114 優しい男
答えられないのか、答えたくないのか、答えるのが怖いのか、それとも単に判らないのか……どれが理由か不明だが、誰もこの問いには答えないだろう。そう思いながら、目を閉じて横たわる男の顔をまじまじと見つめた。
髪は白いもののほうが多く、浅黒く硬そうな皮膚にはところどころシミが浮き、皺も目立つ。穏やかなとは言い難い寝顔は、恒星の心そのもののようだ。
「どんな人なんですか?」
雷雅が静かに尋ねた。
「陽彩さん、出会った頃、この人はどんな人でしたか? 結婚した時は? 子どもが生まれた時は?」
訊かれるなどと思っていなかったのだろう。陽彩が雷雅に、えっ? と驚いて視線を向ける。
「彗星さん、流星さん……この人はどんな父親でしたか? 可愛がってくれましたか? どんな叱り方をしましたか? どんなことを教えてくれましたか?」
彗星も流星も、戸惑いの表情で雷雅を見ている。
「そして――どんな時に笑いましたか?」
その間も雷雅は恒星から視線を外さない。
「あ……朱方は、優しい人です」
最初に口を開いたのは陽彩だった。
「出会ったのはわたしが働いていたレストラン、朱方は毎日のようにランチタイムに来るお客で、食事を済ますとさっさと出て行く――都心のビジネス街、他のお客もみんな、そんな感じでした。お客は誰もが忙しく、注文を取りに行っても、お料理をお出ししても、わたしに目をくれる人なんかいませんでした。食べているときも新聞や雑誌、ビジネス誌と言うんでしょうか? そんな物から目を離さず、わたしから見れば別の世界に生きている人……この人たちから見たら、わたしは自動販売機と変わらない存在なんだ、そう感じていました。道端に立つ信号機や、駅の券売機、用のある時だけ見て、それが終われば忘れてしまう。そんな存在なんだと感じていました。だから――」
だから――陽彩が雷雅から目を逸らし、恒星に視線を向けた。
「だから畳んだメモを渡された時はクレームかと思いました。注文の時、手渡されたメモには『食事に行かないか?』と書かれていて――揶揄われた、無視しよう、そう思ったのに朱方は、注文された料理を運んだわたしに、またメモを渡してきました。時間と場所が書かれ、待っているとありました。来るまで待っている、と。行かないと思ったのに、結局わたしは会いに行きました。いえ、違う、本当に来ているのか、確かめたかっただけ。物陰に隠れて様子を窺うと、指定された時間から二時間以上も経っているのに朱方はいて、寂しそうな顔で空を見上げていました。あとで聞いたら、星が見えない、そう思って見ていたのだと笑いました……」
当時を思い出しているのか、それとも別の思いからか、陽彩が黙り込む。そして続けた。
「そのまま帰るつもりだったのに、気が付いたら朱方の前に立っていました。パッと明るい表情に変わり、嬉しそうな顔で『来てくれたんだね』と言いました。あの嬉しそうな顔は今でも思い起こすことがあります。別の世界に住む人だ思っていたのは、心のどこかで朱方に憧れていたからかもしれません」
この人、今ではこんなおジイちゃんだけど、あの頃はね、結構イケメンだったのよ、うっすらと笑う。
「ずっとこの人は優しかった。わたしが影だと打ち明けた時も、優しく抱き締めて怖がらなくていいと言ってくれた。彗星が生まれて初めての子育てに不安な時も、僕を頼りにしなさい、大丈夫だよ、と笑顔を見せてくれた――流星のことだって、あんなこと言ったけど実際は違う。なんであんなことを言ったのか判らない……流産するかもしれないと医者に言われてこの人は、なんとか助けて欲しいと必死に頼み込んだのよ。低出生体重児で保育器に入れられた流星を心配して、毎日のように産院に来てくれた。自分を責めるわたしに、おまえのせいじゃないと言い、ちゃんと産んでくれたじゃないか、おまえが頑張ったから生まれたんだよ、と言ってくれた」
陽彩の瞳から涙が零れ落ちた。
「ナガレって名前はこの人が決めたけれど、それだってあんな理由じゃないし、役所に届けを出したのもこの人――空に軌道を残す流星のように、輝く人生の軌道をって、そう願って付けた名前。それなのに、なんであんなことを言ったのか」
彗星が陽彩にハンカチを手渡し、陽彩が涙を拭う。
「狩人の邪魔をしたのはわたしなんです。わたしの意思でしたことなんです。影に対する恨みめいたことを言うわたしに、陽に変えてあげるから、影に恨みを晴らすといい……この人、そう言ったんです。影を捨て陽になり、結婚して欲しい、そう言ったんです――本心で影を恨んでいたわけじゃなかったけれど、形ばかりでも影に報復しなければ、わたしはこの人に見捨てられるんじゃないか。そんなことをわたしは考えていました。そんなわたしにこの人は、『そうしたいなら止めない。でもね、無理をしてはいけない』と言いました。自分を追い詰めているようで心配だよと言ったこともありました。だけど、わたし、やめられなかったんです――この人は時どき、とてつもない孤独に苛まれている時がある。わたしでは埋められない孤独、それがなんなのか判らないまま、その孤独にこの人を取られる不安に、いつもわたしは怯えていました。それがわたしを狩人への妨害行為に駆り立てました。こうしていればこの人はわたしを見捨てない、そう思ったんです」
さやかさんが原因だと思っていたのは違うようだ、と雷雅が思う。だいたい、陽彩から聞く恒星の印象と、流星から聞く恒星の印象、さらに恒星自身から受けた印象、この三つがどうも合致しない。陽彩の話が終わったら、彗星から話を聞こう。そこにはきっと、また別の恒星がいる。そう感じた。
「あの時も、わたしが誤って狩人の女性の命を奪ってしまったあの時も、この人はおまえのせいじゃない、と犯した罪の深さに慄き泣きじゃくるわたしを抱き締めてくれました。忘れなさい、と言い、大丈夫だ、と言いました。僕に任せてと、この時も言いました。それからも、それまでと変わらず、むしろますますこの人はわたしに優しく、気にかけてくれるようになり、後ろめたさがわたしに恐ろしい出来事を忘れたふりをさせました。この人のために、忘れなくてはいけないと思ったのです。けれど心はわたしを逃がしてはくれません。夢を見ては魘されるわたしを揺り起こすこの人の顔はいつも悲しげで、わたしが決して忘れていないことを知っていました――そしてこの人は少しずつ変わっていったのです」
陽彩がグッと嗚咽を堪えた。
「影に無関心に見えたこの人が、熱心に影の現状を調べ始めたのです。こんなことになったのも、影がいけないのだと言いました。息子たちの覚醒を待って影を、影の能力を僕たちで封じてしまおう。陽が四人もいればなんとかなる――そんなの無謀だと言うわたしに、いつものようにこの人は『大丈夫、僕に任せていればいいんだ』と微笑むだけで、聞く耳を持ってはくれませんでした」
とうとう泣きじゃくり始めた陽彩の背を彗星が撫でて慰める。その目が『まだ聞きたいですか?』と雷雅に問いかけている。
妻に対してはどこまでも優しい夫、それは判った。それに、さやかが原因ではないとしたら別の原因がある。その原因も判ってきたような気がする。これ以上、陽彩に聞いても『優しい』以外が出てくるだろうか?
「彗星さんは、恒星さんをどう見ていますか?」
陽彩を開放し、今度は彗星に話を聞こう、そう雷雅は決めた。
「それは――」
彗星が雷雅を見て戸惑う。入り口付近にいたひなたがそっと近づいて、
「お疲れでしょう? あちらで少し、休みませんか?」
と、陽彩に声をかける。見あげる彗星、頷くひなた、そんな二人を見ることもなく、よろよろと立ち上がった陽彩がひなたに付き添われ部屋を出て行く。
それを見送って彗星が苦笑する。
「どうしても、俺の話が聞きたいようだね」
「陽彩さんの知らない話や、聞かせたくない話もこれで出来ますね? 陽彩さんとはまた違ったお話を聞かせていただける――違いますか、彗星さん?」
雷雅の言葉に流星が腰を浮かす。
「では、わたしも――」
「いや、ナガレ、おまえにも聞いて欲しい」
彗星が流星を引き留めた。




