にしちゃいけない。
昨夜、病院の出口であの男が雷雅に告げた『明日だ、明日の正午過ぎだ』とは、きっとこのことを指していたんだ。なぜだ? なぜもっと早く、僕は母さんに会いに行かなかった? なぜスマホを部屋に置いてきてしまった? 病院はひなたに連絡する前に、僕に電話しているはずだ。僕が捕まらなかったから、仕方なくひなたに電話したんだ。病院へ向かう車の中でスマホを確認する。いくつもの不在着信が雷雅をあざ笑ってた。
駐車場で車が止まると転がるように飛び出して、早紀の病室へと走った。院内では多くの顰蹙を買った。判っていたが気付かないふりをした。気にしている場合じゃないと思った。エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆けあがる。
病室のある階まで上り切った時、角にあの男が立っていた。アイツだ! そう思ったが、雷雅は無視して早紀の病室に向かった。それどころではなかった。男からもなんのアクションもなかった。ただ雷雅を見ているだけだった。
近づく雷雅に気が付いた立ち番がドアを開け、廊下を駆けた勢いのまま雷雅が飛び込む。そしてすぐに足を止めた。後ろをついてきていた龍弥がぶつかりそうになって慌てる。
「母さん……」
すでに機器は外され、看護師が片づけを始めている。主治医が雷雅を見て『ご愁傷さまです』と静かに言った。
主治医が何か話し始めたが雷雅の耳には届かない。詳しいことはまた、と看護師と共に医師も病室を出て行くと龍弥がそっと雷雅をベッドサイドに導いた。
「母さん……」
返事はないと判っていても呼び掛ける。ごめん、最後の最後、傍にいてあげられなくて。一人にしてごめんね――
ひなたと煌一がやってきて、煌一が立ち番に何か指示を出した。立ち番は一礼して立ち去っていく。目を擦ったのは立ち番もまた、雷雅の母と何かしらの交流があったからか?
病室に入ってきたひなたが雷雅の肩に手を置いたとき、雷雅は自分が膝立ちになっていることに気が付く。いつの間に僕は跪いたんだろう? 手は、母の手を握りしめていた――
雷雅が感じたとおり、ひなたにあった連絡は『早紀が息を引き取った』というものだった。言えなかったとひなたは雷雅に謝ったが、雷雅は軽く首を横に振った。母さんが死んだ、なんて聞きたいわけがない。この目で見て、感じて、初めて納得できる、そう思った。ひなたを責めても何も変わらないし、ひなたの気遣いも有り難かった。はっきりと言わなかったのは、少なくとも僕に対しては正解だ。それにひなたは早紀の容態が急変したとしか言ってない。急変して、どうなったかまでは言わなかっただけ、嘘を言ったわけではない。
母を家に引き取るか、それとも葬儀社に預けるか聞かれた時、雷雅は預けるほうを選択している。もし引き取るほうを選べば、きっとそれは自分と龍弥が暮らすあの部屋ではなく、ひなたたちの部屋になる。それじゃあ、母さんも気を使ってゆっくり眠れない。すぐに葬儀屋が呼ばれ、母を連れて行った。
その日はそのまま陽だまりに帰った。店は閉めてあり、一人の客もいなかった。
マスターがお茶を淹れ、カウンターに座った雷雅の前に、一口サイズの落雁と一緒に置く。ひなたに何か耳打ちされた龍弥が、『判った』と答えて内階段に消える。ひなたはすぐそこのテーブル席に座り、何も言わない。マスターがカウンターから出てきて、ひなたにもお茶を運んだようだ。
そう言えばBGMが聞こえない。店を閉めたからなのか、雷雅の心境を察してなのか? マスターは、カウンターの内側にいつも置いている丸椅子に腰かけた。
シンと静まり返った中に、戻ってきた龍弥が開けたドアの音が響く。一瞬、迷ったようだが、やっぱり何も言わず龍弥は雷雅の隣に座った。マスターが立ち上がり、龍弥の分のお茶を用意した――
すっかり日が暮れた頃、やっとひなたが口を開く。煌一はまだ帰らない。きっと病院の手続きや、葬儀屋との打ち合わせをしているのだろう。
「雷雅のお母さんがね――」
ひなたはカウンター席に移っていた。
「お葬式には誰も呼ばないで欲しいって言ってて……」
僕の知らない間にそんな話をしていたんだ、と雷雅が思う。そうだよね、僕にそんな話をしたってまともに聞くはずがない。母さんはちゃんと元気になる、そう言って聞く耳を持たなかった。だけど母さんの気性なら、自分に何かあった時のことを考えないはずはない。僕が困らないようにしておくだろう。
「勤め先は入院と同時に辞めてるから、義理で来て貰うのは申し訳ないって」
「うん――」
「親戚も親しくしている人もいないから、お母さんの知り合いで呼びたい人はいないって――本当に呼ばなくていい?」
「うん。母さんがそう言ったならそれでいい」
「あとは雷雅の友達だけど、どうする? 来てもらう?」
「……」
シンヤたちの顔が脳裏に浮かぶ。会いたい。これほど会いたいって思ったのは初めてかもしれない。でも、会えばきっと僕は泣いてしまう。甘えてしまう。そんな僕を見られたくない。
「いや……タツヤがいてくれればいい」
龍弥がいてくれてよかった――隣に座る龍弥がほんの少し息を飲んだのが雷雅にも判った。
それからまた、押し黙ったまま時間が過ぎた。小一時間も経とうかという頃、煌一が包みを持って帰ってきた。デパ地下で弁当を買ってきたという。
「お通夜は明日、告別式は明後日――疲れただろう? 部屋に帰って休め」
そう言って煌一は龍弥に目配せする。龍弥に促されて雷雅は部屋に帰った。
内階段を行き、部屋に入る。雷雅の寝室のラグに雷雅を座らせ、ローテーブルに煌一から受け取った弁当を置くと龍弥はいったん寝室を出た。すぐにお茶のペットボトルを二本持って龍弥が戻ってくる。
「食欲、ないだろうけど――食べられそうなものだけでも、口に入れるといいよ」
弁当の包みを開けて雷雅の前に置いた。そして自分の分を食べ始める。
食べ物の匂いが漂った。俯いていた雷雅が顔をあげる。どこか、懐かしさを感じていた。目の前に置かれた弁当には、木の板を薄く削いだような蓋が被せられている。予感に手を伸ばし、蓋を取った。
横浜の、老舗の中華料理店の弁当だ。冷めても美味しく食べられるよう工夫されている。母さんが好きで、よく買ってきていた。龍弥が気を利かせて割り箸を出して、雷雅によこす。何も言わずそれを受け取り、甘辛く煮たタケノコをつまんで口に入れた。
『母さんね、メインのシウマイも好きだけど、実はこのタケノコを一番楽しみにしているの』
クスクス笑う早紀の顔と声が蘇る。
心配そうに様子を窺っていた龍弥が目を逸らす。今日初めての涙が、雷雅の頬を濡らし始めていた。
母さんは死んだ。もう会えない――やっと実感を持って雷雅に迫る。
(母さんを一人にした。そして今日から僕も一人だ)
涙が止められないのと同じで、一度漏れた嗚咽も止められない。苦しい息の雷雅の背を龍弥がそっと撫でた。
龍弥がいてくれてよかった――涙の熱さと龍弥の掌の温かさをしみじみと感じていた。




