117 恋も愛も複雑で
目が覚めたのは自分の部屋のベッドの中、常夜灯だけが照らされて薄暗く、最初はどこだか判らなかった。
リビングに行くと、こちらは普通に照明が点けられているが、誰もいない。テーブルにメモが置いてあった。
『喉が渇いたなら冷蔵庫に色々入れておいた。ダイニングにすぐ食べられるものが置いてある。俺は陽だまりにいるけど、眠たかったら無理するな――龍弥』
ダイニングテーブルを見ると、おにぎりと玉子焼きが乗せられた皿、いくつかの菓子パン、クッキーやらバウムクーヘンなどもある。
冷蔵庫にあったペットボトルのコーヒーをコップに注ぎ、一気に飲み干すと、おにぎりの皿を持って内階段に出た。
階段を下りながら、自分の身体の重さを感じる。僕はどれくらい眠っていたんだろう? そう言えばスマホを部屋に置いてきてしまった。
「ライ――目が覚めたんだね」
龍弥はカウンターに座っていた。龍弥の声に、カウンターの中にしゃがみ込んでいたマスターが立ち上がってホッとした顔で雷雅を見た。観葉植物の後ろから煌一とひなたも顔を出す。
「お腹すいた――マスター、何か作って。おにぎりだけじゃ足りない」
「はい、雷雅さま、すぐに……おにぎりは温めましょう」
奥に行こう、と龍弥が寄り添う。ひなたが観葉植物の後ろに戻り、煌一もそのあとに続いた。
ステンドグラス風の壁に囲まれたいつもの席、今日はソファーになった壁際の席をひなたが譲ってくれた。電子レンジがチンと鳴り、マスターがおにぎりと温かな味噌汁を運んでくる。日本茶も添えてある。
「グラタンがあるので、すぐに温めてお持ちしますね。一緒にコーヒーもお持ちします。今、落としていますから」
きっとマスターはいつ雷雅が起きてきてもいいように作って待っていた。僕の好物だって知っているから、グラタンを作って待っていたんだ――
「そうだ、ケーキも買ってある。わたしは五個も食べてしまった。龍弥は三個、雷雅は幾つ食える?」
「ひなた、大食い競争じゃないんだから」
苦笑する煌一、ひなたが雷雅にこっそりと、けれどみんなに聞こえるように
「煌一は二つしか食べられなかった」
と笑った。
おにぎりは肉味噌とツナマヨの二つ、甘い玉子焼きを口に入れた時、泣きそうになった。日常に帰ってきた、そう感じた。
グラタンを食べながら、ふと思った。
「パフェが食べたい。なんか、無性にパフェが食べたいや」
「そうか――マスター、チーズケーキのパフェを三つ」
ひなたのオーダーに『かしこまりました』と答えるマスターの声は震えていた。
「チーズケーキのパフェ?」
「うん、ケーキが大量にあるんだ。ひなたさんったら、店に残っているのを全部買い占めた。雷雅の好みが判らないって言って」
笑う龍弥に、これでチーズケーキの始末はついたな、とひなたも笑う。
あとは何があるの? 雷雅が尋ねると、
「ショートケーキ、オペラ、ミルフィーユ、モンブラン、アップルパイ、ティラミスにザッハトルテ、それと何だっけ……あぁ、エクレアだ」
「まだ八個もあるんだ?」
つい笑った雷雅に、
「甘いな、ライガ――エクレアはカスタードクリーム、チョコカスタード、ミルククリームにイチゴチョコの三種類ある。全部で十個だ。ちなみにイチゴチョコ、イチゴの粒々があって美味だった」
ひなたも笑った。
チーズケーキのパフェは三色のアイスクリームが、角切りにされたフルーツと一緒に砕いたチーズケーキと層を成していた。上部はホイップクリームとイチゴで飾られて、小さなチーズケーキも乗せられている。さらにチョコレートソースが掛かっていた。
いつも通りのひなたの絶賛、クスクス笑う龍弥――煌一は呆れ顔のくせに穏やかな笑みを見せ、しばらく三人が食べるのを眺めていたが思い出したように立ち上がると喫煙ブースに消えた。
パフェを食べ終わったところで大皿に乗せられたケーキが運ばれ、どれにしようか雷雅が迷う。マスターがケーキ皿とフォークを三揃え持ってきた。つまり龍弥とひなたにも食べろという事なのだ。できれば今日中に完食したほうがいい。ひなたは目を輝かせているが、龍弥はやや引き気味でケーキを眺めている。
「そう言えば、何時?」
ミルフィーユを乗せたケーキ皿にイチゴチョコのエクレアを追加しながら雷雅が問う。
「そろそろ十時だね――せめてもう一個食べたら?」
ひなたがケーキから目を離さずに答える。
「何時間くらい寝てたんだろう?」
ザッハトルテに手を伸ばしながら雷雅が答える。
残りのケーキが乗った皿を龍弥の方に押しやってひなたが
「三時間ってところだよ。食べたらまた眠ったほうがいい」
と言う。龍弥がティラミスを自分の皿に取り、残りをひなたの前に押しやった。
「いや、話したくて来たんだから、追い返さないでよ」
「そうか……」
雷雅の言葉にひなたが複雑な笑みを見せた。
コーヒーのお替りを持ってきたマスターに
「一緒に食べて」
ケーキの残りをひなたが指す。まだ随分とございますね、マスターが自分の皿を持ってきて、オペラとチョコカスタードのエクレアを取った。そこに煌一が戻り、ひなたのケーキ皿にアップルパイとエクレアを乗せた。
「じゃ、残りはわたしが食べていいね?」
嬉しそうなひなた、残っているのはショートケーキにモンブラン、そのままの皿で食べる気だ。慌ててマスターがフォークを取りに行った。
ミルフィーユをフォークで切り分けながら雷雅がぽつりと言った。
「一つだけ判らないことがあるんだ……なんで訊いておかなかったんだろう?」
うん? とひなたが雷雅を見る。
「判らない、じゃなくって、答えに自信が持てない、なんじゃないのか?」
「あぁ、そうか。そうだね――ヤツが大奥さまを殺めた理由なんだけど、陽彩さんのためでいいのかな?」
龍弥が、えっ? と雷雅を見る。煌一が
「惚れた女を不安にさせないために昔の女を殺す? ふざけるなって、勝手すぎだろうが――だいたい、ちゃんと好きだと言ってやれば解決するだろうにな」
とボヤき、龍弥が今度は煌一を見る。
次に発言したのはひなただった。
「言葉にしても態度で示しても、陽彩さんの不安は払拭されなかった。そのうえ、いくら故意じゃないとは言え影の狩人を命を奪ってしまい、さらに陽彩さんは不安定になった――すべて影が悪い、陽と影が存在するからいけないんだってことにして、なんとか陽彩さんを納得させたかった。ヤツにとっては苦肉の策ってところだろうね」
「それじゃあ、ヤツは陽彩さんのためにこんなことしたってこと?」
龍弥がとうとうひなたに訊いた。そんな龍弥にひなたが笑む。
「たぶんね。恋も愛も複雑で難しいってことだ――今から覚悟しておいたほうがいいぞ、タツヤ。ひょっとして、そんな覚悟をしなくちゃならない相手ができた?」
そんな暇ないよ、と龍弥が苦笑する。
「でもさ」
雷雅が再び疑問を投げる。
「ヤツがわざわざ昔話を陽彩さんにしたのかな? どうもしっくりこない」
「話してないだろ? 陽彩さんは『埋められない孤独』がなんなのか判らないって言ってた。聞いていれば、忘れられない人とかって表現になる」
「だったらなんで、陽彩さんはそんなふうに感じたんだろう?」
「判らないけど――ヤツのことを別の世界の人、と感じていたからかもしれない。どんなに愛されても、いつか『もとの別世界』に戻ってしまうんじゃないかって思ったのかも。好き過ぎたんだろうね」
「好きになり過ぎると失敗する?」
聞いたのは龍弥だ。するとひなたがフフンと笑った。
「加減するようにしよう、なんて考えるなよ。そんな器用なヤツはきっとどこにもいない。だからみんな悩むんだ」
「出たよ、ひなたさんの中途半端なアドバイス」
雷雅が笑った。




