16 護衛不在
雷雅が自宅についたのは、日没三十分前ギリギリだった。外階段を駆け上り、着替えて内階段で店に降りていく。
「おかえりなさいませ。今日はごゆっくりでしたね」
マスターがいつも通りに出迎える。
「う、うん……友達にちょっと誘われて」
「そうでございましたか。たまには息抜きも必要というものです。とにかくご無事でよかった」
影に騙されるな――いけ好かないヤツの言葉だが、マスターのことを『この人も影だ』と思っている雷雅がいる。優しくて親切だけど、マスターも影の一族、このまま信用していいものなのか?
そう言えばひなたの声が聞こえない。観葉植物を回り込んで、いつも座っている場所を覗いたが姿が見えない。
「……ひなたさんは?」
「お嬢さまは――」
マスターが苦笑したように雷雅は感じた。
「真夜中というか、未明に煌一さまがご帰宅されて、それからずっとお二人でお過ごしです。お昼に一度起きてこられたのですが、またお部屋に籠られてしまいました」
「そうなんだ……」
「そんなわけで、護衛に影をお付けできませんでした。心配なさっていましたが無事にお戻りになられたので、これで安心なさるでしょう」
「えっ? 護衛、ついてなかったの?」
「はい、雷雅さまがお出かけになる時刻には、お嬢さまはお休みになってらしたかと――夜間ならともかく、昼間に影を独り歩きさせられません」
「そうなんだ……」
ってことは、僕の足止めをしたのはひなたじゃない? そうなると、あのすれ違った男? あのすれ違った男も影の一族なのか?
考え込む雷雅を見てマスターが顔を曇らせる。
「まさか、何かあったのでございますか?」
「ううん……ひなたさんがいなくて、ちょっと調子が狂っただけ」
雷雅の胸が罪悪感にチクリと痛む。どこの誰とも判らないヤツの言葉に心が揺れている。
ひなたが僕を助けてくれたのは、きっと間違いない。マスターは間違いなく、僕によくしてくれている。母さんだって、ひなたに任せると言った。なのに僕はあんなヤツの言葉をどこかで信用しようとしている。アイツと出会ったことを、なぜ隠そうとする?
ひなたが顔を見せたのは、マスターが夕飯のカレーを煮始めた頃だった。ライガはいつもの席でボケッとしていた。
「今夜はカレー? カツカレーにできる?」
お任せくださいと答えるマスターに、その前にコーヒーゼリーが食べたいとひなたが甘えた。
いつもの席に座るとノートパソコンを開け、雷雅をチラリと見る。
「ふぅん、カラオケか」
「えっ?」
「今日はすまなかった。影を護衛につけるつもりができなくて――無事でよかったよ」
「あ……」
影か。僕の影に聞いたんだ。ってことは……
「アイツは誰なんですか?」
「アイツ?」
「だから、僕を足止めしたヤツ?」
ひなたの視線が雷雅の顔から雷雅の影に移る。
「フン。ライガ、わたしに隠し事をしようとしたな?」
「えっ?」
「おまえの影が証言を拒絶した。おまえが自分の口から言わない限り、言いたくないそうだ」
「……」
「墓穴を掘ったな。影は、本人の意思に反するような動きはしない」
「だって、いつも僕は言いたくないのに……」
「心ってのは本人でさえも理解できないときもある。言いたくないと意識では思っていても、深層では『言って理解して欲しい、打ち明けたい』、そう考えてる時だってあるものだ。わたしが今までライガの影から聞き出したことは、心のどこかでライガ、キミ自身がわたしに知って欲しいと感じていることだけなんだよ」
ひなたの口調は柔らかで、却って雷雅をかたくなにする。疑ったなんて、知られたくない――
「よほど言いずらいことのようだ。まぁ、言いたくなければ言わなくてもいい。わたしは無理にこじ開けるようなやり方をしない」
コーヒーゼリーを持ってきたマスターにひなたが会釈し、添えられていたシロップとミルクをたっぷりゼリーに掛けた。
「だから、楽しい話をしよう――わたしの見立てでは、そのセツって女の子は、ライガ、おまえに気があるぞ」
「えっ! えっ? えええ?」
「おまえの影が勢い込んで報告してきた。可愛いんだ?」
「いや、ちょっと待って、なんでそうなる?」
「ふふん、おまえもでかいほうが好きか? ま、そんな年ごろか」
「いや、いや、なにが?」
「しらばっくれるな、今夜、夢に見るかもしれんな」
「しらばっくれるも何も、って、何を夢に見るって? いや、そうじゃない、話をどんどん変えてませんかっ?」
キッチンから、ジュワっとトンカツを揚げる音がし始める。そう言えばカレーの匂いも立ち込めている。
「マスター、ゆで卵もつけて」
「だから、ひなたさんっ!」
顔を真っ赤にして抗議する雷雅、ひなたはクスクス笑うばかりだ。
「複雑だな、ライガ。セツって子の話題の時、ちらりとコンコって子を思い浮かべただろ?」
「え? そうだった?」
いきなり思いも寄らないことを言われて雷雅がきょとんとする。
「なんだ、自覚ナシか――んじゃ、今の件は忘れてよろしい」
「なんだよ、それ?」
「うん? まぁさ、影は本人の無意識もちゃんと自覚しちゃうってことだ。ライガは本人も素直だけど、影は馬鹿素直だ」
「馬鹿正直って言葉はよく聞きますが、馬鹿素直って初めて聞く言葉です」
「そうか、これでまた一つ賢くなったな」
「そうじゃないでしょっ!」
カウンター奥のドアの開く気配、いい匂いだねと男の声がする。すぐに観葉植物の影から姿を見せた。
洗いっぱなしの髪は癖っ毛っぽい。それが堀の深い顔立ちとマッチしている。ソイツが遠慮もなしに、ひなたと雷雅の間に腰を掛けると、
「タバコ、吸っても大丈夫?」
と、雷雅に聞いてきた。
「コーちゃん、タバコ、やめたんじゃなかったの? てか、分煙! 吸うなら向こうの喫煙ブースで吸って!」
釘をさすひなた、
「コーちゃん? って煌一さん?」
思わず確認する雷雅、
「二人で大声出すなよ」
と、煌一が顔を顰めた。
髭を剃っただけでなんだか別人だ……雷雅が煌一をマジマジと見ていると、煌一が雷雅に話しかけてきた。
「隠里に会ったそうだな」
「隠里?」
「道ですれ違ったと報告があったぞ」
「あ……あの人、なんか嫌な感じの。誰なんですか、あれ?」
「フン、だから隠里だって言ってる。嫌な感じね、うん、確かにそうかもな――アイツは俺の弟弟子だ。明日から学校でおまえの護衛につくことになってる。齢を誤魔化しておまえと同じクラスになるよう手配した」
「転校してくるってこと? 本当は幾つなんですか?」
「今年二十だったかな?」
四つもサバ読みますか?
「今日、うちのクラスには転校生きたばっかだから、他のクラスになるんじゃ?」
「気にするな。同じクラスだ、抜かりはない」
あんなヤツがクラスメイト? 巧く行くかな? それにしても年齢査証? 公立高校で? きっとまた国家権力だ……




