30 母の容態
それからしばらくひなたの日本文学に関する薀蓄を聞かされた。聞いたことがない作者や作品名が次々に出てきて、なにやら難しいことを言っていたが、要はひなたの一押しは漱石だという事だけはよく判った。雷雅は『吾輩は猫である』を途中で放棄した。読めと強要されなくてよかったと、こっそり胸を撫で下ろす。
『近年や最近書かれたもののほうが感情移入はしやすい』とか、『それでも古典が消えないのは普遍的なものがあるからだ』との件には『そりゃそうだろう』と思う。当り前のことを大げさに言っている。まぁ、それがひなたか?
「普遍的なもの、その正体を追求する、それこそが大事なのだ」
と、ひなたは言ったが、その正体がなにかまでは話す気がなかったようだ。要は、ひなたの暇つぶしに付き合わされただけだ。
セツが持ってきたケーキはひなたが三つ食べ、マスターと雷雅、龍弥がひとつずつ食べて終わった。コンコが持ってきた花束は綺麗な花瓶に生けられて、『あとでお部屋にお持ちくださいね』とマスターが龍弥に言った。ユウキが持ってきた果物は食べごろをマスターが見計らって、食事の時に出してくれるらしい。
「龍弥さまと雷雅さまにだけですからね」
物欲し気な顔をするひなたにマスターが釘をさす。
「お嬢さまには、わたしがご用意したものを召し上がっていただきますから」
それにしても奮発したものですね、とマスターが感心する。
「ケーキも果物も、いいお値段でしたでしょうに……皆さんで割り勘にしたとしても、高校生には負担が大きかったのでは?」
「そうなの?」
ピンとこないのか龍弥が雷雅に尋ねる。龍弥はきっと、ケーキも花も果物も買ったことがないんだろう。
「うーーーん。確かに結構な金額だとは思うけど」
龍弥に答えてからマスターに苦情を言った。
「お見舞いに貰ったものを、値踏みなんかしちゃダメだよ」
マスターが鼻白み、ひなたが笑う。
「ライガ、マスターはみんなの財布を心配しただけだよ。いわば親心だ」
「そっか、ごめん。気にかけてくれてありがとう」
雷雅の詫びにマスターは『いいえ、雷雅さまの仰る通りでした』と雷雅に詫びた。
マスターに頼んだ桃のパフェをひなたが食べ終わるころ、マスターが昼食はいかがいたしましょう? と聞いてきた。思わず雷雅と龍弥が目を見かわす。ケーキのおかげでまだ空腹を感じない。ひなたばかりは
「なにができるの?」
と目をキラキラさせて訊いている。
「そうですね……エビがありますから天ぷらでも揚げましょうか?」
「それじゃ、天ざるにして」
「お嬢さま、今から蕎麦を打つとなると、少々お時間がかかります」
「うん、いいよ。まだ煌一が帰ってきてない」
そう来たか、とニヤリと雷雅が笑う。
煌一が出かけて暇になったひなた、つい陽だまりに降りてきた。あれ、でも、それって……
「ひなたさんって、実はすごく寂しがり屋?」
「なに?」
雷雅の質問にひなたがキョトンと雷雅を見る。
「今更、気付いたのか?」
「ありゃ、あっさり認めるんだね」
笑う雷雅、マスターは少し微笑み、龍弥は見てみないフリで気拙そうな顔をする。
「木影の屋敷では小さなころはいつもマスターが傍にいたし、眠る時は必ずメイドの誰かが同じ部屋で眠った」
マスターがコーヒーを三人に配ってから、『蕎麦打ちは自室でしてまいります』と蕎麦粉らしき袋をもってカウンターの奥のドアから出て行った。
「ここに移ってきてからだ。夜、一人で過ごすようになったのは。ま、煌一がいることもあるけどね……そんな事より、雷雅こそどうなんだ?」
ひなたが雷雅を見る。
「お母さんと離れて暮らすのに慣れたか?」
ひなたの声は優しい。それが却って雷雅の心を揺する。龍弥はコーヒーに手を伸ばした。
「一人暮らしには慣れました――一人って言っても食事はここで摂るし、掃除も自分の部屋だけで他はマスターがやってくれてるし、洗濯は前から自分でもしていたし」
「そうか……不自由を感じていないのならよかった」
きっとひなたが訊きたかったのはそんなことじゃない。でもひなたは敢えて追及せず雷雅に合わせた、そう雷雅は感じる。
「ひなたさん」
改まった雷雅の物言いに、答えるひなたの声は静かだ。
「なんだ、ライガ?」
「母は、退院できるのでしょうか?」
ひなたがそっとコーヒーに手を伸ばし、龍弥は持ったままのコーヒーカップから視線を外さない。雷雅はひなたを見詰めたまま返事を待っている。
やがてポツンとひなたが言った。
「判らない」
それに雷雅が食いつく。
「医者はなんて? 病名はなんですか?」
ゆっくりとひなたが雷雅に向き直り、しばらく顔を見ていたが、
「出来る限りの治療を医師には頼んである。本人……お母さんも積極的だ」
と静かに言った。
「それって――やっぱり?」
雷雅の呼吸が深くなる。やっぱり母さんの病気は重篤……
前々からそうじゃないかと感じていた。母さんは会うたび痩せていく。
「母さん、あとどれくらい?」
雷雅の新たな質問にひなたが溜息を吐く。
「そんなこと、誰にも判るもんか。医者だって、絶対そうだとは言えない。たぶんって言葉が必ずついてくるものだ」
「ってことは、やっぱり余命宣告されたってこと?」
「ライガ――今、お母さんは腫瘍が小さくなる治療を受けている。頑張っているお母さんを見捨てるようなことを言うな」
「見捨ててなんかいないっ!」
大声を上げ、立ち上がろうとする雷雅の腕に龍弥が触れる。ちらりと龍弥を見て雷雅は座り直した。
「腫瘍ってことは癌ですよね? どこの?」
「脳腫瘍だ。場所が悪くて手術は難しいと医者が言った」
「母さん、そのことは?」
「知っているよ。だから頑張れる」
「だから頑張れる?」
雷雅の顔を再びひなたが見た。
「ライガ、おまえのお母さんは敵を知って戦っている。それをおまえがどう思うかはおまえの勝手だ」
雷雅がひなたから目を逸らす。涙が溢れてくるのが判った。見られたくないとは思わなかった。今更だ。だけど――
ひなたを責めるのは違うと思った。ひなたは僕が訊いたから、本当のことを教えてくれた。今まで黙っていたのは僕を苦しめないためだ。
それと同時に思う。ひなたがとうとう告げる気になったのは、母さんに残された時間がかなり少なくなったからだ――残された時間で、おまえにできることはなんだろうね? ひなたは雷雅にそう投げかけたんだと感じた。おまえの勝手とはそういう意味だ。きっとそうだ。
「教えてくれてありがとう」
雷雅の言葉にひなたの返事はない。
しばらく誰も何も言わず、静かに時が流れて行った。微かにクラシック音楽が聞こえる。どんなBGMを使っているかなんて、今まで気にしたことがなかった。でもそうだ、この店に初めて入った時も、確かクラシックだった。
「僕がコーヒー淹れたら、マスターに怒られるかな?」
そう言ったのは雷雅だ。
「うん、お替りが欲しいよね」
普段通りの声で龍弥が応える。
「わたしは偶に淹れるけど、マスターが怒ったことはない――コーヒー豆は向こうの棚、マスターはサイフォンを使うが、ドリッパーが同じ棚にあるはずだ。ケトルはほら、そこにある」
ひなたもいつも通りだ。
雷雅がカウンターの中に入ると、手伝うよと龍弥も席を立つ。教えられた棚を探り、雷雅がコーヒー豆とドリッパーを出している間に、龍弥がケトルに水を入れ沸かし始めた。
僕にできること……今まで通りの生活を送り、母さんを安心させること。心配させたら母さんは治療に専念できなくなる。そして――
母さんは真正面から自分に向き合っている。僕もそれを見倣おう。僕は陽の一族で、果たすべき使命がある。そうだ、使命だ。
自分の進むべき道が見えた気がした――




