1 宙を飛んで逃げろ!
だんだん薄暗くなる公園を、少年は急ぎ足で通り過ぎる。出るという噂を信じているわけじゃないが、確かにこの公園は薄気味悪い。出るとしても時刻はまだ夕刻だ。もう少しで日没、真っ暗というほどではない。街灯さえ仕事を始めるかどうか迷っている。
不意に少年が立ち止まった。誰かの声が聞こえた気がした。
(フン、甘いな――この時間が一番ヤバいんだ)
そんな声だった。しかも、耳から聞こえている気がしない。
(馬鹿! 立ち止まるな!)
「えっ?」
慌てて周囲を見渡すが、誰もいない。
(早く! 早く公園を抜けちまえ。始まる前に領域から出るんだ!)
「えっ? えっ? えっ?」
声に従うわけじゃない、それでも少年は出口を目指す。奇妙しい、何かが奇妙しい、何かが起きる!
慌てる少年の足が縺れ、倒れ込む。
(チッ! こんなとこで転ぶなよっ! 三、二、一! ダメだ、始まった!)
立ち上がった少年の手を誰かが掴む。
(こっちだ! 走って!)
「いや、そっちは出口と反対……」
(出口? 出口にゃキミを食っちまおうと待ち構えてるヤツがいる)
「えっ?」
なにかに手を引かれたまま、振り返る。
「な、なんだ、あれ?」
確かにそこには何かいる。暗く重い何か、実体のない何か、それが確かにこっちを見ている。
(腰を抜かすのは後にしろ、逃げるんだ! このまま真直ぐ進め!)
少年の手を引く誰かが叫ぶ。
「でも、その先は公園の端で――」
(知ってるよ、転落防止のガードレール、その向こうは十メートルの崖だ)
「追い詰められちゃうよ?」
再び振り向くと黒く重苦しいものはだんだんこちらに追いついてきている。
(このままの勢いで走って、ガードレールを踏み台に飛ぶんだ!)
「ええ? だって向こうは――」
(大丈夫、宙を飛んでビル伝いに逃げる)
「宙を飛ぶなんてできっこない!」
(できるって――キミ、自分の影を見てごらん)
「影?」
走りながら足元を見渡す。
「影……どこ? 僕の影、どこ? え、え、ええーーーーーー!!!」
どこにも影がない。叫び声をあげる少年を、声はまったく気にしない。
(だから大丈夫、影のない今なら飛べる――さぁ、飛ぶぞ、せぇーーーのっ!)
「うわぁあ!」
ええぃ、ままよ! ギュッと目を閉じ少年は、ガードレールを踏み切った。きっとこれは夢だ、宙に身を投げれば落下感で、僕はガクッと目を覚ます。だからここは飛んでも大丈夫だ。
(歩くんだ、わたしを真似ろ!)
意に反して落下感はない。声はやっぱり聞こえてくる。夢じゃないのかよっ?
(早く歩け、重くて落としそうだ)
真似る? なにを? 身体は落ちることもなく、誰かが手を引く方向に進んでいる。その手、掴んでいるのは誰だ?
(歩けってば!)
「は、はいっ!」
とりあえず歩いてみる。するといつもより体が軽く感じる。
(そう、その調子だ。もっと歩幅を大きくしよう。飛び跳ねる感じだ)
「飛び跳ねる?」
(うん、引っ張られている手の、少し左を見てごらん。目を凝らして)
「あ……あんた、幽霊?」
そこには薄らぼんやりした影が見えた。
(腰を抜かすな、気絶するなっ!)
「そんなこと言われても……」
(じゃあ、泣いてもいい、泣くのはギリセーフ。そして飛べ、わたしに合わせて)
「あんた、誰なんだよ? いや、なんなんだよっ?」
(失礼なヤツだ、モノ扱いするな。助けてやった命の恩人だぞ――うん、巧いじゃないか、その調子。リズム感が一番大事)
影はビルからビルへと飛び移っていく。影を見れば、次の足掛かりがどこなのか予測できた。ひょーい、ひょーいとビルを次々に飛び越えていく。慣れてくれば、ちょっとだけ遊びの気分になる。小さな子どもなら喜びそうだ。
ひょっとしたら自分の影? 最初はそう思った少年も、影をよくよく見ると違うと判る。影は長い髪を後ろに纏め、なびかせている。少年の髪とは明らかに違う。
気が付くと太陽はしっかり沈み込み、あちらこちらで街灯が煌めいている。建物の窓々に灯りがともり、夜が始まった。
(あそこ、あの、屋上のドアが開けっぱなしのあのビル、あそこに着地するよ)
ビルからビルへと飛び越えるスピード感、着地の衝撃はいかに? と思いきや、ストンと屋上に降ろされる。
逃げてきた公園のほうを見ると、ところどころに街灯の光があるだけで、何も見えない。あの何かはどこへ消えたんだろう? それにしても、あんなところから飛んで来たのか……改めてぞっとする。
(少年、こっちだ)
再び手を引かれ、ドアの中に引き込まれる。
(ドア、閉めて)
言われたとおりにドアを閉めると、
(こっち――)
薄暗い階段を降りていく。窓もなく、光源がどこにあるかが判らない。間接照明、そんな感じだ。
ビルは四階建てなのだろう。四階分降りると階段が終わり、一枚のドアがあるだけの狭いスペースになった。
(ただいま)
と、ドアの前で声が言った。同時に、手を握る存在が消えた。少年が焦る。
「えっ? ちょっと待ってよ、僕、どうしたら? どうしたらいいんだ?」
周囲を探っても、なにも触るものがない。影はもう、ここにいない。ドアが一つと階段があるだけ、つまりこのドアを開けるしかない。階段を上っても、ここに来るまで同じようなフロアの繰り返しだった。脱出のためとはいえ、屋上から飛び降りる勇気なんかあるはずもない。
恐る恐るドアを開けてみる。鍵は掛かっていなかった。明るい光が差し込み、クラシック音楽が微かに聞こえる。すぐそこに立っていた男の人が振り返った。
「いらっしゃいませ――お客様、珍しいところからご来店ですね」
どうやら喫茶店のようだ。カウンター席の内側に出てしまったと見える。サイフォンがコポコポと音を立て、いい香りがしている。
「あ、あ、すいません――なんか、迷い込んじゃって」
言い訳しているうちに、すぐそこに置いてあったファックスがガタガタと音を立て始めた。注文でも入ったのだろうか?
「少年!」
「あっ! さっきの声!」
今度はちゃんと耳から聞こえる。店の奥、観葉植物に遮られた向こうから、ちゃんと聞こえる。
「今、そこにプリントしたのはキミへの請求書だ。びた一文マケないからな」
「え、ええ?」
ファックスじゃなかったのか。慌てて印刷された紙を見る。
「ん? 一、十、百……はぁ!? 三億?」
そこに立っていた男の人がクスリと笑う。
「そ、そんな、高すぎる! 払えっこない!」
少年の抗議に観葉植物の後ろから応えがある。
「なに、命の値段としては安いものだ。助けて貰ったんだから、きっちり払ったらどうだ?」
「そんな……だいたい助けてくれなんて言ってない」
「ほほう、よくもそんなことが言えたものだ。わたしが助けていなければ、今頃おまえはどうなっていたことか」
カウンターの内側にいた男の人が、コーヒーをトレイに乗せて店の奥、声が聞こえるほうに行く。
「ありがとう、マスター……少年にも何か飲ませてやって。わたしのおごりでいい」
小さな声が聞こえた。もちろん、あの声だ。
「そんなんじゃ騙されないぞ、だいたい僕は未成年だ、まだ一六だ。保護者の同意が必要なはずだ」
マスターが戻ってきて、オレンジジュースとソーダ水、どっち? と、優しそうな笑顔で問う。その笑顔につられ、ついソーダ水と答えてしまう。
「ふーーん、あんたを襲おうとしたあいつに、同じことが言えるのかい?」
声の主がクスリと笑う。
「いいから、とりあえずこっちに来て座りなよ」
どうしよう……向こうには、またあの影がいるんだろうか? あれは幽霊? そんなもんだ、きっとそうだ。
「怖がらなくて大丈夫だよ」
そう言ってマスターがソーダ水を手渡してくる。綺麗な朱色のサクランボがちょっと嬉しい。でも、怖がるな? だって、影のクセに話しかけてきて、公園の端から宙を飛び跳ねて、このビルまで来たんだよ? 確かに、あの公園にいた何かはもっとヤバかったと思うけど――
および腰で観葉植物を回り込み、向こうを覗いてみる。そこには四人掛けの客席が四テーブル、ステンドグラスみたいなデザインの壁に取り囲まれている。反対側は衝立に仕切られて、グッと広そうで、きっと出口は向こうだ。車が走り去る音が聞こえた気がした。
声がしたほうのエリアのお客は女の人が一人だけ。ノートパソコンを開けて見ている。この人にはあの声は聞こえないんだろうか? てーか、影はどこに隠れているんだ?
と、女の人がパソコンから視線を上げて少年を見た。白い肌、目は黒目勝ちでパッチリしている。真直ぐな長い黒髪を煩そうに、サラっと後ろに払った。大学生かな? 高校生には見えない。どちらにしろ、とっても可愛い人だ……つい見惚れる少年に、女が口を開く。
「少年、何を突っ立っている――座ったらどうだ?」
「え? え? えええーーーーーっ!!!???」
あんた! 幽霊なのかよっ? 幽霊じゃなかったのかよっ!?




