十六
――弓張月の頃。
雲一つない澄み切った空、といえば誰もが心に清廉な感を抱き、清清しく気持ちのいい情さえ起こすだろう。だが、それが星の一つもない黒々とした空であればどうであろう。
月明かりさえ飲み込み、見上げる人の心さえも飲み込むような闇は畏怖さえ感じさせるものがある。
弓張月、又は、破鏡の月。
破鏡とはよくいったもの――名だけでいえば、いや、その意にしても弓張月より合っている。特に今が月の空は。
丑の刻である。
草木も眠る、というのはよく聞く例えだが、鳥や虫でさえ眠っているのか少しの音もなく、風の漣さえもない。または音を出すことを恐れているのか――恐れさせられているのか。そんな静寂に包まれた山頂の社。
そこへ、夜陰に紛れ漆黒の影が降り立った。いや、影ならば黒いのは当たり前だが、それは影自体が本体のように月光でさえも映せない漆黒の姿で佇んでいる。
参拝というわけでもなかろう。漆黒の影には神仏に祈願する態はない。足音さえも出さずするりと歩いていき、そのまま社へと足をつけた。
不遜と怒る者もなかろう――神や仏がいないということではない。人が怒ることはない、ということだ。
いや、と薄く嘲る。怒る筋もない。元より廃れた社ならば。
――そう、元より。
完璧なものなど存在しない。長年の劣化と歴史の変転により場が変化し、その穴は数多くあった。それを広げるだけでいい。隙間ができれば、そこを通るようになる。動きが多くなれば、徐々に隙間は広がっていく。
今の防人なら、その変化にも気づけないだろう。戦が起こっていないことに慣れ、怠惰と堕ちている防人では。そして、変化に気づいた時にはもう遅かった。
防人に直接ぶつけるという手もあるが、物事には順がある。焦らず、力を測ることは大事だ。まずは、名門といわれる力がどれほどのものか見せてもらおう。
破鏡――一度壊れたものは元には戻らず。
破鏡が月の白き閃光が降り注ぐ中、漆黒の影はゆっくりと右腕を上げ――
そして、何の躊躇もなく社へと振り下ろした。




