阪神競馬場②
この前のあかりの的中は、何の論理的根拠もなく運だけでもぎ取った典型的なラッキーパンチ。めちゃくちゃに振り回したパンチが一撃必殺のクロスカウンターなったようなもので、断じてあれがあかりの実力ではない。
しかし、競馬オヤジたちの無責任な褒め言葉を完全に真に受け、自分を天才馬券師だと疑っていなかったあかりにとっては、この現状が余程ショックだったようだ。
この日、ついにただの一レースも馬券を的中させることができなかったあかりは、涙目になりながら捨て鉢気味に叫ぶ。
「もういい! わたし、競馬なんてやめる!」
そして、ふてくされた背中を真嗣にみせつけて、競馬場を後にするのであった。
しかし、真嗣は知っている。
一度、競馬の持つ魔性の魅力に憑りつかれたギャンブル中毒者が、そう簡単にやめられるわけがないことを。
現に真嗣はこの競馬場で、今のあかりのように最終レースすらも当てる事ができずに「競馬なんてやめる」宣言をしてきた負け組オヤジを何人もみてきたが、翌週になるとケロッとした顔で競馬場に来ているのだ。
〝これで、本当に競馬をやめてくれると助かるんだが……〟
しかし、真嗣のそんな淡い期待はあっさりと裏切られることになる。
翌日の日曜日の朝。真嗣が阪神競馬場を訪れると、やはりそこにはあかりの姿があったのだった。
〝先生、やっぱり来てたのか……〟
脱力感に見舞われながら、真嗣はあかりに近寄る。
「バンザーイ! バンザーイ!」
しかし、あかりは真嗣の姿など気にする様子もなく、一心不乱にひとりで叫びながら、バンザイの仕草をくりかえすのだった。
「万馬券が当たったわ~!」
あかりはそう喜びの声をあげるのだが、時刻はまだ午前十時前。まだ第一レースさえも始まっていないのだ。
昨日の目も当てられない大敗で、あかりは本当に精神に異常をきたしてしまったのだろうか。真嗣は本気で心配して、声をかける。
「先生、どうしたんですか?」
「やったわよ! 宇高くん。さっきからずっと万馬券が当たりっぱなしで、昨日の負けなんてすぐに帳消しよ!」
すると、あかりは満面の笑みで真嗣に抱きついてくるのだった。
「先生、何やってるんですか!」
やはり、男の自分とはまるで違うやわらかなカラダの感触に真嗣は耳まで真っ赤にして、慌ててあかりを引き剥がす。
「なにって、予祝よ。予祝!」
「よ、予祝?」
予祝とは、夢や達成したい目標を先に祝う事で現実のモノにしようとするスピリチュアル界隈のゲン担ぎで、もともとは豊作などを祈る農民たちの農耕儀礼だったいう。
どうやら、あかりが先程から大声で叫びバンザイをくりかえしているのは、万馬券が当たった時の予祝だったようだ。
「わたし、気づいたの。昨日までのわたしに足りなかったのは、競馬の知識やセンスじゃないの。自分が喜んでいる未来を思い描く想像力。自信なの!」
そう真嗣に力説するあかり。
〝いや、先生は自分の馬券が当たるはずだという(根拠のない)自信だけは最初から一人前でしたよ〟
そして、今のあかりにとって最も欠如しているのは、自らを客観視する冷静さだと真嗣は思うのであった。
「さぁて、今日は昨日の負け分を取り返すわよ!」
そう意気込むあかり。しかし、競馬は運はもちろん、豊富な知識はもちろん、冷静かつストイックな立ち回りに徹しなければ、儲けることができないギャンブル。
いくらスピリチュアルなゲン担ぎをおこなったところで、劇的に収支が改善されるはずなどない。
第1レース開始前こそ意気揚々としていたあかりだったが、昼前になる頃にはその勢いは穴の開いた風船のようにしぼんでいくのだった。
「お願いだから、残ってよぉ……」
午前中の威勢のよさはどこへやら、昨日までの「残れ!」から「残ってよぉ……」という言葉遣いの変化から分かるように、午後になると馬券購入馬に対する応援の激もチカラのない声音になっていくのだった。
「また、負けた……」
昨日から続く連敗記録をまたひとつ更新し、あかりは地面にへたりこむ。
全身から悲しみと諦観の感情を発散させているあかり。そして、なにやらA4サイズの紙片を取り出すと、スマホをかざしてQRコードを読み取ろうとするのであった。
「先生、その紙は何なんですか?」
「ん~、さっきの昼休みになんかサングラスかけたヒゲのオジさんがくれたの」
真嗣もその紙片をのぞいてみると、そこにはやたらと勇ましいレタリングで「神のお告げが聞こえる男・『グリーンウェル矢野』があなただけに教える厳選の穴馬情報」という文字と不敵な笑みを浮かべて腕組みをしている中年男性の写真が掲載されているのであった。
そのあまりの胡散臭さに、即座に紙片をあかりから奪い取る真嗣。
「ちょっと、なにするのよ! 宇高くん」
「先生、こんなあからさまに怪しい情報商材なんか信用したらダメです。お金をむしり取られるだけですよ」
「ちょっと、いくら宇高くんでも今の発言は聞き捨てならないわね。グリーンウェル矢野がせっかく絶対に当たる厳選穴馬の情報を今なら通常の五割引きの値段で教えてくれるのに、ケチをつける気なの?」
グリーンウェル矢野と名乗る怪しいオッサンに対しての異常な信頼感をみせるあかり。そして、カバンの中から一冊の本を取り出すのだった。
「昨日だって、わたしは本屋でグリーンウェル矢野の競馬本を買ったばかりなんだからね!」
その本は『予祝で馬券は当たる』といタイトルで、帯には「穴馬券で奇跡を呼び込む男・グリーンウェル矢野による渾身の馬券本」という煽り文が書かれているのであった。
〝予祝もこのオッサンの影響だったのか!〟
しかし、いくら真嗣が押しの弱い性格で、今まであかりに対して遠慮がちだっといえ、ここで引く事はできなかった。
「いいですか。先生。日本の競馬の配当金は『パリミュチュエル方式』でその額が決定していします。簡単に言えば、売り上げが1億円だった場合、控除率が25パーセントなら2500万円を胴元が持っていって、残りの7500万円を配当金として的中馬券の購入者が分け合う――。それは分かりますよね?」
「なによ。それくらい、わたしだって理解しているわよ」
「それじゃあ、絶対に当たる穴馬の情報を持っていたとしたら、他人に教えて配当が下がるなんて馬鹿らしいと思いません?」
「うっ……たしかに」
「もし、俺が本当に絶対に当たる穴馬を知っていたとしたら、その情報を大量の他人に教えてオッズを下げるよりも、独占してひとりで美味しい思いをしますけどね。こうやって色々な手間をかけて情報商材として売っている時点で、その穴馬の情報は絶対ではなくて、はずれる可能性があるリスキーなシロモノってことですよ」
そんな真嗣の容赦ないひとことが決定打となったのだろう。
「じゃあ、どうすればいいのよ……?」
最後の望みが断たれ、まるで飼い犬に叱られた仔犬のようにしょんぼりとうな垂れるあかり。
その姿を見ていると、真嗣は心臓がキュッと縮まったような胸の痛みに晒される。当初は、なんとしても、あかり競馬をやめさせなければならないと責任を痛感していた真嗣。しかし、もはや競馬の沼にどっぷりハマりこんであかりをやめさせるのは不可能だと悟る。いる。そして憧れだった女教師が競馬をしている時はこんな姿にさせたくないと心の底から思ったのだった。
「先生、少し待っていてください」
「へっ? 宇高くん、どこへ行くの? トイレ?」
「違います。あと、阪神競馬場の次のレースは俺が戻ってくるまで絶対に馬券を買わないでください!」
そして、真嗣は速足で駆けて建物の外に出て行くのだった。
数10分後、真嗣はフードコートに戻ってくる。
「先生、次のレースは④番の『トッテモエイバット』から買ってください。それから、1番人気の⑩番『マッハデラクルーズ』は買わなくてもいいです」
「へっ? ④番の馬ってあんまり人気がないけど、いいの? それに⑩番の馬も単勝2.9倍でかなり人気してるけど、本当に買わなくていいの?」
「ええ。今回だけは俺を信用してください。それから、④番の馬以外では⑫と①番の馬がよく見えました……」
「わ、わかったわ」
そして、あかりは真嗣のアドバイス通りに買い目を構築する。
すると……
『勝ったのは④番トッテモエイバット。これは強い。2着は⑫番と①の写真判定。一番人気のマッハデラクルーズは四着でしょうか』
真嗣の推奨した馬たちが全て馬券圏内である3着に入着した一方で、逆にお勧めしなかった⑩番の馬が圏外に飛ぶ。あまりにも出来すぎな結果だったが、それでも何とか仕事をすることができて、真嗣はほっと胸をなでおろす。
「すごーい。宇高くん。どうして、勝つ馬が分かったの?」
「競馬場にはパドックって場所があるのは知ってますよね?」
「ええ。レース前に出走馬を周回して歩かせるための小さなトラックよね」
「ええ。じつは俺、そのパドックでこのレースに出走する馬を全頭、眺めていたんですけど、人気をしていた⑩番の馬は毛ヅヤを悪くて、発表された馬体重の数字以上にガレ(痩せ)ているような印象を受けました。逆に、穴をあけた④番の馬は馬体がよかったのもありますが、いつもはレースになると興奮しすぎて目が血走ったようになっているのに、今日は妙に落ち着いていました。これは5走前にこの馬が勝った時と同じ状態だったので妙味があると思ったんですよ」
「でも、わたしはパドックを見たって、その馬の調子なんてまるで分からないわよ。どうして宇高くんはそこまで正確に把握できるの?」
「じつは、俺の祖父は北海道の競走馬を生産している牧場の従業員だったんですよ。それで父親の仕事の関係で、俺も2年前までその祖父に育てられていたんですよ」
「だから、競馬が好きで、騎手志望だったの?」
「ええ。小学校1年生の時から約7年半、祖父や祖母と一緒に牧場内にある家族寮で暮らしていたので、いつのまにか俺自身も馬が好きになって競走馬と戯れる生活をしていました。だから自然と、馬体を見ればだいたいの健康状態や調子が分かるようになっていったんですよ」
「凄いのね。宇高くんって……」
「いや、でも、普通に都会で暮らしていたら何の役に立たない特技ですよ」
謙遜気味にそう語る真嗣。しかし、あかりは「そんなことないわよ。立派な特技じゃない! とっても役に立つわよ!」と力強く否定する。そして、キラキラと瞳を星の光のように輝かせるのであった。
立派な特技。とっても役に立つ――。そのあかりの言葉に嘘偽りはないいだろう。そして、この真嗣の唯一と言ってもいい特技をあかりがどのように役立たせるかは、深く考えなくても簡単に想像がつくのであった。
翌週のある日の平日。
学校で6限目の授業が終わると、真嗣はあかりに呼び出される。
「ねえ、宇高くん。放課後はあいてる?」
頬を赤く染めて、上目づかいで真嗣の顔を覗きこむあかり。
「あいてるなら、今日もわたしの家に来てくれない?」
そして、真嗣の手を両手でしっかり握りしめると、部屋の合鍵を渡すのだった。
「いつでも好きな時に来て❤ わたしはいつでも待ってるから……❤」
艶やかなサンゴピンクのくちびるから漏れる熱い吐息と甘いささやき。その女教師の挙措は健全な男子高校生の妄想を膨らませ、平常心をかき乱すには充分だ。
「…………」
しかし、真嗣の心はまったく踊らないのであった。
「それで、宇高くんはこの馬の調子はどう見るの?」
「うーん。1週間前のコメントでは『怪我から復帰戦だけど、問題ない』とは言ってるんですけど、俺の眼にはあきらかに休養前のいい頃の状態に戻ってるようには見えないです。問題ないってのはあきらかに建前だと思うのでで、ここは軽視でいいと思います」
ひとり暮らしをしているというあかりのマンション。
つい数週間前までズブの素人だったはずなのに、あかりは「グリーンチャンネル」という有料放送の競馬専門チャンネルを契約。そして、真嗣は延々とその番組内で流れる週末のレースに出走する馬たちの調教映像をみせられ、評価を求められているのだった。
「あの、先生、俺、もうそろそろ帰っていいですか?」
「あ~ん。ダメ~。ねっ? おねがい。晩ごはんは何でも好きなの注文してくれていいから、帰らないで~」
「わ、分かりました」
結局、押しに弱い真嗣は断り切れずに夜遅くまであかりに付き合わされるのであった。