39 見知らぬ男
さして道幅のない車道に隔てられ、街灯に照らされた歩道がこちら側と向こう側にあった。人々が行き交っているが、振り返った雷雅の後ろに立つ人はいない。
「雷雅、こっちだ」
再び声がする。そしてやっと気が付く。耳から聞こえているんじゃない。
こっち……ってことは、そっちか。雷雅が声を感じる方向を見る。車道の向こう、天丼屋とコンビニの狭間の路地の入口、僅かに街灯が届いていない薄暗い場所。そこに立ってこちらを見ている男は誰だ?
「久しぶりだね、雷雅。会いたかったよ」
頭の中に響く声に雷雅が答える。あんたは誰だ? 男が苦笑したと感じた。
「ライ、どうかした?」
後ろから龍弥の声がして、雷雅の集中が途切れ、振り返って龍弥を見る。
「あ、いや……」
「うん?」
「いや……」
もう一度男を見たがすでに姿を消している。
「ここに来るのも久しぶりだな、と思って」
なぜ嘘を吐く? 自分でも判らない。でも言ってはいけない気がした。
あの男は久しぶりだと言った。つまり知っている誰かという事だ。でも、雷雅には覚えがない。忘れているだけだろうか?
「たこ焼き、少し待つって。ほかにも何か買ってく?」
龍弥は少しも雷雅を疑っていない。それが尚更、雷雅に自分への不審を募らせる。
「いや、他に買うとしたら飲み物だろうけど、さすがにマスターが嫌がりそう」
「んだな、喫茶店だもんね」
笑顔を見せる龍弥から、つい視線を逸らす。
(そうだ、きっと僕は心配させたくないんだ。だから言わないんだ)
知らない男が意識に直接話しかけてきた。しかも向こうはこっちを知っているらしく『久しぶりだ』と言った。そんなこと話せば、きっと龍弥は心配する。だから言えないんだ。無理やり自分を納得させた。
小窓から顔を出して店員が『お待たせしました』と龍弥を呼ぶ。たこ焼きを受け取った龍弥が『帰ろう』と、雷雅を促す。『早く帰って食べよう』と、雷雅がそれに答える。歩き始める時、雷雅は男が立っていた路地をもう一度チラリと見た。
(……)
男はそこに姿を現し、雷雅を見ていた。でも、もう話しかけては来なかった――
ひなたはたこ焼きを喜んだが、いつものように大袈裟な称賛を口にすることはなかった。作ったのがマスターじゃないからだと雷雅は思った。
「美味しゅうございますね」
マスターも同席し、四人でテーブルを囲んで食べた。煌一はまだ帰っていない。
母さんが買ってきたのと同じ味だ。そう感じて、あの男の言葉を思い出す。母さんの所へ行こう――あれは何を意味するのか? 男は雷雅だけでなく、雷雅の母親のことも知っている。
「ひなたさん――美立山病院に行ってきてもいいですか?」
ん? と、ひなたが雷雅を見る。口に入れたたこ焼きで、すぐには答えられそうもない。
「母の様子がなんだか気になって」
「平日の面会は十九時まででございましたね」
ひなたの代わりにマスターが答える。十九時はとうに過ぎている。
「明日、ゆっくり行かれたほうがよろしいのでは?」
「うん……」
俯いてしまった雷雅を覗き込むようにひなたが問う。
「何か気になることでもあるのか?」
「いや、なんとなく、どうしてるかなって」
そうか、と答え、今度は龍弥に
「一緒に行ってやって」
と言う。
「でも、もう面会時間が――」
「俺が一緒なら影を使って黙らせるから大丈夫だよ」
戸惑う雷雅に龍弥が事も無げに言う。そして雷雅の背中を押す。
「ライが気になるのなら、行ったほうがいいと思う。行かないで、後悔したくないだろう?」
龍弥の口調はいつもと変わらない。でも、言葉の意味を雷雅は重く受け止める。そうだ、もし、母さんに何かあったら――
そうとなったら早いほうがいい。食べ終わると早々に雷雅と龍弥は陽だまりを出立した。二人を見送ってからひなたがマスターに尋ねている。
「急に母親に会いたいって言い出すなんて、ライガらしくもない――何か動きがあったと見る?」
「はい、お嬢さま……なんらかの接触を感じます。雷雅さまの様子がいつもと少々違っておりました」
「タツヤは何も感じていなかったようだが?」
「そうですね。わたしの思い過ごしかもしれません――お嬢さまはどうお感じになりましたか?」
「わたし?」
ひなたは少し考え込んだ。
「ライガはどんどん陽の一族らしくなっていく。もう止められない。そう仕向けたのはわたしだ。信じるほかない」
「お嬢さま――」
不安げなマスターにひなたが微笑む。
「なに、心配ない。ライガは素直で真っ直ぐだ。道を誤りはしない」
そうですね、その通りですね……そう呟くとマスターは、雷雅たちが出て行ったドアを見やった――
美立山病院には通用口から入った。到着する寸前、煌一の影も合流し、龍弥の影に重なったと龍弥が言った。
病院の職員は雷雅たちが通り過ぎても気が付かない様子で、なんの障害もなく母親の病室に辿り着いた。廊下にはいつも通り、顔見知りの警官が二人立っていて、雷雅の顔を見ると頷き、龍弥に『変わりありません』と言った。
ひなたの配慮だろう。母親の病室はそう広くはないが個室だ。病室に明かりはついていたが、どうやら眠っているようだ。起こしていいものか、雷雅が迷う。龍弥は雷雅の邪魔をしないよう気を使ったのだろう、外を眺めるように窓際に行った。
(また痩せた……)
前回見舞いに来たのはたった三日前だ。残された時間は僅かか? 起こしちゃいけない、だから声はかけない。その代わり心の中では呼びかける。母さん――すると睫毛が揺れて瞼が開き、瞳が泳いで雷雅を探しあてた。
「来てくれたのね」
母親の掠れそうな声に雷雅がたじろぐ。
「ごめん、起こしちゃった……」
「ううん、会いたかったわ、雷雅」
僕も会いたかった。毎日そう思った。でも怖くて会いに来られなかった。現実を突きつけられるのを避けたくて、なるべく来ないようにしてしまった――そんなこと、言えない。
雷雅の母親――早紀が身体を起こそうとする。
「寝てて……無理しちゃダメだ」
雷雅の言葉に首を振る。
「あなたに渡しておきたいものがあるのよ」
「僕に? 判った、僕がとるから、どこにあるの? 母さんは寝てなきゃだめだ」
うっすらと早紀が笑う。
「雷雅は怒ると怖いのね」
「怒ってなんかいないよ」
「雷雅が具合の悪い時、よく母さんは怒ったわ。ちゃんと寝てなさいって。それを思い出しちゃった」
「それで? どこにあるの?」
泣きそうなのを誤魔化すように雷雅が部屋を見渡す。
「そこの引き出し、一番上――白いお守り」
目的の物はすぐに見つかった。雷雅にも見覚えがある。早紀がいつもバッグに入れて持ち歩いていた物だ。
白地に金糸銀糸の刺繡がある美しい袋に気を取られ、子どものころ、手に取ろうとして止められたことがある。大事なものだから、触っちゃいけない。
「触っていいの?」
つい雷雅が尋ねた。あの時の母さんはとっても怖かった。
「もちろんよ――これからはあなたがそれを持っていて」
「だって、これ……母さんが大事にしてた――」
「そうね、これからは雷雅、あなたが大切にして」
「うん……」
恐る恐る雷雅が守り袋に手を伸ばす。
(これは……)
触れた瞬間、雷雅の指先が痺れた。静電気? 違う、指先から全身に伝わっていく。
「判った。大事にする」
雷雅は龍弥や、龍弥の影に潜んでいる煌一の影に気取られないよう、平静を装って早紀に微笑んだ。




