32 雷雅の覚醒
少し前まで雷雅が住んでいた部屋は、主が変わるだけでこうも違うかというほど変わっていた。
ひなたに連れられて内階段をのぼり、勝手口から入った雷雅と龍弥だったが、入った途端に微かに漂う上品な香りに『あぁ、ここはもう僕の家ではなくなった』と雷雅はしみじみ感じている。
もともと二か月ほどしか住んでいない。それほどの愛着もない。だけど、どんどん雷雅を置いてけぼりにして、周囲は変化してしまうのを感じずにいられない。それなのに、なんで順応できているのだろう? なぜそれほどストレスを感じていない? 頭の奥のほうで雷雅の意識が呟いた。
ダイニングには大きめのテーブルが置かれていて、そのあたりに大きな変化はなかった。が、リビングと二つの居室を隔てる壁は取り払われて、一部屋の続き間に改装されている。リビングだったほうにはソファーセット、居室だったほうは会議ができそうな大きな机やホワイトボードが入れられていた。
まるで事務所の見本のようなのにソファーのデザインや、その下のラグマット、カップボードやそこに並ぶ食器、照明器具、そんなものが地味だけど優しい色合いで、程よく空気を柔らかくしている。
入った時に感じた香りは伽羅というお香なのだとひなたが教えてくれた。リビングのサイドボードに置かれた小さな皿で、細く煙を棚引かせている線香のようなものがそうだという。この部屋の柔らかなムードはこの香りのせいもあると雷雅は思った。
線香とどう違うの? 雷雅の質問に龍弥が笑いを噛み殺し、ひなたは優しい眼差しを向けて『お香にはいろんな形のものがあり、細い棒状に作られたものを線香というんだ』と教えてくれた。ってことは同じじゃん、と、龍弥に笑われたことが、なんとなく納得いかない雷雅だった。
ソファーに腰かけ、古そうな冊子を見ていた煌一が、雷雅と龍弥を見ると対面に座れと促した。閉じられて無造作に置かれた冊子は古そうなを通り越し、うっかりすると綴じ糸が切れてしまいそうだ。チラリと見えた文面は墨で書かれた筆文字、古文書と言われるものなのだろうか? 似たようなものが数冊積まれている。
座る瞬間、龍弥が煌一とアイコンタクトを取ったことを雷雅は見逃していない。きっと二人は影を通じて僕には知られたくない話をする気だ、そう確信した。なるほど、影には騙されるな、龍弥の言葉が蘇る。
生活に不自由はないか? 煌一がそう尋ね、雷雅がありませんと答えているところにひなたがコーヒーを配り、クッキーの皿を置いた。おまえも座れと言われたひなたがスツールを持ってきて腰を降ろす。
雷雅の話を聞きたいと煌一が言う。
「ひなたがキミを見つけたのは五月の中旬、ゴールデンウィークが終わって、たいして経っていない頃だったね」
「はい」
「それからまだやっと二か月半――そんな短い期間に大きすぎる変化があったと思うけれど、どう感じている? 疲れや不満をため込んではいないか?」
様子を見る限り、煌一は本当に雷雅を心配しているようだ。
影にバリアを張っていると龍弥は言っていたけど、本当にそんなことが僕にできているのだろうか? 雷雅が疑念を抱く。この部屋に勝手口から入ってきたとき、僕が感じたことと、この質問は同じじゃないか? あの時の僕の気持ちを影を通じて読んだんじゃないのか? でも、もしそうだとしても、それが影だ。僕に気を使っていることに間違いはない。僕のために僕の影を読んだ、きっとそうだ。
「判りません」
煌一の目を見ずに雷雅が答える。
「疲れも不満も感じていない。でも、それをなんだかヘンだと感じています。こんな状況で、なんで僕は取り乱したり、追い詰められたりしていないんだろう?」
煌一は何も言わず雷雅を見つめている。隣に座る龍弥が雷雅を盗み見ているのを感じる。
「母が入院し、聞いたこともない『影の一族』と対面し、おまえは『陽の一族』だと言われ、わけの判らないまま引っ越しして、災厄魂だの闇だの、なんだそれって感じで、さらに守ると言われ、つまりそれって危険に晒されてるってことで、今までの生活では考えられない事ばかり。そんなのって、精神的にどうにかなりそうなのに、今まで通り朝起きて、食事して、学校に行って友達と笑って、夜もちゃんと眠れて。母さんのことは心配だけど、だからってそれで落ち込むこともない。こんなのどこか違うって感じる。なんで僕はこんなに落ち着いていられる?」
そうだ、その通りだ、なんでこんなに僕は冷静なのだろう? 自分で自分に呆れている。こんな時、誰に向けていいか判らない怒りを感じるんじゃないか? それなのに、怒りの感情が沸いてこない。
「敢えて言うなら――」
雷雅が煌一の顔を見る。
「こうなるって、知っていたような気がします。知っていたからこそ、ひなたさんに従っているような? ひなたさんが僕にすることって、僕の望み通り、予測通りみたいな、なんか、そんなふうに感じるんです」
煌一がチラリと龍弥を見てから雷雅に向き直る。
「実際、キミの望み通りに事が進んでいるってことかい?」
「いや、そんな……母さんに病気になって欲しいなんて思ってないし、陽だとか影だとか、災厄魂や闇だの、そんなものに関わり合いたいなんて、これっぽっちも思ってない――でもきっと、関わらないではいられない。僕が陽の一族なのだとしたら、こうなるはずだって、こうなって当然というか……」
「うん……」
煌一が静かな笑みを雷雅に向ける。雷雅が小さな溜息を吐いた。
「僕は――今さらですが、僕は陽の一族。そういうことなんですね? 自分が陽の一族だと、無意識に僕は了解している。そして、陽として振舞おうとしている。違いますか?」
煌一は何も答えずコーヒーに手を伸ばし、空になっていることに気が付くとひなたに頷いた。ひなたは黙って席を立ち、キッチンに向かった。
はじめは強制的に覚醒させるつもりだった――熱いコーヒーがサービスされると煌一が言った。
「それをひなたが反対した。『どうやら無意識のようだけど、ライガは四日目に、影にバリアを張り始めた。ライガの目覚めはきっと早い。だからこのまま様子を見よう』ってね」
夏まで待って欲しい……その時点では覚醒を急ぐ必要もないと判断し、それを許した。
「そしてひなたの言うとおり、キミは放っておいても近いうちに覚醒する、そう確信したのは闇と遭遇した時だ」
闇がキミを襲おうとしたあの件で、やはり早く覚醒させなければと思った。が、ひなたからキミには記憶のない数分間があると聞いて気が変わった。
「ライガ、その数分間、キミは意識を隔離したんだ。先日、タツヤをキミは目覚めさせた。あの時のタツヤと同じことをキミはした。ひなたを解術者に指定してね」
完全に覚醒しているわけでもない。しかも誰かが教えたわけでもない。それでもキミは能力を発揮し始めている。
「タツヤをキミに付けたのは、キミを護衛させると同時にキミを監視させるためだった」
キミに対して愛着のようなものを感じ始めているひなたではだめだと思った。だからむしろ、ひなたに反感を持っている龍弥を選んだ。龍弥なら、冷静に雷雅を観察するだろう。
ここで煌一が苦笑する。
「ところがタツヤも、ライガとひなたに魅了されてしまったようだ」
けれど、だからこそ、か。雷雅の変化に龍弥は敏感だった。
「ライガは影を信用し始めている、そうタツヤが報告してきた――陽と影は表裏一体のものだ。影を信じられないうちは、陽は本来の能力を発揮できない」
そう言って煌一は雷雅を見詰めた。
「キミは本当に、陽の能力を自覚できていないのかい? ひょっとしたら、でもいいんだ。そのあたりを教えて欲しい」
これがキミを呼んだ理由だ――煌一の顔が険しくなった。




