118 見せなかった動揺
煌一が、アップルパイから零れたリンゴをフォークに刺す。
「それにしても、揃いに揃って嘘吐きばかり……ヤツの女房だけか、嘘がなかったのは?」
それはどうだろうとひなたが笑う。
「わたしたちとは接触していないから、嘘を言うチャンスもなかっただけだ。夫には嘘を吐き続けてる」
「あぁ……影を恨んでいるとか、影を手に掛けたことを忘れた、とか?」
「そう、元凶は案外そこにあるかもね。陽彩さんがもっと素直だったら、ヤツも陽彩さんのために影をどうにかしようなんて思わなかった……かもしれない」
ひなたがモンブランの上に乗っかっていた大きな栗をパクリと口に放り込む。
「影を恨んでいると言ったのは勢いで本心じゃない。あなたがいてくれれば幸せ。そう素直に言えばよかったんだ。影を殺めたことについても、怖くて仕方がないって言えばよかったんだ。それを無理して気にしていないフリなんかするからどんどん苦しくなった――でも、言えなかったんだろうね。自分に自信がないから。こんなこと言ったら捨てられないか、不安だったんだろうね。影として大した能力を持っていなかった陽彩さんが、自分に自信が持てないのは、判んなくもない」
やっぱり影の暮らしの在り様を考えなきゃいけないね、これはひなたの独り言だ。
ふと見ると、マスターがじっとケーキを見詰めている。そう言えばマスターの選んだケーキはどちらもチョコレートが使われたものだ。
雷雅が自分を見ていることに気付いたマスターが少しだけ笑んだ。
「陽彩さんは狩人を殺めるつもりはなかったと言っていました――わたしはなぜ、庇われたのでしょう。わたしへの攻撃はきっと足元あたりを狙ったもの、前に出たばかりにわたしの……」
わたしの相方は命を落とした、マスターはそう言うつもりで言葉を詰まらせたのだと雷雅は思った。ところが、
「わたしの妹は命を落としてしまった」
と、マスターは続けた。四人の視線がマスターにそっと注がれる。マスターはきっと、自分のために命を投げ出したのは妹だと、初めて口にした。
「わたしに妹がいることは人伝に聞いていました――ひと目見てこの子だと、気が付いていました。苗字が同じで、きっとそうだろうとだけですが、なぜか確信していました……懐かしく思えたし、わたしを狩人の先輩と慕ってくれるのも嬉しかった。けれど狩人のプライドが、彼女に心を開くことをわたしに許してくれませんでした」
オペラを一口マスターが口に運ぶ。チョコレートが好物でね、マスターの呟きは、妹がそうなのか、それともマスターがそうなのか判らない。
「相方を亡くしたわたしに大奥さまは『狩人の役目を果たしただけだ』、だからおまえが悔やむことはないと仰いました。そして、やはり狩人に情は不要なのかもしれない、と漏らされたのです」
マスターは瞬きすることもなく、ケーキを睨み続けている。
「妹と気付いていながら、ほんの少しも情をかけてやることがなかった妹、狩人に情は不要という大奥さま。わたしはその時思ったのです。これから先、なにがあっても誰に対しても情をもつ事はしない、と。それが妹への弔いになると感じ、大奥さまへの意地でもありました」
チラリとひなたがマスターを盗み見た。マスターは相変わらずケーキを睨みつけている。
「妻はわたしと同じタイプ――狩人の使命に生きる、そんな女性でした。だから愛情だのなんだので悩まされることはありませんでした。でも、ひょっとしたらわたしが気付かないだけで、わたしは彼女を苦しめていたかもしれません。彼女がこの世にいない今、確かめようもないことです」
硬い表情だったマスターがやっと、フッと息を漏らす。
「さつきが生まれた時は、そんなわたしの心も揺れました――抱き上げた身体の柔らかさと温かさ。軽くて壊れてしまいそうで、守りたいと思いました。心が熱いものに満たされていく……愛しいとはこのことかと思ったのです。でも、わたしは、今思えばそんな当たり前の感情を狩人なのだからと封印したのです」
言葉が途切れ、何度かマスターがオペラを口に運ぶ。誰も何も言わず、チラチラとマスターの様子を窺うだけだ。
「そんなでしたから、さつきに愛情を向けたこともありませんでした。常に狩人の師匠として接したのです――妻が病気で亡くなったのはさつきが十歳の時、わたしは妻の入院先に行くこともありませんでした。危篤だと連絡が来ても行きませんでした。さつきを頼む、妻からそう言われるのが怖かったのです」
本当にそれだけだろうかと雷雅が思う。死んでいく妻を見るのが怖かったんじゃないのか? 母親を亡くして泣く娘を抱き締めてしまいそうで、それが怖かったんじゃなかったのか?
「大奥さまはわたしが反抗的な態度をとる理由を見抜いていらしたかもしれません……さつきをどうしても大奥さまの傍に置いて欲しいというわたしを見詰めて、狩人を辞めろと仰いました。おまえは相方を亡くしたことを忘れられずにいる。そんなおまえは狩人に向かない――」
不意にマスターがニッコリと笑った。
「そんなわたしを変えたのはひなたさまでした」
マスターの急変に、ひなた以外が視線をしっかりとマスターに向けた。
「狩人名簿から抹消されしばらく経ったころ、木陰家から『執事にならないか』とお誘いが来ました。執事とは名ばかり、実際はお嬢さまの護衛、狩人だったことを見込んでと言われ、よく考えもせず承諾しました。ところが、蓋を開けてみれば護衛とは名ばかり、ただの子守……プライドが傷つけられたのを覚えています」
苦笑するマスターの顔は懐かしそうだ。
「子守などしたことのないわたしです。こちらから辞めると言わなくても、そのうちクビになる。そう思っていたのに、もう十七年を過ぎました――五歳のひなたさまは喋 らず笑わず、どこを見ているのか判らず……あの時わたしは、ひなたさまの中に自分自身を見たのかもしれません。木陰家当主のご依頼は、ひなたさまの感情を取り戻すこと。ひなたさまに生き生きとした心の動きが戻ると同時に、わたしの中の抑圧されたものも解き放たれていくのを感じました」
煌一が腕を組み、マスターがそれを静かに見た。
「さつきのことで煌一さまはわたしに腹をお立てになった……煌一さまのお怒りもごもっともだと思っております」
ひなたが何か言おうとしたが、マスターの顔を見て辞める。
「あの時、わたしの中で渦巻いていたのはさつきのことだけでした――ひなたさまのお傍にいて、ひなたさまの成長を目の当たりにし、それがわたしの喜びとなるにつれ、なぜ自分の娘に同じように接しなかったか、後悔しておりました。さつきの身に何かがあったかもしれない、そう感じるほど怖くてさつきの名を口にすることさえできなかった……大奥さまの安否を尋ねるしか、わたしにはできなかったのです」
煌一が腕を組んだまま目を閉じた。ひなたがそっとコーヒーに手を伸ばし、中を覗き込む。
「コーヒー、空っぽ……」
慌てて立ち上がった龍弥をマスターが制した。
「わたしがお淹れしますよ――いまではここでの仕事がわたしの生甲斐なんです。取り上げてはいけません」
いつも通りのマスターがニッコリ笑う。
「あれ? わたしの成長を見守るのは?」
ひなたがお道化ると、煌一が
「おまえ、まだ成長する気でいるのか?」
と呆れた。
コーヒーのお替りが配られると、他愛ない話が続く。ひなたが燥ぎ、煌一が苦笑いし、雷雅がひなたを煽り、龍弥が目を白黒させ、マスターも笑いを抑えきれないでいる。そうして、やっと全員がケーキを食べ終わると、食器が片付けられ、替わりに紅茶が用意された。
僕の番だ。僕が話す番が来た――雷雅はゆっくりと影たちを見渡した。




